<17>
「ということがあったんだけど、どう思う、縁。」
「どうとは?」
「だから、犬神なんてものが本当にあり得るのかってことだよ。」
「その結論はお主の中で既に出ているのではないか? 口振りから察するに。」
主観的な言い回しは出来るだけ排除して説明していたつもりだったが、中々目聡い、と言うか耳聡い竜である。確かに僕の中ではもう結論は出ている。あの頭蓋の異様な硬さを目撃したのを切っ掛けに僕は犬神を信じるようになった。
……まあ正しくは彼が犬神と呼ぶ何か、ということになるんだろうけど。
「僕はそうだけど、それはあくまで素人の意見だ。だから、お前の見解を聞きたいんだよ。」
超自然的な存在であるところのお前の見解を。
「そうじゃの。……あり得なくはないの。私も永く生きてきたが、実際そういう事例を目の当たりにしたこともある。と言うより、そう珍しいものでもないのじゃ。私のようなものにとってはの。」
――私のようなもの。今の科学では証明し得ないもの。あちらとこちらで言えば、あちら側のもの。竜や魔法や神様が、例えばそうだ。そんな縁という名の竜から見れば、犬神はそう珍しくはないらしい。
「そうなのか?」
僕は尋ねた。
多分昔よりあちら側に近付いているとは言っても、そんなものが日常的に発生しているなんて、うっかり信じてしまうわけにはいかないからだ。そう易々と、常識を覆されるわけにもいかない。我ながら度量が狭いとも思うが、こういった案件は一つ一つ精査する必要がある。
「そうなのじゃ。言ったであろう? 人間と竜とでは見えている世界が違うと。私の目は存在感の薄い存在をも敏感に感じ取る。そういったものを感じることに長けた魔女でさえ、私の感覚には遠く及ばんじゃろう。まっ、魔女とは言っても基礎は他の人間と何ら変わらんからの。元が竜の私と比べても仕方ないじゃろう。当たり前と言えば当たり前じゃ。」
「へえ。」
僕が人間の身でありながら竜の心臓を移植され、あちら側に近付いているように、魔女もまた何かしらの方法であちら側に近付いた存在である。そしてその魔女も、近付いているとは言ってもやはり根幹が人間であるということに変わりはなく、本質が竜である縁の感知能力には及ぶべくもないということだろう。
「勿論、現実に影響を及ぼすほどのものが日常的に見えておるわけではない。そんなことになっていたら、誰もがその不自然に気付いてしまう。不自然と言うか、超自然に。」
成程。それならば、犬神などという現象がありふれたものだったら、もっと大々的に世間に知られているはずだという僕の懸念は一応は解消される。
「……裏を返せば、お主らの知るこの現実に影響を及ぼすということは、よっぽどのことじゃ。私から見ても普通ではないの。特異とも言える。」
……竜という特異な立場から見ても特異、か。
「――話を聞いた限りでは、私もお主と同じ意見じゃ。お主の聞いた話は、お主の学友の経験したことは、恐らく本物じゃろうと思う。」
本物。本当。彼の犬神は事実であり、現実である。
――僕の見立てと、縁の見解はこうして一致した。
「じゃあ」
「しかし、結論を下す前に、お主に一つ質問がある。その犬上という少年、幼少期に何か命に関わるような大怪我とか、大病を患ったことなどはないか?」
怪我、或は病気。それも命に関わるような重篤なもの。
僕の狭く粗い情報網には、そういった情報は入ってきていない。犬上はスポーツマンであり、病気はともかく、怪我は付き物というところもあるはずだが、そういえばその割に、あの男が怪我をした、という話を僕は聞いたことがない。まさに健康優良児という称号に相応しい男である。
……健康優良児って言い方も、あんまり好きじゃないんだけど。だってそんな言い方だと、不健康な奴が皆不良みたいになってしまう。
不健康不良児……。
いや、そう聞くと、何だかそれはそれで可愛いキャラクターのような気もする。
