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竜の心臓移植 (旧題 ある竜の転生)  作者: こげら
一章 ある失敗の代償
5/92

<四>

 とかく人間という生き物は、犯した過ちを取り返そうとする生き物である。過去の失敗をネチネチと引き摺って更なる失敗を招くなんていうことは、誰しも一度くらいは経験があるのではないだろうか。経済用語ではそれをサンクコストの呪縛と言うのだそうだ。ギャンブルの負けをギャンブルで取り返そうとする、というのがその最も分かり易い例だと思う。


 そんな話を聞いたのは、確か高校一年現代社会の、曾根崎先生という中年男性教師の雑談の中でのことだった。やたらと人生の教訓やアドバイスを授業内に織り交ぜてくる先生で、いつもは話半分に聞き流していた僕だったが、この話に限ってやけに鮮明に覚えているのは、多分納得させられたからなのだろう。


 考えてみれば確かに、そんな不合理な行動をするのは、ヒトという種だけなのかもしれない。


 失敗から学ぶことは確かに重要だが、修復不可能な失敗を取り戻そうと、取り繕おうと足掻くのは、無駄どころか余分な損益を生み出しかねない。


 サンクコストの呪縛から脱するためには、今ある選択肢の中から最良のものを選ぶこと以外にないのだそうだ。


 だから僕は今回も、わけのわからない女と関わり合いになってしまったという失敗についてはもう諦め、どうすればこの面倒なイベントがいち早く終了するかを考えるべきなのである。


 「んんー、美味しいのう、美味いのう、温かいのう。中々やるのう、人間よ」


 僕の手料理を口にした女から放たれた第一声はこの上ない程の賛辞だった。おかずを一口、直後に白米を頬張るという日本人的コンボを次々と決めて行く少女は、本当に美味しそうに嬉しそうに頬を一杯にしている。


 「んまんま」


 「……」


 一方の僕はと言えば、複雑な心境にある。


 何故ならば、女が旨い旨いと言って食べてくれている料理は、どれも旨いわけがないからだ。だってそれは僕が作ったものだから。僕が作ったものが、美味しくなるはずがないのである。決して謙遜などではなく、母から受け継いだ負の才能、料理下手が今回も余すことなく発揮されているはずだ。僕は自信を持ってそう断言できる。


 つまりどういうことかと言うと、僕は今、馬鹿で変態な女子中学生如きに、気を遣わせてしまっているのである。


 「僕が作った料理がうまいわけないだろ。そんなことに気を遣うな。遣われた方が惨めになる」


 「何を言うか。私が人に気を遣ったことなど、一度たりともありはせぬ。侮るでないぞ、人間」


 それはそれで問題があるのだろうが、この少女に限ってはそれよりも更に何層も根深い問題があるので目を瞑ることにする。人に気を遣える女が、そもそもこんなおかしな行動を取るはずがないのだから。


 侮るでない? 侮るに決まってる。僕はこいつを侮っている。馬鹿として、変態として、人として、あらゆる面で穴が開く程侮っている。絶賛掘削中だ。


 「……侮ドリル」


 ……くそう。馬鹿な女のせいで死ぬほど下らない洒落を呟いてしまった。馬鹿ってホントに伝染するんだな。怖い怖い!


 「何を一人でごにょごにょ言うておる。お主も早く食べぬか。人間というのは共に餌を喰らうことで、親睦を深めるのじゃろう。私ばかりが食べていては、ちっとも親睦が深まらぬではないか」


 どの口が、どのおかずとご飯で一杯の口がもごもご言っているのだろうか。一緒に食べる気も、親睦を深める気も本当にあるのだろうか。


 「お前が振舞ってるみたいに言うな。そもそも僕はお前と親睦を深めるつもりは毛頭ない」


 「しかし人間よ。この国では同釜と書いて、おなかまと読むのじゃろう? ならば、お主がその白米を一口でも口に入れた時点で、我らは一蓮托生の間柄ということになるではないか」


 「確かに読もうと思えば読めるけど、なんか非常に惜しい感じだけど、そんな常識はこの国では横行してないし、仲間という言葉にそんな重い意味合いは含まれてない。そして既成事実みたいなものを勝手に作ろうとするな。同じ釜の飯を食ったところで、僕とお前は相も変わらず今までもこれからも未来永劫、金輪際何の関係もない赤の他人だ」


 「そこの醤油を取ってくれるかの」


 「あっ、はい」


 じゃなくて!


