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竜の心臓移植 (旧題 ある竜の転生)  作者: こげら
三章 ある罪の報酬
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<18>


 万が一と縁は懸念したが、しかし犬上の人物像を考慮に入れれば、その事態は当然予期されて然るべき、十分想定し得る事態だった。犬上の度を過ぎて善良な人間性を考えれば、彼のその行動は、寧ろ自然とさえ言えた。


 ――僕と縁は飛んだ。全速力で、夜闇を切って、身を削ぐように、ただ真っ直ぐに飛んだ。身を削ぐように、と表現したが、これは決して比喩ではない。大袈裟な話ではなく、余りの速度に僕の体の数か所に掠り傷のようなものが発生したのである。


 ……人って空気にぶつかるだけで切れるんだなあ。まあエアカッターなんてものがあるんだから、それも当たり前か……。


 勿論、そんなリアルな意味で身を切るほどの、規格外な飛行速度に対する恐怖心を僕が克服していたわけではなかったが、犬上の身に危険が及ぶ可能性があると知れば、それは大した問題ではなかった。彼の命が掛かっていると思えば、些末な痛みだった。


 ――縁は彼の広大な犬上邸に降り立った。


 真新しい緑の美しい庭園は、灯篭の柔らかな光と月明かりに照らされ、輪郭を朧にしている。


 快適とは言い難い、湿気に満ち満ちた夜だった。日本の夏なんて、いつもそんなものなのだろうが、それでも今宵はいつにも増して、じっとりとじめじめと、生温い空気が肌に纏わりつくようである。虫の音一つ聞こえず、断続的な水音だけが響いて、気味が悪い。


 その気味の悪い空気を生み出しているのは、何を隠そう犬上なのだった。


 「犬上っ!」


 僕は犬上に声を掛けた。人の身の丈を優に上回る、灰色の犬の神様と対峙する犬上に。


 ――すらりと伸びる流線型の四肢。光を乱反射する繊細な獣毛。真っすぐに立つ両の耳。周囲を睨め付ける、忌々し気な眼。大柄な犬上と比べても、遥かに大きい。


 灰の犬神。成程確かに神と畏れられるだけのことはある。怖気を震うくらいに不気味で、寒気がするほど不吉ではあるが、同時にどこか神秘的で厳格さを秘めている。竜の荒々しさとはまた別な美しさ、優美というのがまさに相応しい。禍々しさと神々しさが微妙な均衡を保って、同居している。


 これが一人の人間によって生み出されたとは、ただの、とは今となっては言い難くなってしまったが、僕の同級生が創り出した思い込みの産物だなんて、とても信じ難い。


 犬上はやはり、縁の言う通り、普通ではなかった。こんな異常なものを生み出してしまうくらいに、異常で、狂っている。


 「ああ、伊瀬。来たのか。それもド派手なご登場だ。」


 「そんなこと言ってる場合じゃねえだろーが!」


 悠長に挨拶なんてしている場合ではない。だって、彼の神、彼だけの犬神は、今まさに生みの親であるところの犬上祐を狙っているのだ。その命を奪おうとしているのだ。


 『――鎖を解かれた猛犬がまず初めに誰に襲い掛かるかなど、火を見るより明らかじゃ。』


 犬神が最初に狙うのは、飼い主。そしてこの場合、飼い主となるのは間違いなく犬上祐だ。曲がりなりにも神の名を持つ強力な悪霊は、溜まりに溜まった怨念をここぞとばかりに吐き出そうとする。自らを縛り付けてきた憎き一族の末裔に復讐しようとする。そうなれば彼の者の命はあるまい。


 縁は僕にそう説明した。


 ――縁の危惧した万が一の事態。犬上祐が、犬神を解放すること。


 『己が身命を顧みず、彼が鎖を断ち切る者の現れんことを。』


 あの古地図の警告文にはそう記されてあった。己が身命を顧みず、つまり自らの命を捨てて、縛り付けられた犬神を解く人間の出現を期待して……。


 そして犬上はその期待に応えようとしている。命をなげうって、犠牲にして、犬神に積年の恨みを晴らさせようとしている。


 前回僕がこの家を訪れた時より、事態は進行しているようだった。勿論、言うまでもないかもしれないが、悪い方に、である。


 犬上は犬神を解き放った。生き埋めにされ、封じられた犬神の、胴体部分を掘り起こすことによって彼の鎖を解いた。


 ――少なくとも縁の知る限りでは、数万の年を生き、人間の営みを観察し続けてきた有識者である竜の知る限りでは、地中に埋めた犬神の胴は、掘り起こしてはならないことになっている。それは、決して破ってはならない犬神の禁忌である。


