<11>
僕たちの再戦、伏見のリベンジマッチは結果だけ先に言ってしまうと、僕の勝利に終わった。伏見のリベンジは僕によって阻まれた。
昼食休憩四十分のうちの凡そ三十分、僕と伏見は一対一をし続けた。それもハーフコートでの一対一ではない。オールコート目一杯使った、常軌を逸した対戦形式だった。
本来、バスケットボールはコートという限られた空間を敵味方併せて十人で埋めるスポーツである。それを二人で埋めようとすればどうなるかは明らかだ。個人の運動量が、圧倒的に増加する。勿論、一対一という形式ではパスという概念がなくなるため、そのまま運動量が五倍になるわけではないのだろうが、どちらにしても異常であることには変わりがない。
恐らくだが、こんな練習を取り入れているチームはどこにもないだろう。そもそも、コート全部を使って一対一をする場面なんて現実的にあり得ないのだ。
――三十分間、伏見は獣の様に走り続けた。流石、を通り越して、異常とさえ言える体力だった。
高校でのバスケの試合時間は、男女共に十分、四クォーター制だ。各クォーター間にはそれぞれ休憩時間が設けられ、言わずもがな、一人の選手が三十分走り続けることなど決してないし、やろうと思って出来ることでもない。ボールを持っていない選手は、様子を見ながらも止まっている時間があるし、ファウルやタイムアウトがあれば時計も運動も止まる。四十分間常に動き続けている選手など、コート上のどこにもいない。
この昼休みの伏見と同じことをしようとすれば、男子選手でも十分やそこいらで音を上げるだろう。あの犬上を以てしても、三十分間プレーの質を落とさずに戦うことは出来ないはずだ。
それを彼女はしてのけた。オフェンスでは常にボールを持った状態で、ディフェンスでは常に一線として、つまり最も体力的負荷のかかる状態でプレーし続けた。
そんな彼女の体力を素直に僕は化物並みだと思った。……そして、それに勝った僕は、正真正銘の化物だった。全力で当たって欲しいという彼女の要望と言う名の命令に、僕は応え続けた。応え続けられてしまった。
三十分の間にどれだけの攻防があったのかは最早定かではない。確かなことがあるとすれば、ただの一度も彼女が僕を止められなかったっことと、ただの一度も彼女がシュートを決められなかったことだけだ。
僕は完膚なきまでに彼女を打ちのめした。
自慢をしたいわけではない。これは自慢できるような話ではない。決して、彼女が彼女、女性だから、男性である僕が勝っても自慢にならないという意味ではなく、例えば男女が逆だったとしても、本当にこれは自慢話にはならないのである。どころか恥ずべき話なのだ。こんなものは。
――だって、僕の力は、僕のものではないのだから。
僕のものではない。僕の努力によって培われた力ではない。縁に、あの竜に借りているに過ぎない。虎の威を借るならぬ、竜の威を借る人間だ。
借りていること自体は構わない。それはもう仕方のないことだし、そもそも悪いことではない。あの偉大な竜の与えてくれた力だと思えば、寧ろ誇らしい気さえする。
ただ、その取って付けたような、努力も何もなしに手にした人様の力で、竜の力で、人の努力をずたずたに蹴散らすのは、最低に気分が悪かった。昨晩の伏見を見てしまった僕には、余計に苦しく、泥を飲むように苦々しく、肺腑を焼くように痛かった。
それでも尚僕が全力を出し続けたのは、曲がりなりにも同じコートに立つプレーヤーとして、彼女を侮辱することは許されないように思えたからである。どんなに力量の差があろうと、全身全霊を賭して抗う相手に、適当なことをするのでは余りに無礼というものだろう。
僕にもまだそういった精神が残っていたことは意外だったが、しかし彼女の鬼気迫るプレーを見せられてはそんな風に思ってしまうのも無理からぬことだった。
「何で」
圧倒され、粉々に砕かれたはずの伏見は、それでも悔しさを滲ませて呟いた。