金属バットが重すぎて吐血、とか。なんて、そんな愛らしいキャラに思いを馳せるような場面では勿論ない。
「……そんなこと、今回の件と何か関係があるのか?」
「関係のない質問をここで唐突にするはずがなかろう。」
そうだよな。関係のないことを考えていたのは、僕の方だよな。
「……いや、そんな話はしなかったから、分からない。噂も聞いたことない。」
そもそも犬上は噂を立てられるような奴じゃない。僕は犬上祐の噂話を聞いたことがない。
「そうか。」
「何だよ。何を意図した質問だったんだよ。」
なぞなぞを出題されて、答えをお預けにされた気分だ。
「いやなに、ただの確認じゃ。それが分かれば確証が得られたというだけのことじゃ。しかしお主よ。」
と、いつもながらに勝手に話を展開する縁。結局質問の意図は教えてくれないのだろうか。
「お主は私に何らかの解決策を求めておるようじゃが、この場合、何を以て解決と呼ぶのじゃ?」
「ん? どういう意味だ?」
「じゃから、望むべき結末を明確にしておかなければ、プランも何も立てられんじゃろうが。」
不思議な質問だった。
だって、そんなことは決まっている。
「そりゃあ、犬上を犬神の呪いから解き放つのが、解決ってことになるだろ、普通に。」
もう二度と、犬上の体を奪わせないようにする。犬上を犬神から解放することこそ解決だ。他に何があると言うのか。
「だから、その方法はないのかって。」
「うむ。成程の。まあないこともない。その犬神とやらがどの程度の強度で存在しているのかにもよるが、つまり、犬上という童がどれ程驚異的に狂気的に犬神を信じ込んでいるかによるのじゃが、」
「ちょっと待て。」
縁の犬上をまるで異常者か何かのように扱う物言いに、僕は引っ掛かった。見過ごすことも出来たろうが、何故だかそうは出来なかった。
犬上が狂気的だなんて、狂っているなんて、常識的な人間ならそんなことは決して言わない。
「あいつは、犬上は僕の知る限りで最も全うで善良な人格者だぞ? それを狂気的って、どうゆうことだよ。」
あいつはただの被害者だ。犬神に体を乗っ取られて、無理矢理に酷いことをさせられた。実行犯が彼なのだとしても、操っていたのは犬神なのだから、そんな風に咎められるようなことを言われる筋合いはないはずだ。
「どうもこうも、言葉通りの意味じゃ。このご時世に犬神などという前時代的な悪霊を生み出すなぞ、狂気的としか言えん。」
「生み出す?」
犬神を生み出したのは、犬上のご先祖様じゃないのか? 犬の首を刎ねて、燃やすことによって、家に富をもたらそうとしたんじゃ……。犬上はその呪いを、遥か昔に生まれた犬神の影響を怖いもの見たさの代償として、図らずも受けてしまったのではないのか?
「確かに、お主の同輩の家は犬神憑きの家系なのじゃろう。そのことが今回のことに影響しておるのも恐らくは事実じゃ。じゃが少なくとも、今回の騒動を引き起こした犬神を生み出したのは、他の誰でもなくその少年じゃ。」
――犬上が、犬神を生み出した。あの善良で、常識的で良識的な、学校一の人気ものが? そんな如何にも陰鬱そうな、あいつのイメージとは凡そ相容れない、神とは名ばかりの呪いみたいなものを?
信じ難い。信じ難いが……矛盾はない。
「じゃ、じゃあ、犬上のご先祖様が生み出したっていう犬神と、犬上が、あいつが憑りつかれた犬神は別物、ってことなのか?」
「全くの別物、とは言い切れんが、まあそう思って良いじゃろう。彼の家に伝わっていた犬神が雛形になっておるやもしれんが、あくまで今回の犬神は、その童個人が生み出した代物じゃ。お主も指摘しておったではないか。忘れ去られた伝説が効力を発揮するはずがない、とな。」
じゃあやっぱり、あいつの人生に於ける成功や、超常人的な勘の鋭さは、犬神とは無関係ということか。あいつが犬神を生み出したなんて、余りに似合わな過ぎて想像し難いけど、確かにそれなら説明がつく。
……説明はつくが、納得はいかない。
