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竜の心臓移植 (旧題 ある竜の転生)  作者: こげら
三章 ある罪の報酬
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<19>


 急転直下。


 事態は唐突に解決へと向かった。


 犬上が意固地なまでに犬神の存在を否定しない以上、犬神を頑なに肯定する以上、彼を説得することによって解決を望むのは最早困難かに思われたが、しかし犬上は、再三述べてきたように、どこまでも善良な人間なのだった。


 自らの信条を貫くことで他人が傷付くのなら、彼は信条の方を曲げる人間だったということである。


 ――僕は、主人の首筋に喰らい付こうとする犬神と、飼い犬に生命を投げ打った犬上の間に割って入った。強化されたダッシュ力と、縁の大気を操作する精霊術の相乗効果によって、犬神が復讐を果たすより早く、僕はその場所に到達した。


 四月の終わり、勇者の現れたあの晩の成功例、と言うより失敗例を、今回は縁の力も借りてだが、踏襲した形である。


 いや失敗した事例を踏襲しちゃ駄目じゃん、というツッコミは尤もだ。僕自身もそう思う。格好付けて精霊術との相乗効果、なんて言ってみたが、実際のところは、高密度に圧縮された空気の塊を背中に思い切りぶつけられて、推進力を得ただけなのである。


 正直、かなり痛かった。多分、骨の二、三本は折れている。よく漫画や何かで、『あばらの二本や三本、大したことない。』なんて台詞が出てくるが、リアルだとあれはかなりの重傷である。位置と折れ方によっては、折れた骨が肺を圧迫してしまうこともあるだろう。何を根拠に言っているのかって? 今の僕が丁度そんな感じなのだ。


 息が苦しい。


 ――僕が衝撃の余りの強烈さに、『ごふぇっ』という、何ともみっともない呻き声をあげてしまったことは言うまでもなく、毎度のことながらもう少しスマートな解決方法を思い付けないものかと、自分の想像力の乏しさに呆れるばかりだった。


 ただ今回に限っては、作戦なんて高尚なものではない軽率な僕の行動は、結果として正解だった。


 勝算がゼロだったわけではない。もしかしたら活路があるかもしれないなあ、あったら良いなあ、くらいの気持ちではいた。


 当然、そんな無策、とは言わずとも、賭けのような、無謀な真似をしたのは、僕の体が今現在異常なまでの治癒力を得ているからなのだが、驚くべきことに、そして喜ばしいことに、犬神の鋭い牙が僕の体を捉えることはなかった。


 本当に喜ばしいことである。常人にとっての致命傷レベルの負傷はある程度覚悟していたが、しかし覚悟していたからといって、痛みが軽減されるわけではない。治癒力が高まっているとは言っても、痛覚が鈍感になっているわけではないのだ。痛いものは痛い。相手が犬神などという身の丈を上回る獣の化物なら尚更である。多分、死ぬほど痛い。


 だから、犬神が僕の喉笛を噛み千切る寸前で停止したことは、僕にとっては喜びでしかない。歓喜とさえ言える。


 ……と言うか、首落とされたら、もうそれはアウトだったんじゃないのか? 流石にそれは回復しないんじゃ……。


 なんて可能性に後から思い至って、急に冷汗が出てくる。


 危ねえ! ついうっかりで死んじゃうところだった!


 笑い事ではない。人間離れした治癒力を得ているとは言え、化物に匹敵する回復力を備えているとは言え、流石に首を落とされても生きていられるという保障は、その状態から再生するという保障はどこにもないのだ。それはきっとあの魔女でさえ、把握していない。何せ前代未聞のことである。


 僕の体に起きた変化を正式に把握しなければならない、と最近反省したところだが、こと治癒力に関しては、中々確かめ難い項目である。どこまでがセーフでどこからがアウトか、なんて確かめようがない。と言うより、生死の境界線を確認した瞬間に僕が死ぬ。僕が死んだその地点こそが、生死の境界だ。それでは確認した意味がない。