それを見て、苦しいのも苦いのも痛いのも、本当は全部伏見のものなのだと僕は悟った。僕などが簡単に思って良い感情ではないのだと……。
「違うんだ、伏見。これは」
壁にもたれ掛かる彼女に、言いかけてその先の言葉に詰まる。何と声をかければ良いのか、分からない。これは僕の本当の実力じゃない、なんて言ってそれでどうなると言うのか。まさか、僕の体のことについて言うわけにもいくまいし、それで信じてもらえるはずもない。
「何が違う」
「僕はこれでも男だ」
「だから何だ。男なら勝って当たり前か。そんなルール、わたしは認めてない」
そうだろう。伏見はそんな言い訳を認めてしまう人間じゃない。この三十分でそれは嫌というほど分かった。
「何でそこまでこの勝負にこだわるんだ。体育の時といい」
「……だって、お前がずっと手を抜いてやってたって、分かったから」
――ああ、そうか。そういうことか。つまり伏見は、舐められてると思ったのだ。それが気に食わなかったから、それが許せなかったからこんなことをしている。
「お前凄いな」
たったそれだけのために、こんな馬鹿げたことが出来てしまうなんて。……それだけのために、あんな脅しをかけるなんて……。
「凄いのはどう考えてもそっちだ。正直化物かと思った」
まあ、何を隠そう、そうだ。僕は正真正銘の化物だ。世界を六つに割る力を持つ竜の眷属みたいなものだ。それとお前は三十分も渡り合っていたんだ。
「こっちはぜえぜえだって言うのに、息一つ乱れてないし。何で、隠してた」
息一つ乱れていないという伏見の言葉は、まさにその通りだ。僕の体は全部分に於いて性能が向上しているらしいが、中でもとりわけ性能アップの効果が表れているのは、心肺機能だった。まあ、心臓を移植されたために生じた変化なのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、それにしても三十分走り詰めで息が上がらないなんて、流石に自分でも驚いた。
「別に隠してたわけじゃ」
「嘘だな」
その通りです。
いや、自分がここまで桁外れに身体機能が上昇していると知らなかったことは本当だ。僕は今の今まで、こんなことになっているなんて想像もしていなかった。
「……目立ちたくないから」
「むかつく。次からは、少なくとも私とマッチアップする時は、今日みたいに全力でやって」
「いや、それはちょっと」
「やって」
「……はい」
何故だろう、伏見にはもう逆らえない気がする。
「それで、昨日のあれは何だったんだ?」
「あれって?」
「今日も初めの何本かはゴール下落としてたし、でも、わざとやってっる感じじゃなかった」
あれとは、昨日の無様な大失敗のことか。あの忌まわしい過去のことか。
「いや、だから、うーん。鈍ってたというか」
不慣れというか。ああ今なら、昨日の縁の気持ちが分かるような気がする。
「そう。お前は鈍っていても、あそこまで跳べるのか」
「い、いや、まあ、元々ジャンプ力には自信があって……」
「ふーん。そんな風には見えなかったが」
ばれていた。ジャンプ力は、現役時代の僕に最も欠けていた能力の一つだ。
「何でそんなこと分かるんだよ」
「だって、伊瀬のプレー、明らかに跳べない人のプレーだった。ブロック警戒してステップ変えたり、シュート浮かせたり。それだけの身体能力持ってるのに、ずるいと言うかせこいと言うか、劣等感の塊みたいなプレーだった」
へえ、と僕は感心した。
三十分対戦しただけで、そんな人間性みたいなところまで見抜いてしまうとは、大した洞察力である。しかも当たっている。
ずるい、せこい、劣等感。まさしく僕のためにあるような言葉だ。
「引退してから体が急成長したんだ」
「身長は伸びなかったのに?」
「身長の話はするな」
「ふふっ。気にしてるんだな」
あれ。笑った。笑うのか、こいつも。さっきまで怒ってる風だったのに。
いつもぴりぴりしてる感じだから、意外だ。こんな話易い奴なのか。喋り方も男っぽいって程ではないけど、あんまり女々しい感じもしない。
