<16>
その光景を見た瞬間、僕はこれまでの犬上の話を、犬神の話を信じることにした。
竜や魔女を経験した僕は、それが普通ではないと瞬時に理解した。
――収められていた木箱から、犬上は彼の犬神の頭蓋を布切れに包んで取り出し、注意深く地面に置いた。
そして、蔵から持ち出してきた錆びの付く重そうな斧で、それを叩き割らんとした。
叩き割ろうとして、失敗した。
常識ではあり得ない失敗だった。あり得ないことが、またしても、僕の目の前で起きていた。
幾度も、幾度も幾度も幾度も犬上は斧を振り下ろした。腕が上がらなくなるまで、犬上は繰り返し繰り返し、カルシウム化合物を主成分とする構造物に硬い鋼の刃を叩き付けた。
結果は明らかなように思えた。経年によって脆くなった今や化石ともとれるそれは、容易く破壊されるはずだった。振り下ろされた斧は、破砕するに十分過ぎるくらいのエネルギーを有しているはずだった。
しかし、ただの獣の頭蓋骨だと僕が固く信じていたくすんだ白の物体が割れることは決してなかった。彼がどんなに強く力を籠めようとも、何度同じ箇所を打撃しようとも、どの部分に力を加えようとも、とうとうそれが砕けることはなかった。
――ヒビどころか、小さな傷の一つさえついていない。まるで、何か異次元の、不可視の力に守られているかのようである。
体力と腕力に優れる犬上を以てしてその有様だったのだ。だから僕は、それが異常の産物であると確信した。
僕はこの異常さを、既に知っている。――精霊術や魔法と同じく、これは僕たちには見えないルールに従っている。犬神は本物だ。彼の超常人的な勘の鋭さについてはまだ判断しかねるが、あの教室の惨状が犬上の仕業であることと、また犬神の仕業であることは、ほぼ確定した。
勿論驚きはある。犬の頭蓋骨に下された一撃目を見た時、僕はまさしく目を見張った。考えるまでもなく、理論を構築するまでもなく、それは物理学ではあり得ない現象だったのだ。
だが、僕はもう決めてしまっている。あの竜を目の当たりにした時に、この目で見たものの全てを信じなければならないと。疑問はまだ残っているが、それは犬神、若しくはそういった尋常ならざるものや事態が発生していることを前提として考えなければならない。
――犬上は汗を拭い、息を整えると再び語り始めた。
「朝目が覚めて、学校に電話した後、俺は蔵を確認した。記憶は曖昧だったけど、家でこれを管理するなら、ここしかないと思ったからな。」
そして『これ』、犬神の頭を彼は予想通り発見した。
「夢だったんじゃないかっていう淡い希望はその時点で完璧に捨てなきゃならなかった。そしたら急に現実味を帯びてきて、また怖くなった。……だから俺は、原因であるこれを、すぐに壊そうとした。恐れのままに斧を振り下げた。今考えれば冷静じゃなかったかもしれないけど、そうせずにはいられなかった。」
結果は先に示した通りである。彼の犬の頭骨は、どのような力を加えても砕けなかった。凡そ獣の頭骨とは思えないほどの強度をそれは示した。
さぞ恐ろしかったことだろう。恐れも、躊躇いも、不安も、常に自信に溢れている彼には全く似つかわしい言葉ではないが、今回ばかりはそれも仕方のないことなのかもしれない。
何せ犬上は、体を奪われたのだ。自由を奪われ、意思とは反する行いをさせられたのだ。不正を許さない、と言うより、不正というものと相容れない性質を持つ彼が、自らの体で不正を働いてしまったのだ。僕が勝手に推察するだけでも、ぞっとしない話である。