 禁忌と呼ばれるものの御多分に洩れず、犯した者は報いを受ける。――死、という生物にとっては究極的な形で報いを受ける。


 僕は呪いだとか神様だとかオカルトだとか、その辺りの事情には全く明るくないのでよくは知らないが、犬神の伝説ではそう語られているのだそうだ。そして犬上もまた、犬神についてここ数日虱潰しに調べ尽くしたであろう彼もまた、そう信じ込んでいるはずだ。


 ――こんな事態になっているのだから。


 今僕たちの前にいる犬神は、犬上祐が犬神を知っていく中で構築されたイメージの権化だ。


 別れ際に犬上は言った。もう少し、調べてみる、と。そして調べた結果、有能な彼は、有能過ぎるがゆえに、或は彼特有の超人的な直感が働いた所為で、見つけてしまったのだろう。蔵の中に残された情報とやらを、発見してしまったのだろう。犬上は恐らく、先程別れた後、犬神の禁忌を知り、それに触れた。

どういう意図があってかは知らないが、彼には彼なりの事情があるのかもしれないが、全く馬鹿馬鹿しいことだ。


 「犬上っ! そんなものはいない! 犬神なんてものは初めから存在しない! それは、お前が生み出した、ただの妄想だ。」


 お前が、いないと存在を否定してしまえば消えてしまうような、儚く淡く脆いものだ。


 逼迫した状況に焦りつつも、僕は縁の提案通り、説得を開始した。


 ――縁の提案した解決策は、犬上に犬神の存在を否定させる、という酷く単純なものだった。僕が説得に成功しさえすれば、彼に犬神など存在し得ないと納得させられれば、それだけで犬神は存在を保てないのだという。


 そんな簡単な方法で解決できるものなのか、とも思ったが、しかし犬神の出自を考えれば無理のある論法でもない。あれは犬上が、犬上一人によって生み出した空想なのだ。如何に実体を得る程に膨張した妄想なのだとしても、実害を及ぼす程に肥大化した空想なのだとしても、所詮は絵空事だ。生み出した張本人に否定されれば、存在を維持できない。犬上が正しく現実だけを見れば消えるはずだ、という理屈である。


 「ほう。人間。儂がいないと? この儂が、この小僧の生んだ、ただの妄想だと?」


 ――しかし僕の説得に答えを返したのは、意外なことに犬上ではなく、巨大な犬の姿をした怪物だった。余りにも耳馴染のない、深く厳めしい声色と、声の主が犬神であることに、もう少しで情けない声を漏らしてしまいそうになるくらいに、ぎょっとした。


 ……喋る……のか。いやまあ声を聞いてしまった以上、それ以外に考えられないが、しかし何というか、凄い違和感だ。


 獣の口から日本語が発音されるなんて、縁の時はそれ程でもなかったが、大きさこそ現実離れしているとは言っても、実在する動物の形をしたものが人語を介するなんて奇妙以外の何者でもない。犬上という日本人が生み出した化物なのだから当たり前なのかもしれないが、そういう理屈抜きに、異様と感じてしまう。


 首筋を押さえ付けられるような不気味な声が、その異様さを助長している。


 竜ほどではないにしても、体が強張るくらいには十分恐ろしい。何より、犬上の命運がかかっているのだ。四月の時とは、また違ったプレッシャーがある。


 「おい、お主。これは中々厄介なことになったぞ。」


 ――縁が耳打ちする。


 厄介なことになった? そんなこと言われるまでもなく、とっくに厄介な事になってんだろうが。何だよ、あのおどろおどろしい化物は。普通に怖いよ聞いてないよ!


 「あれは予想以上じゃ。予定外じゃ。あんなもの、予期できるはずもない。本当に、お主の友人はどうなっておるのじゃ。」


 「知らねーよ。と言うか、友人じゃねえ。」


 この緊張した場面でそこは果たして重要か? と言う指摘にはこうとだけ答えよう。


 重要です。


 「で、どうすりゃ良いんだ。何て答えりゃ良い。」


 と言うか、あれと会話して言いものなのか?