 余りにも自然に醤油を要求するものだから、つい応じてしまった。家族か友達か何かみたいに。まあ、現状僕にはどちらも居ないし、過去にそういうやり取りがあったわけでもないので、あくまでも想像上。


 よく漫画とかアニメとかでやっているのを僕だってみたことくらいはある。


 一括りに、何事も経験などとよく言われるが、知識をそのまま経験値として蓄積できる人間だってこの世にはいる。経験しなければ分からないものも確かにあるだろうが、経験しなくても分かることもそれと同じくらいきっとある。


 しかし、今日のこの事件の場合はどうやら経験しなければ分からない事だったらしい。この突拍子のなさ、混沌とした状況、苛烈なエネルギー浪費、どれもが知識だけでは計り知れず、知りたくもなかった。


 まあ、今更そんなことを言っても仕方がない。呪縛に囚われてはならない。


 取り敢えず、エネルギーを補充して、解決編へ進もう。この女もそろそろ帰りたくなる頃合いだろう。別に警察に連行しなくたって、この女さえ帰る気になってくれれば、それで万事は解決するのだ。その後のことまで僕がわざわざ気にかけてやる必要はない。どうしても帰りたがらない場合に限って、警察への連行という手段を取るしかないというだけのことだ。


 「あれ」


 思考を行動に移し、栄養摂取を始めようとした時、一口目の味噌汁を口に入れた瞬間、僕は違和感を察知した。


 ――何か今日の味噌汁は出来が良いな。明らかにいつもとは違う。いつも通りに作ったつもりだったが、出汁の香りと味がしっかり出ている。流石は出汁の素。流石は味噌。やれば出来るじゃないか。


 「あれあれ」


 ――この塩鯖、美味い。パリッと焼けた皮目が食感に程よいアクセントを加えていて、身もふっくらとしながら旨みの汁と脂が溢れ出てくる。


 「うわあー! うわあー!」


 大根おろしに醤油を少し垂らして、更にご飯と一緒に口へ掻き込むと、目も眩むような幸福感が口内を満たす。よく咀嚼したそれらをごくりと飲み込んで、口の中に残った米やら鯖やらを味噌汁で流す快感ったらない。


 焼き魚くらいで何を大袈裟なと思うかもしれないが、僕からしてみればこれ程の感動もない。僕が手を加えた料理が美味いなんて、前代未聞の珍事なのだ。時節も時節柄、嘘を吐いても許される日から始まるこの月は、丁度そういう季節でもある。

 五百円もする高めのコンビニ弁当ですら不味くさせる奇跡のような僕の手腕を侮ってはいけない。こんなことは過去に一度もなかったのだ。こんな美味しい夕食は、生まれて初めてかもしれないのだ。


 ――しかしまだだ。はしゃぐのは早計だ。そうは問屋が卸さない。人生そうそう都合良くはいかない。


 味噌汁と焼き魚なんて、誰が作ったって大体美味しくなるものではないか。僕だってもう一年以上も自炊生活をしているのだから、ここにきてやっと普通レベルに到達したとも考えられるし、今回だけたまたま偶然に天文学的な確率で二品が同時に成功したということも可能性としては十分考えられる。いや寧ろそちらの可能性の方が高い。


 そう問題は、野菜炒め。お世辞にも手の込んだ料理とは言えないそれは、しかしそれでも僕の作った料理の中では最も手間のかかった一品ひとしなである。だから喜ぶのは野菜炒めを味わってからだ。本当に僕の料理の腕前が上がったというのなら、ついに呪いを克服したというのなら、野菜炒めという至って簡単でシンプルなレシピくらい合格していなければ真実とは言えまい。この野菜炒めの成功を確認して初めて、塩鯖や味噌汁についても偶然ではなく本物の、つまり実力の勝利と言うことが出来る。