その上彼は、原因であるそれを壊すことさえ出来なかったのである。犬上ほどの人物でも、怯んでしまっても無理はない。
――しかし今まで僕は犬上のことを、何があっても物怖じしない、無敵のヒーローみたいに思っていたが、しかし実のところはそうではなかったらしい。犬上だって、恐れることくらいあるのだ。意外ではあるが、何だろう。犬上もちゃんと人なんだなあ。なんて、今の場面では不謹慎なのだろうが、暢気にもついそんな風に親近感を覚えてしまう。
「分かった。お前の話を信じるよ。いや、疑ったりして悪かった。僕が間違っていたみたいだ。」
「そっか。信じてくれるか。」
人懐っこい笑顔を見せ、安堵する犬上。まだ事態は何も解決していないのだが、笑っている場合ではないはずなのだが、彼にとってはそれだけ切実な相談だったということだろうか。何にしても、相変わらず人をたらしこむ笑顔だった。
同性の僕でこれなんだから、こいつが女子に人気なのも頷けるな。全くけしからん奴だ。
「悪いだなんて言わないでくれ。そもそも俺の方が巻き込んだんだから。」
そんな犬上の言葉に、僕は自覚した。自分はもう、この件に巻き込まれているのだと。犬上の話を聞いたことによって、既に関わってしまったのだと。
――面倒事は嫌いだ。労力は出来うる限り使いたくない。僕はそういう怠惰な人間である。
だけど、どんなに面倒でも動かなければならない場面では動かなければならないし、ここで動かなければ、彼女はきっと失望するだろう。それだけは看過できない。
まあ動くと言っても、僕自身に何が出来るというわけでもない。家に帰って、今日の出来事について縁と相談するだけだ。相談した上で、と言うより僕よりもこういった事情に精通しているであろう竜に助言をもらった上で、対処する方法があるのならそれを実行するだけだ。避けたい事態ではあるが、もしそれで駄目ならば、あの魔女に再び助力を乞うしかない。どちらにしても、僕に出来そうな仕事は仲介と申し訳程度の援護くらいのものだ。体の一部を竜に与えられているとは言え、出来ることなんて所詮そんなものである。
如何に歯痒くとも情けなくとも、素人が余計な真似をして事態を悪化させるよりは幾らかましだろう。
「そう言えば、お前の両親は知ってるのか? 知っててお前に隠してたのか? それのこと。」
「さあ。どうだろうな。……あー、でも知らないんじゃねえか? 知ってて俺に教えたくなかったんなら、蔵の片付けしろ、なんて言わないだろうし、もっと厳重に管理しそうなもんだ。」
それもそうか。
第一、学校の校庭に埋めてある、という時点でそれが永らく忘れられていた、過去の産物であったことは推察できる。土地の所有権が犬上家から行政に移った時、犬神の依代たる彼の頭蓋骨が回収されなかったということは、その代には既に犬上家に伝わる犬神伝説は失われていた、ということだ。古地図の警告文が新しいものだと犬上は言っていたが、それはあくまで地図に比べてというだけで、本当に最近、ここ数年で書かれたものではないはずなのだ。
「元々はお前の家の土地っつっても、今は違うわけだし、急に開発なんかされたら掘り出されちゃうかもしれないもんな。」
「ん? いや、学校の土地は今でもまだ家が所有してるはずだけど。」
「は。え、え!? じゃあ、あの学校って、借地なの?」
しかも個人から借りてるのか?!