犬上が犬神を生み出したなんて、だってそれじゃあ、犬上が加害者でもあるということになってしまう。犬上の生み出した犬神が、騒動の黒幕だというのなら、その黒幕を生み出した犬上こそが、全ての原因ということになってしまう。あの後ろ暗さや後ろめたさとは無縁な犬上が……。
「たとえそうだったとしても、犬上があの犬神を呼び起こしてしまったんだとしても、だからって狂気的なんて、流石に言い過ぎじゃないのかよ。」
あの男を狂気的と言ってしまったら、世の中みんな狂気だらけだ。こいつは犬上のことをよく知らないから、そんな風に言うんだろうけど。
「よく考えてもみよ。」
呆れたような態度を取る縁。何故呆れられているのか全く理解できない。僕は多少なりとも彼を知る人物として、冷静に物を言っているに過ぎないというのに。
「たとえばお主、一般的な人間が魔法を使えるようになるまで、どれだけ修行を積むと思っておる。」
「そんなこと僕が知るか。」
即答。
知識だけを問う問題を考えても仕方がない。そういう問題は知らなければ答えられない。多分縁とて、僕がこの問いに答えられるとは思っていないのだ。
「……まあそうじゃろうの。普通は知らない。お主に限らず、普通の人間は知らない。では、それは何故じゃ?」
「魔法なんて、誰も信じないからじゃないのか。」
「そうじゃの。魔法は余りに信じられておらん。知られておらん。では、何故魔法は世の中に知られん? 使えればこれほど便利なものはないというのに。何故魔法を習得する者はごく僅かに限られておる。」
昨日も聞いたような…………あれ、でも何だっけな。何だかややこしい、怪しい話だった気がしたけど。それにしても、これは何の話なのだろう。何故ここで魔法なんてものの話が出てくるんだ? まあ、縁の言う通り関係はあるんだろうけど。どうも話の筋が見えない。犬上の話はどうなったんだ。
「……習得が容易じゃないから、か?」
色々と頭を働かせてみたものの、やはり犬上の話と繋がるようには思えなかったが、他に為す術もなく縁の問いに僕は答えた。
「ようやく答に辿り着いたようじゃの。」
……答? 魔法の習得が容易ではないことが、犬上と狂気を結びつける答ってことか? 益々訳が分からない。
「そうじゃ。魔法を憶えるのは容易ではない。普通に習得できるものではない。昨日も言ったかもしれんが、魔法のノウハウを伝達することは非常に困難じゃ。そして、たとえ齟齬なく伝達できたとしても、そう易々と手に入れられる力でもない。並々ならぬ訓練と歳月が必要じゃし、才に乏しいものはどんなに努力しようと時間を掛けようと習得できはしない。そういうものじゃ。魔法が流布しないのは、習得のハードルが高すぎるからでもあるのじゃ。まあ、この世ならざる超常的な力を手に入れようというのじゃから、当然かもしれんが。」
「だからそれが何だって」
「おいおいお主。もう分かっても良い頃なのではないか? そろそろ察してくれても良いのではないか? やれやれお主も存外朴念仁じゃ。それとも、お主の物分かりを悪くさせることもまた、彼の犬神の効力なのかの。」
犬神の効力……。真っ先に疑われるべき三十三人の生徒の中で、唯一学校を欠席した犬上を、誰しもが疑わなかった。それもまた犬神の効力だとするならば……。
「――じゃから、犬神も魔法も大して変わらぬということじゃ。魔法と同じように、犬神を生み出すこともまた容易ではない。呪術妖術の類が実しやかに巷で噂される時代というならまだしも、この科学隆盛の時代に、誰もが魔法を信じず、神までも廃れるこの時代に、犬神などという非科学的な信仰をほとんど何の儀式も通さず、何の努力も鍛錬も積まず、それもたった一人、たった数日のうちに復活させてしまったというのじゃから、その犬上とやらを全うというのは、些か、どころか相当に無理があると言っておるのじゃ。はっきり言って異常じゃ。狂っておる。お主の学友は普通ではない。まともではない。」
……まともでは……ない?