 ではいよいよ、前置きはさて置いて、下らない御託は抜きにして、一口。


 ぱくり


 「………………うんっまぁぁああああー!!!」


 人に散々キャラがどうのこうの言っておいてお前は一体何なんだという指摘も尤もだろうが、僕の人生の転機かもしれないのでご容赦願いたい。


 「何だこれ何だこれ何だこれぇ! じゃあ一体、僕が今まで食べてきたものは何だったんだ。何だったんだ!?」


 ――味ってこういうことを指して言うのか。キャベツって、玉葱ってこんなに甘かったんだ! もやしってこんなシャキシャキだったのか! 大蒜ってこんな良い匂いだったんだ。豚ってこんなにジューシーだったっけ? 黒胡椒のどこか柑橘にも似た香りが仄かに鼻から抜けて、醤油の香ばしい焦げた匂いがご飯を誘う誘う!


 「はっはっ。だから言ったであろう。私は気を遣ったことなどないと。んんー、それにしても美味いのうー」


 パクパク、モグモグ。本当にそんな擬態語が聞こえてきそうなくらいの食べっぷりだったが、それは僕とて同じだった。はしたないとか、そんなことに構っている暇はない。これはパラダイムシフトなのだ。既存の世界の変革なのだ。何も考えずに箸を動かせばそれで良い。


 一般家庭ではこれかこれ以上のものを毎日のように食べているのか、羨ましい!


 よくよく考えれば、僕の目の前に座る女がお世辞を言ったり気を遣ったり出来ないことは分かっていたことである。よってこの女が美味しいと言ったからには、少なくともこの女にとっては間違いなく美味しかったのだ。そして幸いなことに、一般人を自認する僕と、変人という位置づけのこの女は、味覚に関してだけは共通した感性を持っているようだった。


 「ああ! 美味いな。これは美味い。いや、美味いという概念を僕は生まれて初めて体感したような気さえする!」


 外食なんて贅沢なことをしたことはもう何年もなかったし、小さい頃から仲の悪かった両親とも、外に出て一緒に食事をしたことなんてなかった。だから僕は本当の意味で美味しい料理というものを知らなかったんじゃないかと今となっては思う。いやはやこれは確かに経験しなければ分からないことだ。


 「ん? おや、人間。お主もしかすると、泣いておるのか?」


 一心不乱に食べ進めていた、というかほとんど狂乱状態で自作の料理たちを流し込んでいた僕は、女の指摘に初めて気付く。


 「……あれ。ホントだ。涙が」


 流れていた。中学の部活を引退した時も、父親に殴られた時も、ついに法的にも完全に跡形もなく家庭が崩壊した時も、今までどんなことがあっても流れることのなかった涙が、流れていた。


 「ふふっ。料理が美味し過ぎて涙を流すとは、お主も大概、卑しん坊じゃのう、人間よ。まあ分からんではないがのう。この料理を口にしてしまったからには」


 余りの衝撃にどうやら僕はすっかり感動してしまったらしい。


 この女に卑しいなどと言われるのは筋違いも良いところだろうが、こうして年甲斐もなく食べ物のことで涙を流してしまっている時点で、僕にはもう反論の余地がない。いい歳してご飯が美味しくて泣いているような奴が何を言ったところで、説得力に欠けるのは最早明らかなのだから。


 「あ、ああうん。なんか、そうらしい」


 「どれ」


 と、少女は箸を置いて僕の方へと身を乗り出す。そして僕の右頬を伝う涙という名前の体液を、茶碗の縁にこびり付いた米粒にするかのように、ペロリと舐めとった。


 「舐めとった…って、うわっ、何してんだお前っ! 汚ねーだろ!」


 「僕もお前も汚いだろ! 体液だぞ、それ! 一挙両損だよ! 共倒れだよ!」


 ――ホント何考えてんだ、この変態女。それとも何も考えていないのか。ならば是非とも考えろ。曰く、人間ってのは考える葦なんだから、考えなければただの葦草なんだから!