「別に気にしてないよ。一応平均身長には達してるし」
「気にしてるだろ。平均身長に達してるかどうかを気にしてるだろ」
「うぐっ」
その視線並みに鋭い指摘だった。
「……なあ、伊瀬。何で、それだけ動けるのに部活やらないんだ?」
少し考え込むように黙ってから、伏見はそんな質問をした。
「……それほどバスケ好きってわけじゃねえんだ、僕は」
「それも嘘」
「だから何で分かるんだよ。まさかそんなことまでプレーで分かるとでも?」
「うん、分かる。だってバスケ嫌いな人は、あんな必死にボール追いかけたりしない。多分伊瀬は、バスケは好きだけど、他のことが嫌なんだろ。……例えば、人間関係とか。何となく分かる。私もそういうの得意じゃないし、伊瀬友達いないし」
「はっきり言うな」
犬上といい、次世代のエースには遠慮がない。流石に同級生に無遠慮に友達いないって言われるとちょっと考えてしまうな。少なくとも伏見の目には、そんな風に見えているのかと思うと。うーん……。
――それはそうと学校で、先生以外の人間とこんなにも長々と会話をするのは久しぶりだった。いやもしかすると初めてかもしれない。伏見の言う通りに友達のいない僕が、こんな風に取り繕わずにクラスメートと話すことなんて、もう一生ないものだと思っていたのだが、人生分からないものだ。
「……バスケが好きじゃないってのは本当だよ。友達関係とか先輩後輩関係とか、そういうのを我慢してまで続けるほど、僕はバスケ好きじゃない。ここは競争も激しいしな」
「ふうん。……そんなやる気のない奴に負けるなんて……私もバスケ、辞めてしまおうかな……」
俯き加減に伏見は呟いた。
「駄目だ」
――思わず声に出してしまった。伏見は吃驚したように僕を見上げた。
そりゃあ吃驚もするだろう。学校では全くと言って良い程喋らない、普段は大人しい日陰者が、急に強い態度を示せば、驚きもするし、僕だったら怖がりもする。そういう人間ほど、裏に、内面に何を抱えているか分かったもんじゃないのだから。
「いや、その、すまん。でも、辞めちゃ駄目だ。こんなことで」
こんなことで、彼女を折ってしまいたくない。こんなインチキで、彼女は終わるべきじゃない。僕の所為で彼女が倒れてしまうなんて、そんなこと僕が耐えられない。自分勝手だが、彼女の為なんてまるで考えちゃいないが、それだけはやめてくれ。
だってお前は、あんな風に、必死になって努力してるじゃないか。お前は知らないだろうけど、僕は見てしまったんだ。お前が懸命に走る姿を。
「僕に負けたくらいで、これまでのことを無駄にしないでくれよ。お前がプレー見ただけで僕のこと分かっちゃったみたいに、伏見がどれだけ努力してきたのかなんて、僕にだって、全部は分かんないけど、でも多少は分かる。お前が尋常じゃなく走ってきたのは分かる。その凄さも分かる。だから、軽い気持ちで言ったのかもしれないけど、辞めるなんて言うなよ。勿体ねえよ」
「……え、あの……、」
うわあ、滅茶苦茶困ってるなあ。あのクールビューティーで通っている伏見さんが、明らかに困惑してるなあ。何やってんだろうなあ、僕。熱くなる質じゃないのに。運動後はやっぱり駄目だ。ああ、恥ずかしい。穴を掘って入りたい。
「わ、分かった。辞めない」
あれ。あれあれ? 何故か説得に成功した? これはあれか。ビビらせてしまったのか。そうかもな。いくら伏見とはいえ、一応は女の子だもんなあ。『刺す』とか脅しをかけてくるような恐ろしい高校生だけど、女の子だもんなあ。よく知りもしない男に、よく分からない熱弁をされればビビりもするよな。
「もう昼休み終わるから、着替えて教室戻ろう」
「ああ。うん。えっとー、これ、今度洗って返すから」
――伏見から借りた運動着。サイズからして、多分男物だ。どれだけやる気満々だったのやら、この対戦のために誰かから借りてきたのだろう。
「伏見に返せば良いんだよな」