ただの思い込みだけで、魔法のような、呪いのような、犬神という常軌を逸した現象を引き起こしてしまうなんて、普通ではない……。
――犬上は犬神を生み出した。昔ながらの儀式通り、餓えさせた犬を地中に埋めその首を刈り取り、餌を求めて動いた首を火にかける、こともなく、ただ頭骨に触るという非常にシンプルな行為だけを以て、犬神という呪いの賜物をこの世に産み落としてしまった。発揮しないはずの効果を発揮させた。魔法使いが何年もかけて習得するような、そんな力を発動させた……。
その重大さを、それがどれだけ逸脱したことなのかを、僕は正しく認識出来ていないようだった。
いや、身近に竜がいたり、魔女がいたり、勇者に殺されたりしたせいで、感覚がおかしくなっていたのかもしれない。もしかすると、自分自身の体が異質なものに為っているからと言って、慣れてしまっていたのかもしれない。
――全く以って、一ミリの反論の余地もなく、縁の言う通りだった。
犬上はまともではない。
「流石にもう気付いておるとは思うが、ただの犬の頭蓋骨が斧で叩いても割れなかったのは、その犬上という少年が、割れないと、そう信じ込んでおったからじゃ。その者が犬神に乗り移られた時、あの教室の窓ガラスが割られたのは、お主の同輩がそうしたいと思っておったからじゃ。」
「そうしたいと、思っていた……。」
「そう。精神の不安定な者に憑りつくと、その者のしたいと思っていても出来なかったことをする。私の知る限り、犬神とはそういう悪霊じゃ。」
――したいと思っていても出来なかった事をする。
犬上が、そうしたいと思っていたから、教室の窓ガラスを粉々にしたいと思っていたから、犬神は願いを成就させた。本人に代わって、本人に成り代わって……。
――信じられない。さっきから信じられないようなことばかりだが、しかし僕は自分の意見よりも、縁の意見を尊重しなければならない。根拠のある、縁という知識と経験を持つ者の見解より、理屈も根拠もない感情的な私見を選ぶのは、愚かな選択だ。
素人の僕は、専門家としての竜を当てにしたのだ。だからその言葉は、絶対でなければならない。どんなに似つかわしくなくとも、縁がそう言う以上、それは事実だ。
「でも、何であいつがそんなことを……」
そんなことをする理由が、そんな風に思う理由がどこにある。犬上は、幸福な人間だ。親にも友人にも恵まれ、才知に溢れ、悩みなどというものとは縁遠い、選ばれた人間だ。彼の人生に失敗はない。彼の人生に後悔はない。不安もなければ葛藤もない。
僕なんかが、勝手に決めつけてしまうのは間違っているのだろうが、人の内心が他の誰かに分かるものかとは思うが、しかし彼に限れば、そうした身勝手な憶測もあながち間違いではないはずなのだ。
そう言い切れてしまう程に犬上祐は卓越した存在なのだ。理想的な人間なんてものがいるのなら、それはきっと彼のような人間を指して言う。そんな彼が、何故……。
「知らん。そんなことは本人に聞いてみたらどうじゃ? まあ何にせよ。この件で犬神を責めるのは筋違いじゃろうな。と言うより、ああいったもの全般に、お主らから見てあちら側のものに、何か罪を問おうというのが、そもそもナンセンスじゃ。犬神に意思はない。故に悪意もない。ただそういう性質を持っておるというだけなのじゃからな。」
「だったら、お前は、犬上が悪いって言いたいのか。」
「別に悪いなどとは言っておらん。何か悪いことが起きたからといって、その背後に必ずしも悪い者がおるとは限らんじゃろう? 悪い心があったとしても、その者が必ず悪い人間であるとは限らんじゃろう?」
そうだ。
――犬神は憑りついた人間の、したいと思っていても出来なかった事をする。
物を壊すことが犬上の願望だったのだとしても、破壊的な衝動が犬上の中にあったのだとしても、あいつはそれを実行には移さなかった。願望を願望のままに、衝動を衝動のままに押し留めた。したいと思っていても出来なかったということは、欲望よりも強い抑制が働いていた証だ。
考えてもみれば、後ろ暗い欲望なんてものは誰しも一つや二つ抱えているものだ。特段珍しいことでもない。思うだけならば自由だし、ほとんどの人間は越えてはならない一線を越えずに過ごしている。犬上もまたそうであったというだけのことだ。僕や他の人間たちと同じように、人には言えない、誰しもが人並みに抱えているであろう闇のような部分があったと、それが今回犬神というイレギュラーに触れることで噴出しただけなのだ。
――ただそれが余りに、普段の彼のイメージに反していて、信じ難く似合わないというだけであって……。
「お主よ。流石にこれは心配し過ぎなのじゃろうが、それでも一応、念のため忠告しておくが、解決を望むなら急いだ方が良いと思うぞ? まさかとは思うが、万が一ということもあろう。」
「ああ。それは分かってるよ。犬上をいつまでも不安がらせておくわけにもいかないからな。解決策があるってんなら、早いに越したことはない。だから明日、そうだな、学校に行く前にでも」
「いやいや。」
僕の言葉を遮って、縁は言う。
「そんな悠長な、明日などと暢気なことは言ってられんじゃろう。もし万が一が起これば、その人間、明日の朝日を拝めるとは限らんぞ。」