 「おー、そうか。そうじゃった。これは人間の作法ではなかったのう。じゃが人間よ、そう嫌そうな顔をしなくても良いではないか。私とて今や一介の見目愛らしい女児童じゃ。お主も人間の雄なら、こういった経験は寧ろ歓迎すべきことじゃろう。まして汚いなどと、女子に吐く台詞ではないの。そんなじゃから、お主は女子に嫌われるのじゃ」


 舐められた箇所をディッシュで拭く僕に咎めるような視線を遣る女。


 ――お前の唾液はご褒美か何かなのか? どこの女王様だ。顔面舐める作法って、どこの星の作法なら許されるんだよ……。


 「今更お前に愛らしいとか女子とか言われてもな。後、僕はまだお前に、と言うか誰にも、非モテエピソードを披露した覚えはないぞ。何せ話す相手が居ないからなあ。エピソードを語るべき相手も勿論居ない!」


 僕には友達が居ない。それだけは自信を持って言える。


 「そんな残念なものを見るような目で僕を見つめるな。この場で誰よりも残念なのはお前の方なんだからな」


 中学生、女子、露出狂、迷惑行為防止条例違反者、似非ヨネスケ。


 こうして列挙してみると、これらがある特定の人物を指し示すワード群だと思うと、甚だ残念な気持ちになる。友達が居ない奴のことを残念な奴だというのなら、この女も同じだ。こんな女に友達なんて居るはずもなく、友達が居るならばこんな馬鹿げた行動はしないはずである。


 「尤も僕は友達が居ないからと言って、それだけでまるで人間として不健全みたいな、それがまるで悪いかのような、そういう風潮は好きじゃないんだけど」


 一人でゲームでもしていたいのに遊びに付き合わされたり、興味のない映画を見せられたり、何故かトイレに一緒に行ったり、面倒なことばかりじゃないか。そんなことを強いられるようなら、一人でいる方がよっぽど合理的で効率的で楽しい人生が送れそうなものである。だから僕自身としては、友達が居ないことを残念だなんてこれっぽっちも思わない。


 「じゃが人間よ」


 芋みたいだ。北海道とかにそういう名前のゆるキャラだかご当地怪人だかが居そうな雰囲気である。せめて点を入れるか間を空けるかして欲しいものである。


 「人間というのはコミュニティを形成する生き物じゃろう? その輪から外れて生きるのは、何と言うか、やはり残念としか言いようがないじゃろう」


 「御忠言御尤もかもしれないけど、お前にだけは言われたくない台詞だよな、それ。お前の方こそ、そんなんでコミュニティとやらに溶け込めてるのかよ。言っとくけど僕は、学校では波風の立たない穏便なコミュニティライフを送ってるんだぜ」


 穏便というか、静寂というか、寂寞というか、それはもうべた凪もべた凪、この絶えず変化し続ける自然界に在って完全な無風状態というのも奇跡的だろう。僕の誇りだ。


 対してこの女はまさに嵐のような、僕がこうして無事に会話出来ているのも不思議なくらいに、近寄る者をその暴力的な風で消し飛ばしてしまうような勢力を持った女である。近付こうなんて物好きな輩が居るなんて到底思えない。こんな女に近付くのは、この女と同じ嵐のような人間だけだろう。


 「私はまだ人間に生まれて日が浅いからのう。これからが肝心なのじゃ」


 「ふっ。やっぱ馴染めてねーじゃんか。まあそうだろうとは思ってたけど」


 「余り見くびるでないぞ、人間よ。それに我は既にコミュニティというものを形成し始めておる」


 「そうなのか? そりゃあ幸せ者だな。お前みたいなぶっ飛んだ人間を受け入れてくれるコミュニティがあるなんて」


 まあ、こういう人間同士が集まるなんてことは良く聞く話だ。最近では中学生でもネットを使うのは当たり前になってきているし、この女がどういう類の人類かは知らないが、人類かどうかも怪しいところだが、そういう共通の趣味を持った人達が共同体を形成するのはリアルにしろ、ネットにしろ、昨今珍しいことでもない。