 そもそもそんな痛そうな、拷問みたいな実験はしたくないしな。


 僕は痛いのもグロテスクなことも大の苦手なのだ。


 さておき、しかし今回は助かった。犬神の牙が丁度頸動脈の通っている辺りに当たっていて、犬神の生温い息が呼吸の度に首を撫でて、助かった気も生きた心地もまるでしないが、賢いお犬様とお優しい飼い主のお蔭で、僕の首はまだちゃんと繋がっている。


 ぴくりとも、犬神は動かない。時間が止まったみたいに、硬直している。


 ――犬神が停止した瞬間、僕は今回の件に於いて全員が無事に終わる決着を確信した。勝利、とは言えないのだろうが、これで犬上と、ついでに僕も死なずに済む、と。


 「おい、犬上。」


 犬神の上顎と下顎に挟まれたままの僕は言う。今にも上下の顎がくっついて、首が裁断されそうだが、気にしないことして、交渉に失敗した僕は、手段を脅迫に切り替える。僕に相応しい、卑劣な方法だ。


 「お前がこれに喰われる気なら、僕はそれを全力で阻止する。今みたいに何度でも間に割り込んで、邪魔してやる。そうだな。チャンスがあれば反撃して、力ずくで成仏させてやろうか。」


 冗談ではない。もし犬上が僕の脅迫に屈しないのなら、本当に力づくで犬神を破壊しなければならなくなる。プランBは、事実上存在しない。


 「何言ってる、伊瀬! そんなこと出来るわけがない。そんなことしたら、お前が殺されちまう。」


 「かもな。こんな化物の相手したら、死ぬかもしれない。」


 出来るだけ暢気に、軽口を叩くように、挑発するように。


 「何を」


 反論の余地を与えず、聞く耳を持たずに。 


 「犬上。お前はそんなこと許す奴じゃないよな。だから犬神は止まったんだよなあ。」


 犬神は犬上の生み出した異形だ。一見そうは見えないが、犬上の意思に、無意識に従っている。だから、犬神は彼の望まないことは絶対にしない。建前にしろ本音にしろ、犬上は僕が死ぬことを絶対に望まない。術があるのなら、どんなことをしてでもそれを防ごうとする。


 僕の知る犬上は、そういう男だ。どこまでも優しく、善良で、正しい人物だ。


 ――僕を人質にした脅迫に、犬上はあからさまに狼狽えた。彼にとっては、僕如き人物にも人質としての価値があるのだ。


 「おい、犬神。」


 今度は、左手で首を傾げた犬神の鼻先を掴んで言う。


 「どうした。止まる必要なんてないだろう。このまま僕を噛み殺して、その後に犬上を殺せば良い。それでお前の積年の恨みは晴らされる。身の内が焼けるくらいに怒ってんだろ? はらわた煮えたぎるくらい憎んでるんだってな? だったら何で、躊躇ってんだよ。そんだけ憎いってんなら、僕なんてとっとと噛み潰して、悲願とやらを叶えたらどうだ?」


 大丈夫だ。大丈夫なはずだ。冷汗が止まらないくらい怖いが、どんなに挑発したところで、犬神は僕を殺せない。犬上は僕を見殺しに出来ない。


 この状況に持ち込んだ時点で、犬上はもう詰んでいる。最早彼らに打つ手はない。犬神は解呪される。


 これにて一件落着。何ともはっきりしない、解決と言ってしまって良いのかと疑いたくなるような結末ではあるが、これ以上僕にできることはなにもない。


 まあ、これ以上も何も、僕は今回ほとんど何もしていないようなものだ。微妙なアレンジはあったが、オリジナルの解決策を提言したのは縁であるし、犬上が手遅れになる前にぎりぎりで間に合ったのも偏に縁の功績である。


 僕のしたことと言えば、知り合いくらいにしか思っていないただの同級生に、自己犠牲精神溢れる勇気ある若者に、偉そうにお節介な横槍を入れたことくらいだ。嫌がらせ、くらいのつもりで、学校一の人気者の崇高なる計画を邪魔しただけだ。