 「うーむ。お主、あの姿がはっきり見えておるのじゃろう?」


 「当たり前だろ。あんなデカいもんが見えないほど、僕の視力は悪くないよ。」


 体高で言えば、平屋建ての天井と同じくらいはある。


 「しかも声まで聞こえておる、と。」


 どうやら僕の返答は、えらく的を外したものであったらしい。


 竜と人間とでは、見え方が違う。縁が聞いているのは、人間であるお前に、人間でしかない僕に、感度の低い人間の目でさえあれが見えているのか、ということだ。


 「普通は見えないし、聞こえないものなのか。」


 「そうじゃ。言ったじゃろう。一人の人間が生み出す精神世界などたかが知れておると。」


 あの怪しい話。確か、幽霊を例に挙げていた。ある人物が恐れのあまり本物の幽霊を生み出したとしても、全く同じものを別な人間が認識することはない、だとか。


 「……え、いや、でもあれは。犬上の生み出した、幽霊ではないにしても、それに類するものなんだろ? それが何で……」


 何故、僕に見えている?


 「じゃから、予想以上じゃと言っておるのじゃ。あれだけのものが、あれだけはっきりと実体を持って、人に語り掛けるなど、想像を絶することじゃ。」


 あれはもう、物質的に存在している。だから、犬上のイメージも、部外者である僕に正しく伝達している。物質的に、つまり炭素だとか水素だとかの原子やら分子やらが集まって、タンパク質だとか脂肪だとか水だとかを構成して、例えば僕たち人間と同じように存在しているというのなら、それはイメージや妄想の域をとっくに脱している。幽霊などより余程高等だ。


 犬上は犬神を、固く、頑なに信じ込んでいる。


 「人間。儂が空想の産物だと言うのなら、この身の内を焼くような怒りは何だ? 煮えたぎるような、この醜い憎しみは何だ? お前はこれを、どう説明する。」


 「……それは……それも、犬上の思い込みだ。――お前なんていない。だから、お前のその感情も存在しない。勘違いだ。全部。」


 お前に感情があるとするならば、それは全て、犬上のもののはずだ。


 「全部? はっはっ。儂の全てが思い込みと言うか。――では人間。お前は今、何と話しているのだ。誰からの問いに応えている。お前は人の妄想と語らうことが出来るというのか?」


 「……。」


 僕の感情的な発言は、完全なる失言だった。失着だった。犬神に付け入る隙を与えてしまった。犬上に犬神がいないと信じさせるには、僕はこの犬神と一言でも言葉を交わすべきでなかった。


 「――なあ、伊瀬。俺はさ、償わなくちゃならないことってあると思うんだよ。」


 犬神の追及に沈黙した僕を庇う様に、犬上は語り出す。その姿は、夕方会った時とは打って変わって、堂々としていて、いつにも増して肝が据わっているように見える。覚悟は既に、決まっているように見える。


 「生き物ってのは、多かれ少なかれ他の生き物を殺さなけりゃ生きてけないんだろうけどよ、俺はそれを罪とは思わないけどよ、それでも限度ってもんがあるだろ。……なあ、お前は知ってるか? 犬神の、作り方を。」


 犬神の作り方。生きた犬を極限まで飢えさせ、頭だけを出して生き埋めにし、その頸を狩って火にくべる。


 「そりゃあ流石にないだろう? 殺した相手の首を崇めて、奉って、それで財を築こうなんて、酷すぎる話だよな。不正が過ぎるってもんだ。……俺は赦せない。見過ごせねえよ。これは誰かが負うべき罪だ。……だから、こいつはいるんだよ。罰を受けるのに、こいつの恨みを受け止めるのに、犬神の恩恵を永らく賜ってきた俺以上の適役はいないだろ。」


 犬上は言う。僕にではなく、自分自身に言い聞かせるように。


 彼にはもう、僕の話を聞く気がないようだった。僕の言葉は、彼には届かない。説得は失敗だ。言葉ではもう、どうにもならない。


 ――犬上は僕の思っている以上に、分からず屋と言ってしまいたくなるくらいに頑固な奴だった。僕が思っていた以上に、正義感に溢れる、不正を許さない人物だった。


 「罪悪感、って言うのかな。――さっき話したよな。俺はずっと気に食わなかった。努力も何もせずに、何もかもが手に入るのが、上手くいくのが気持ち悪かった。勉強も部活も人付き合いも。自分だけ不当に特別扱いされてるような気がして、嫌だった。」


 何もかも、上手くいく。例えば、彼は選択肢の用意された問題を間違えたことがない。犬上はそれが不満だった。


 「俺の人生には、まともな人間なら誰しもあって然るべき失敗がなかった。挫折なんて大袈裟な経験もしたことがないし、誰かから叱られたことさえない。……失敗のない人間なんて、健全じゃないと思わないか。そんなのは退屈で、つまらない。――だから」