 想像するに、彼らのように、特に彼女のように世間的にマイナーな、他と違う存在にとって、そういった所属先や居場所があるというのは、多分幸せなことなのだろうと思う。人に限らず動物というのは、自分とは違うものを受け入れたがらないものだから、マイノリティはいつだって迫害される。


 分からない。勝手に推測するのは失礼かもしれないが、この奇怪な行動を取っている女も何かしらの迫害を受けた歴史があるのかもしれない。否定されて拒絶されて、だからこそ認められたい。信じがたいことに、その結果が今の彼女と彼女の言動を創り出しているのかもしれない。


 せめてそういうストーリーを付けてやれば、この女という存在にも説明が付きそうだし、可愛げというものも多少は出てくるだろう。


 「何を言うておる、人間。私が築こうとしているコミュニティというのは、つまりお主とのコミュニティということじゃぞ?」


 「はあ? お前こそ何言ってんだ? 僕がいつどこで何を、お前如きイカレ系人類なんぞと何を築いたって?」


 「いやあ、今まさにここで築きつつあるのじゃが。コミュニティを」


 「築いてねえよ、んなもん。築きつつねーよ。お前が家に来てから築かれたものがあったとすれば、それは違法建築だから今すぐに撤去だ」


 人様の敷地に無許可で建築物を建築するなんて、中々図太い神経をしている。図太いと言うより、多分神経なんて繊細なものはとっくの昔に焼き切れてしまったのだろう。そうでなければこの女の奇行は説明がつかない。


 逆に考えれば成程、奇行種か。それならば合点がいく。


 ――あいつらの行動、意味わからないもんな。


 「しかし人間よ。談笑しながら一緒に美味しい夕食を食べるというのは、もう立派にコミュニティ的な活動ではないのか?」


 「それは確かにそうだろうけど、談笑なんてしてないし」


 僕たちは談笑などしていない。


 このイベントは、このエピソードは、平凡で凡庸な男子高校生であるところの僕が、非凡でも偉大でもないところの人型奇行種の奇怪な言動に付き合わされ困らされるという話なのである。


 その合間に、箸休めのように、と言っても僕にとってはこちらの方が余程重大事件なのだが、泣く程美味い夕食が僕の手によって作成されたという話が織り交ぜられているに過ぎない。


 「お主、まさか気付いておらぬのか?」


 不思議そうに女は言う。僕が鈍いかのように、この場に居る僕以外の全員が気付いているかのように、馬鹿にするような悪意もなく、ただ単に驚いたように女は言う。


 「気付くって何にだよ。まさかウォーリーがどこに隠れてるかとかか? 先に言っとくけど、お前の後ろだぁっ! なんて下らない落ちはなしにしてくれよ」


 「いやウォーリーは人込みに隠れているに決まっておろうが。しかもあの存在感の薄い眼鏡に不意に背後を取られたとあっては、それは中々の恐怖だと思うぞ。あの男、眼鏡で幾分誤魔化されておるが、よく見たら目が笑ってないからのう」


 「はっはっ。それは、なんか分かるかも」


 「ぐわし」


 「ああはい、赤白のボーダー繋がりね。楳図かずおかね。まあぐわしはマコトちゃんのギャグなんだけど。しかしよく出来るな、そのポーズ。結構難しかったはずだけど」


 ――やたらウォーリーとそのボーダーに喰い付く自称非人間。この女、相当の手練れと見える。多分見つけたウォーリーを出版社だかに報告しちゃうくらいの手練れだ。あの絵本、一人で遊ぶには打って付けだからなあ。


 ――そういえば、何やら物騒な都市伝説があったっけ。実はウォーリーは脱獄中の殺人犯だとか。そう考えると、お前の後ろだぁって落ち、尋常じゃなく怖い。


 「しかしそうか、気付いておらなんだか」


 ウォーリーでもないのなら、では一体僕は何を見過ごしているというのだろうか。この女が気付いていて、僕が気付いていないもの。我が身を顧みても気付かなければならないことなんて何もないようだが。