 ざまあみろ、という感じである。犬上祐という選ばれし人間の、恥ずかしい失敗を拝めて、極めて優秀な彼の愚かしい一面を見られてラッキーという感じである。


 ――犬上はいつだって善良だが、しかし何事も過ぎたるは及ばざるが如し、である。盲目的な善意はやはり狂気でしかない。その凄まじいまでの善性は尊いことだと思うけれど、建前のために死ぬなんて、しょうがないから命を諦めるなんて、どうしようもなく愚かだ。無頓着にも程がある。嫉妬はするが、憧れはしない。


 彼は自らの価値を正しく認識するべきである。犬上祐という逸材がいなくなることで、一体どれだけの人間がどれだけ迷惑するのか、困惑するのか、悲しむのか、まるで分かっていない。


 そこが彼の欠点だ。数少ない、ほとんど無に等しい欠落だ。


 自分の貴重さに、希少さに、重要さに、無自覚なことほど重い罪はない。彼には、彼を慕う人間が山ほどいるのに、それではあまりにも無責任だ。


 犬上はいい加減気付くべきなのである。呪いなんて思い込みだとわざわざ僕に指摘されるまでもなく、自分がそういう星のもとに生まれた人間であるということを。自分がどれだけ魅力的で、人に愛されているのかを……。


 人気者には人気者の責任があるはずだ。そうでも思わなければ、僕のような人間がやってられなくなってしまう。


 もし人間の命に価値というものがあるのなら、犬上祐の命の重みは、きっと僕の知る誰よりも重いはずだ。それを彼はもっと自覚するべきだ。それが責任というものだ。


 「――犬上。お前の人生がいつもいつも上手くいくのは、お前がそういう人間だからだ。お前のことを誰も疑わなかったのは、お前がいつだって信用されるようなことをしてきたからだ。僕がお前を庇おうとしたのは、お前が誰にでも優しい奴だからだ。全部、お前がしてきたことの結果だ。全部お前の責任だ。それを何かの所為にしようとするな。」


 そんな理由で命を捨てるな。


 「お前、僕が死ぬことが許せないんだろ? お前のために誰かが傷付くことが耐えられないんだろ? だから犬神なんてものが生まれちまったんだよなあ? だったら気付けよ。お前が死んだら、一体どれだけの人間が傷付くと思ってる。それがお前にとって正しいことなのか? そういう、人の想いを無視することが、本当に正しいのかよ。」


 とうに朽ち果てた罪への償いと、自らを慕う者たちに応えること。どちらが大切かなんて、比べるまでもないだろう?


 自己犠牲を解決の手段にして良いのは、誰からも想われていない孤独な人間だけだ。そして犬上祐は、孤独に最も遠い男だ。彼の死は、多くの人を不幸にするだけの威力を持っている。化物を生み出してしまうくらいに誰かの不幸を思いやることの出来る彼が、死を受け入れるなんて矛盾以外の何者でもない。


 「なあ。お前にはまだ、犬神なんて幻想が見えてるのか?」


 ――決着。


 「……ああ、……犬神なんて、見えないよ。初めから、そんなものはいない。」


 犬上は脅迫に屈した。僕は脅迫に成功した。


 スマートさの欠片もない、強引な解決である。犬上の優しさに付け込んだ卑劣なやり方である。ずるいと言われても、卑怯だと罵られても文句は言えない。ただ、犬上に対してはこれが一番効果的だった。


 「かっ。やはり人間は、いつの時代も勝手よのう……。」


 ――生みの親であり、唯一の信奉者である犬上に存在を否定された犬神は、それだけ言い残し、灰となり、呆気なく儚く形を失った。犬上の言葉通り、初めから、そこには存在していなかったかのように。


 残ったのは、頭から尻尾の先まで一式揃った、一匹分の獣の骨格だけだった。空想でも妄想でもなく、実体としての、実物としての、百年以上も前の犬の亡骸。


 こうして全身のパーツが揃った姿を見てみると、思っていたよりもずっと小さい。こんな小さな命の残骸が、一人の人間の信仰を得て、あれだけの化物になってしまっていたのかと思うと、縁も言っていたが、改めて想像を絶する。