「うん。まあほとんど無償で貸してるらしいけど。だから、何かちょっと倉庫とか小屋とか建てる時なんか、一応家にも連絡来るようになってるよ。」
「……やっぱ、スケールが違うな」
「まあそれも」
――まあそれも、犬神の与えた恩恵なのかもしれない。
犬上は言った。
この豪邸も、蔵に蓄えられた財産も、犬上祐の成功に満ちた人生も、全ては犬神が与えたもうた、罪によって得られた繁栄なのかもしれない、と恐らくは彼はそんな風に思っている。
だけど僕にはどうしてもそんな風に考えられない。今回の事件、二年五組の教室の窓が割られた事件の犯人が、犬上であり、犬神がそれに関係しているのだとしても、彼の人生や、彼の一族の成功までもが、犬神と関係しているとは到底思えない。
犬上がこの蔵で、地図と警告を発見するまで、彼がこの一族の歴史を知るまで、それらが忘れ去られていたというのなら、そんなことは起こり得ないはずなのだ。少なくとも、昨日縁から聞いた理論ではそうなる。
意識の世界、彼女の言う精神世界の非存在的な存在や事象が、現実世界、或は物質世界と呼ばれるものに影響を及ぼすのだとすれば、忘れられた、放棄された伝説である犬神が、忘れられても尚その効力を発揮するのは辻褄が合わない。忘れられているということは、犬神が存在するという意識を持った人間が誰もいないということであり、少なくとも犬上祐が犬神を強く認識するようになるまでは、犬神は存在出来なかったはずなのだ。
精神や認識はいつだって例外なく物質に依存する。犬神を意識する物体としての機関、人間で言えば脳がなかった、つまり誰からも忘れられていたのなら、犬神が効力を発揮できる道理はないということだ。
……まあ、こんなことに道理を求めても仕方のないことなんだろうけど。
だけど、僕のような理屈好きな人間には、曲がりなりの理論でも、ないよりはましなのだ。僕は奇跡や偶然より、屁理屈を信じる人間だ。
知らないからといって、思考を停止するのは不合理だ。だってこの世界なんて、知らないことの方がほとんどなんだから。実際、竜はいたし、魔女もいたのだし。
「犬上。取り敢えず、今日は一旦帰るよ。お前は一先ず、待っててくれ。僕の知り合いに、というか、お前も見たあの女の子なんだけど、あいつそういう、オカルトみたいなことに割と詳しいんだ。」
まああいつ自体がその『オカルトみたいなもの』なんだけど。
「……だから、何か力になれるかもしれない。分かんないけど。」
何とも頼りない感じになってしまったが、過剰に期待させるよりは良いだろう。力になれるかも、とは言ってみたがその確証はないのだ。事情を話しても、あいつが対処法を持っているとも限らない。魔女についても然りだ。
「分かった。俺ももうちょっと犬神について調べてみるよ。この蔵の中にまだ情報が残されてないとも限らないし。今日はありがとう、伊瀬。」
「まだ礼を言われるようなことは何もしてねえよ。繰り返すようだけど確約ってわけじゃないんだ。」
「いや。そんなことはない。話せただけで、信じるって言ってくれた奴がいるだけで、大分楽になったよ。こんなこと、普通じゃないからな。だから、ありがとう。」
……そんなことを言われてしまうと、バツが悪い。僕は別に犬上のためを思って、彼の話を聞いたわけではないのだ。たまたま知っていたから、世の中には常識外れなことがあると思い知っていたから、面倒だと溜息を吐きながら、嫌々ながらしょうがなく遣る瀬無く相談に乗ったに過ぎない。だから、感謝なんてされると居心地が悪い。仕方がなく、世の不思議を彼に先駆けて体験した者として、果たすべき義務を僕は履行したに過ぎないのだ。
そう言えば、あの魔女もそんなことを言ってたっけ。
――良識ある人間として、力持つ魔女として、当然の責務を果たしているに過ぎない。
まあ僕と魔女とでは、知識も実力も経験も、その言葉の重みもまるで比べ物にならないのだろうが、案外あいつもこんな風に決まり悪く感じていたのかもしれない。
助けた側に自覚がなくとも、それとは無関係に、助けられたと感じてしまう、なんてことはよくあることだ。それをただの食い違いと切り捨てることも出来るのだろうが、四月の終わり、一匹の竜や一人の魔女に救われた僕としては、犬上の感謝の言葉を無下にすることも出来なかった。
当然すべきと思うことをすることで、感謝されるというのなら、わざわざそれを拒む意味も理由もありはしない。――ただ少し、こそばゆいというだけ。