 だから、犬上祐は、二年五組の教室を滅茶苦茶にした。抑え込んでいた衝動に、従順になった。


 「それは犬神が……。」


 犬神が、乗り移ってやったことだ。


 「ああ、儂がやった。」


 「ああ。俺が願った。」


 「儂がこの小僧の宿願を叶えた。小僧が胸の内に密かに秘めるほんの僅かな苛立ちに、鬱憤に、贅沢な悩みに、火を点けた。」


 「スリルってやつだ。自分がそんなものを味わいたいだなんて、思ってもみなかったけど」


 「いいや。どこかでは思っていた。」


 「……ああ。そうだな。どこかでは思ってた。何かとんでもないことをして、退屈を解消したいと思ってた。」


 「だから、わざわざ怪しまれるよう、」


 「自分のクラスを」


 「標的にした。」


 ――それは紛れもない、犯行とその動機の告白だった。


 勿論、あの蔵で初めて彼の一族と犬神について知った時点では、犬上は、体の自由を奪われ宿願を成就させられるなんて、思っていなかっただろう。実際に校庭で犬の頭蓋骨を発見するまでは、彼も半信半疑だったはずだ。夜の学校に忍び込んでまで宝探しを、一族の粗捜しをしたのは、ちょっとした好奇心だったか、或は彼なりの正義に基づいてのことだったのかもしれない。


 もし、本当に犬神などという忌まわしい呪術が行使されたのなら、またその犠牲の上に自らの幸福で退屈な生活が成り立っているのだとすれば、それは正さねばなるまいと、犬神の存在に納得しながらも疑いつつ、まさかまさかと訝しみつつ、校庭に穴を穿っていたのかもしれない。


 しかし彼は見つけてしまった。予期した通り、危惧した通り、犬上家の罪の証を目の当たりにしてしまった。


 ――一体どんな気持ちだっただろう。愕然としたのか、驚愕したのか、絶望したのか、若しくは覚悟したのか。いづれにしてもその精神的な揺らめきに、犬上はつけ込まれた。肉体を奪われた。


 後は彼の自白した通り、犬神の自供した通り、生まれて初めてのスリルに身をやつした。わざと自分に容疑が向けられるよう、二年五組、僕たちのホームルーム、彼自らが学級委員を務めるクラスの教室で犯行に及んだ。被疑者を三十三人に絞り込むために。


 尤も、翌日、つまりは本日彼が学校を休んだのは、疑われることを目的とした行動ではなかったのだろう。犬上は、翌朝には犬神の呪縛から解放されていた。強く拒絶することによって、かどうかは不明だが、既にその時には逃れていた。その時点で犬神は彼の体から離れていた。であるならば学校を欠席したのは、更なるスリルを味わうためではない。


 単純に、犬上祐という善良な人物が、罪の意識に耐えられなかったということだろう。良心の呵責というやつだ。その証拠に犬上は学校へ謝罪しに行こうとしていた。


 体の自由を奪われるという極めて特殊で恐ろしい、普通ではあり得ない体験をした翌日に取る行動が謝罪だなんて、らしいと言えばそうなのだろうが、しかしそれは余りにも善良過ぎる。人としてまともな感性を持っているとは言い難い。


 善良だからこそ、こんな馬鹿げた事態になっているのだ。それが善なのかは、判断に困るところだが……。


 ――犬上は僕と別れてから、本来の目的を成し遂げようとした。一日も立たない内に、混乱する頭を整理して、切り替えて、当初の目標である犬神の解放を試み、成功した。一族の犯した罪を贖おうとした。

まさしく贖罪である。凄まじい自己犠牲である。恐ろしいくらいの善性である。いもしないはずの化物を生み出してしまうくらいに狂気的な正義感だ。


 全く、イケメンと天才の考えることは分からない。そんなわけのわからないもののために自分を、自分の命を犠牲にしようだなんて理解不能だ。多分一生をかけても分からない。


 「人間。もう良いだろう。お前が理解する必要はない。儂はこの小僧さえ牙に掛けられればそれで良い。こ奴を噛み殺せば、儂の悲願は成就する。怨嗟はここで断ち切られる。何より、この小僧がそれを望んでいる。何を邪魔することがあろうか。」