「え。うん。それ、わたしの寝巻だし。サイズ間違えて大きいのを買ってしまってな」
はい? 今何と。
「え? 何? じゃあこれ、いつも伏見が着てるやつ?」
「そうだけど」
そんな、何でもないみたいに言うなよ。
「え、じゃあ、これはもう捨てて良いってことか? もう着ないから、貸してくれたってことか? 何なら僕が焼却炉にくべといてやろうか?」
この学校の焼却炉がまだ稼働しているかは知らないけど。
「やめてよ! 着るよ。ちゃんと返してよ。これからの季節、それ結構使うんだから。というか、別にそのまま返してくれて構わないのだが」
「いやいやいや、何それ。お前曲がりなりにも女子高生だろ? いくらなんでも、そりゃ意識低過ぎだろ」
息は上がらなかったとは言え、この時期にあれだけ動き回ったのだから、汗はそれなりに搔いているのだ。女子同士ならまだしも、僕は男子生徒であり、男の汗にまみれた衣服を持ち帰るなんて、女子としての意識が低いどころか、もう無意識だ。意識不明だ。
「わたしはストレートで女子高生だ。曲りなりじゃない」
「いや、そうなんだろうけど、だったらもうちょっとそれらしくしたらどうなんだ? 曲りなりじゃないと言うのなら、全うな女子高校生として、陰キャラ男子への嫌悪感をもっと全面的に押し出すとかするべきだろ」
「陰キャラって……ああ、伊瀬みたいに、いつも一人で弁当食べたり、休み時間中寝たふりをして時間を潰したりしている奴の事か」
ばれているのか!?
「……」
絶句である。絶句する以外に何もできない。
「え? なんだ? 何かおかしいことを言ったか?」
いいえ、おかしいことなど何も言っていません。あなたは真実しか語っていません。真実とは時に残酷なものなのです。
「……いや、何と言うか、これまでのお前に対する認識をかなり修正しなければな、と」
やたらズバズバ、思っていることを口に出す奴だとは思ってたけど、ここまでとは思わなかった。こいつ、これでよく普通に学校生活できてんなあ。
「何か腹立つな、その発言は。なら、それを言うならわたしだって同じだ」
「僕は別に何も変なことは言ってないはずだけど」
「そうだな。変なことは言ってない。ただ……」
「ただ、何だよ」
「伊瀬は意外と話せる奴だ。わたしと違って」
――また笑った。認識の齟齬と言えば、この点もまたそうだ。今まで、伏見が笑ってるところなんて一度も見た事なかったのに、今日はもうこれで二度目だ。仲の良い相手には、いつもこんななんだろうか。そんな感じはしなかったけど、まあ、そこまで興味を持ってじろじろ観察していたわけでもないから、多分そうなのだろう。
しかし、痛い指摘ではあった。運動後の興奮で僕はついうっかり、喋り過ぎていたのだ。いつも縁としてるみたいに、思ったことをずけずけと、口走ってしまっていた。今日まで全くと言って良い程話したことのない同級生の、それも女子生徒に向かって、曲りなりの女子高生だのなんだの、いくらなんでも真正直に言い過ぎた。
「なあ、伊瀬。今度、練習に付き合ってくれないか?」
唐突な申し出に黙りかけたが、伏見相手に何か取り繕うのは、今や無意味のように思えた。
「いや、……うーん、まあ、……いいけど。何で僕なんだ? 他に相手なんていくらでもいるだろう。部活の連中とか」
「だって、あそこまでバスケ出来て暇な奴なんて、伊瀬以外いない」
成程。消去法か。言葉を選ぶということをしない奴だ。ここまでくると清々しい。
「部活の皆は、部活で手一杯だから」
「ああ、まあ普通はそうだよな」
この学校のバスケ部の練習は厳しいのだ。学校以外で自主的に練習するのなんて伏見くらいのものだろう。
「わたしを普通じゃないみたいに言うな」
「普通じゃないだろ。じゃなきゃ授業中同級生に向かって、刺す、なんて言わない」
「……あれは、ちょっとむしゃくしゃしてたから」
いやまあ、むしゃくしゃしてたから刺す、は完全に衝動殺人の動機なんだけど。やっぱりちょっと伏見は普通じゃなかった。