 「――これで終わりだ、犬上。今回のことは、何もかも。」


 犬上を諭しながら、実体を失った、犬神の本体、或は神体とでも呼ぶべき、しかして実際はただの犬の頭蓋骨でしかないものを拾い上げる。


 「思ったより軽いな。」


 「い、伊瀬。そんな軽々しく触っちゃ」


 不用意に犬神の頭蓋骨に触れると、体を乗っ取られる。それが犬上の作ったルールだ。犬神について調べていく中で、彼が無意識に作り上げた法則であり空想だ。現実ではない。


 「憑かれねーよ。僕はお前みたいに、信心深かねえんだ。それに言っただろ。全部勘違いだって。」


 そう。全ては思い込み。思春期の高校生が生み出してしまった、痛々しい幻想に過ぎない。今回はたまたま現実に影響を及ぼしてしまったようだが、所詮は妄想の延長だ。若気の至りだ。そんな一時期の気の迷いみたいなもののために命まで懸ける必要はない。


 確かに、生贄にされた犬は可哀想だが、それも昔の話だ。今更哀れんでも仕方がない。哀れみなんて、いや哀れみに限らず、死者に届くものなんて、何もありはしないのだ。


 きっと犬上は、他者の命を奪って自らの益としたという事実そのものが赦せなかったのだろうが、その罪に対する罰を誰も受けていないことが許容できなかったのだろうが、そんなものはもうとっくに時効だ。犬上が認めなくとも、僕が認める。犬上の正義に反しようとも、彼の信条を打ち砕くことになろうとも、それで命を失わずに済むのなら、迷うことなんて何もなかった。人の命に比べれば、正義なんて果てしなく下らない。


 犬上祐は正しさのためならば、自分の命までをも捨てることの出来る人間であり、僕がそうではなかったということだろう。何もかもが違う僕と犬上とでは、その部分の考え方が、決定的に異なっている。


 その点で僕たちは決して相容れないが、しかし今回のことではっきりしたこともある。


 犬上は死を恐れ、命を惜しむ人間であるということだ。最終的には命を捨てる選択をした犬上ではあるが、それもやむなく、止むにやまれずという前提があっての話だ。


 僕が正義のヒーローみたいに憧れ、雲上の存在だと感じていた学校一の人気者は、僕たちと同じように、自らの死を躊躇う、普通の人間であるということが明らかになった。


 その事実に気付いた時、僕は確かに安堵した。ああ、こいつにも怖いことがあるんだな、なんて暢気にも、安心した。もしかすると、犬上祐は僕たちとは全く別な生き物なのではないかとさえ思っていたが、それこそ僕の生み出した妄想、それも質の悪い、被害妄想だったのだ、と。


 「――これは僕が適切に処理するよ。」


 適切な処理の仕方なんて知らないが、かと言ってこの後のことを犬上に任せるわけにもいかない。僕という人質且つ邪魔者がいなくなった途端、彼が計画を続行する可能性も十分考えられる。思い込みの根拠、信仰の核心である犬神の骨格さえあれば、犬神を否定することによって消滅させたのと同じように、彼はいつだって、信仰を取り戻し、復活させることも理論上は出来るはずなのだ。だからこれは、僕が片付ける。


 ――さておき、今回の出来事で何らかの救いがあったかと言われれば、僕はないと答えるしかない。僕や犬上、或は他の誰かが今回のことを通して何かを得たわけでもない。ただ単に、誰も何も失わなかったというだけだ。強いて言えば、これまでの平和が、そして犬上祐にとっては退屈が、これからも続くということが、今回の報酬である。尤もそれは僕にとって、報酬と呼べるほどに価値のあるものとは言えないのだろうし、犬上にとってはもしかすると苦痛の継続を意味するものなのかもしれない。


 だけど、僕はこれで良かったと思うのだ。だって、彼のような人間がいてくれることこそが、僕にとって、そして多くの人々にとって救いなのだから。


 皆の憧れを受け、期待に応え、善を勧め悪を懲らしめる正義の味方。そんな理想、救いを知っているからこそ、きっと僕たちは息の詰まるこんな鬱屈とした世の中で生きていられるのだ。


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