 「じゃからのう、人間。お主さっきからずっと、笑っておるんじゃ」


 「は」


 クエスチョンマークがつく前に僕は自覚した。文字通り、はっとしてしまった。次に続く言葉が出るより先に気が付いた。


 驚くべきことに、認め難いことに、そして恥ずべきことに、僕の口角は上がってしまっていたのである。


 こんなほぼ裸で外を練り歩くような変態との会話が、まるで楽しかったみたいに……。


 「僕、笑ってた?」


 「うむ」


 「ニコニコと?」


 「それはどうじゃろうな。ニコニコというより、そうじゃのう。うむ、ニヤニヤといった感じかのう。どちらにせよ、それはもう楽しそうに。お主としては不本意なのかもしれんが、しかし私としては嬉しい限りじゃ。やはり食事というものはこうでなくてはの」


 「うわあ。そこはかとなく嫌だなあ」


 とは言っても、こうなってしまえば僕は潔く敗北を認めざるを得ないらしい。僕はこの気の狂ったと言っても過言ではないような女との狂気に満ちた美味しい夕食会が、例えばそう、無意識に笑ってしまうくらいに、楽しかったのである。


 馬鹿と話していて楽しいだなんてまるで僕まで馬鹿になってしまったみたいで認めたくないのだが、どう取り繕おうとその事実を覆せないということは、僕自身が一番分かっている。言葉で否定したところで、一度感じてしまったことは取り消せない。


 「ああ、分かった。仕方がない。しょうがない。認めるよ。僕はお前と話しているのが楽しかった。何がそんなに楽しかったのかは不明だけど、楽しかったことだけは事実だ。」


 僕は言葉にすることで、言い訳の余地を消した。


 「うむ、私もじゃ」


 両側の八重歯を見せて、女は僕などより余程上手に笑った。


 人との会話で笑ってしまうのも、僕との会話で人が笑顔になるのも、久しぶりだ。この女然り、料理然り、今日は色々と変わったことばかりが起こる。やはり春という季節は恐ろしい。


 「そもそもこうして人と話すこと自体、久しいのう。刺激的じゃあ。同じ皿をつつき合って食べるのもまた新鮮で良い。勿論、お主という人間あってこそじゃ。泣いたり笑ったり、お主は中々愛嬌があって面白い。初めは酷い事をされた気もするが、最後にはこうして美味い夕食を馳走してくれたしの。お主は見所のある人間じゃ」


 褒めたところで何も出はしない。随分と高く僕のことを評価してくれているようだが、僕の方からしてみたら、この女が未だ不審人物であることには変わりがないのだ。そんな人物からいくら高評価を得たところで、僕の株は寧ろ下がる一方である。


 「偉そうに」


 「偉いんじゃ。私はとおーっても、偉いんじゃ。お主という人間がこうして平和な生活をしていられるのも、本を正せば私のおかげなのじゃ」


 覇者の条件は根拠のない自信を持っていることだ、としばしば言われるが、では一体この女は将来何の覇を制するつもりなのだろうか。


 「それにしても、この焼き魚、味に関しては文句なしの一品じゃが、骨が邪魔で食べにくいのう。せっかくの熱々が冷めてしまう」


 不器用に骨の除去作業をしては身を口に運ぶ女。


 「そうか? 僕も器用な方じゃないけど、鯖って魚の中じゃ食べやすいほうだろ。割と骨大きいし」


 「そうなのか? むーん。どうも私は細かい作業が苦手での。あー、もどかしい。早くこの柔らかな身を味わいたいと気持ちばかりが焦ってしまう。もうちょっとこう、骨がなくとも泳いで見せるような、骨のある魚はおらんのかのう」


 「……それ、骨があるのかないのか、結局どっちなんだ?」


 「……おお! これはしたり」


 これはしたり、なんてナチュラルに言えてしまうような女と仲良く会話していたと思うと、僕は改めて残念だった。



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