 その言葉は、明らかに犬神の口から発せられていたが、同時に犬上の言葉であるようにも思えた。どこまでも善良で、優良な我がクラスの学級委員の台詞にも聞こえた。


 「ああ。やってくれ、犬神。俺の命一つで、お前の恨みが晴れるなら、俺はそれで良い。」


 ――犬上祐。どこまでも愚かで、格好良い奴である。


 建前でも、自分の命を犠牲にしても良いなんて、あっさり言えてしまうような人物を僕は他に知らない。


 「――待てよ、犬上。」


 だけどそれはやっぱり、建前でしかないのである。


 本音ではない。本当ではない。嘘であり、偽りだ。


 「お前、まだ僕に言うべきことを言ってないんじゃないのか?」


 「言うべきこと? お前に。」


 「ああ、そうだよ。お前はまだ言ってない。その言葉を言うまで、お前は死んじゃいけないはずだ。」


 「何が言いたい。」


 「とぼけてんじゃねえよ。頭の良いお前なら、分かってるはずだぜ、犬上。」


 いや、頭の良し悪しなど関係なく、そんなことは明白だ。


 「……ああ、そうか。いや、悪かった。巻き込んじまって悪かった。お前にはちゃんと謝るべきだったな。こんなの、中々ショッキングな出来事だ。」


 「違う。お前がすべきは謝罪じゃない。」


 誤魔化すな。


 「……。」


 「黙ってんなよ。僕みたいに大して頭の回らない人間でも、流石に気付くよ。こんなこと。騙されるわけがない。」


 「騙す?」


 「そうだ。お前はまだ僕に隠し事をしている。」


 「……隠し事。」


 犬上の自己犠牲は建前だ。本音は別にある。


 どんなに頭が良かろうと、どんなに善良であろうと、嬉々としてそれを受け入れる人間はいない。もしそんな人間がいれば、それこそ狂気だ。そんな人間、狂っている。犬神という化物を生み出した時点で、犬上は既に相当狂っているのだろうが、しかし彼は最後の一線を越えていない。最後の最後で、そこだけは正常だ。異常ではなく正常で、普通で、僕たちと同じように、平凡だ。


 「――なあ、犬上。お前本当は、死にたくないんだろ。」


 犬上祐は死にたくない。


 一昔前の漫画の主人公のように他人に対して献身的で、勉強、スポーツ、人望、全ての面に於いて優秀な彼にしては珍しく、恐ろしく凡庸な感情だ。学校一平凡な生徒であるところの僕とも何ら変わらず、自らの死に対して臆病だ。


 人気者の犬上に、親近感なんて一度たりとも感じたことはなかったが、住む世界が違うとさえ感じていたが、そこだけは僕と彼は対等らしい。


 平凡。


 彼には最も似つかわしくない言葉である。だけどそちらの方が、よっぽど健康的だ。完全無欠の超人などより、余程好感が持てる。この歳で自分の死に寛容な人間なんて、僕にとっては気持ちが悪いだけだ。


 「…………。」


 「お前は死にたくないんだよ。じゃなきゃ、この場に僕がいることに説明がつかない。」


 「……それは……」


 「だって、そうだろう。お前、僕に助けを求めたじゃねえか。」


 今日の夕方、僕の通学路でわざわざ待ち伏せまでして。その超常的な直感で、僕に話せば助けになってくれるかもしれないと、期待して。大して仲が良いわけでもないのに。関わりの薄い僕にまで縋って。


 「お前本当は、助かりたいんだろ? 自分の命を犠牲になんて、したくないんだろ?」


 この場に僕がいることこそが、彼が命を惜しんでいる何よりの証拠だ。言い逃れは出来ない。言い訳は出来ない。彼とてそんなことは分かっているはずだ。


 「……。……ああ、そうだ。そうだよ。当たり前だろ。誰だって命は惜しい。俺だってそうだ。迷いはあった。だからお前に話しちまった。助かる道はないかって、探しちまった。」


 「だったら何でこんなことしてんだ。」


 こんなギリギリな局面にまで事態を進行させている。犬神の胴体を掘り出して、自分を殺させるようなことをしている。助けを求めておいて、何故まだ建前を貫こうとしている。


 「やっぱ駄目だ。伊瀬。建前は重要だよ。本音は違っても、本心は違っても、嘘でも偽りでも、誰かが我慢して、建前は通すべきだ。――俺は間違いを見なかったことにはしたくない。」


 そう言って犬上は


 「犬神。やってくれ。今すぐだ。決心が揺らがない内に。」



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