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竜の心臓移植 (旧題 ある竜の転生)  作者: こげら
三章 ある罪の報酬
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<8>


 見知った街並みの、知らない景色が現れては消えて行く。間断なく、雑多な光の粒たちが、ただ音もなく過ぎていく。光陰矢の如しとは言うが、そんな、中空を疾走する矢が如き時間さえ、置き去りにしていくような感覚だった。


 大気が断続的に鼓膜に衝突して、街の喧騒など全く届かない。季節は夏だというのに、空気は冷ややかで、地上に比べればずっと清らかだ。


 電車の車窓から知らない街を眺めていると、何やら寂しいような気持ちになってしまうことがあるが、それと似たような心地だった。自分はこんなにも多くの人と出会わないまま、生きていくのかと、そんな風に感じてしまう。それほどまでに、営みの明かりはずっと遠くまで、前方の山脈が真っ黒な影を落とす場所まで続いている。環境問題のことを考えれば良好な状態とは言えないのだろうが、その光景には世界の広大さと自分の狭小さを感じさせるものがあった。


 ――僕は空を飛んでいた。


 夢の中の話ではない。現実に、大地を離れ、竜の背に乗って、空を駆けていた。尤も実際に飛んでいるのは縁であり、僕はそれに、文字通り便乗しているに過ぎない。


 空を飛ぶ夢が叶った、なんて悠長なことを言っている場合ではない。高さと速さと不安定さで、どうにかなりそうである。安全が担保されているジェットコースターや飛行機などとは比べ物にならない。何せ僕と縁を繋いでいるのは、考えに考えて作られた頑丈で安心安全なシートベルトではなく、一枚のシャツと僕のか弱い両腕だけなのだ。


 「お主っ! そんなに強く抱き着かれては、私とて苦しいのじゃが! 飛びにくいのじゃが!」


 風を切る音に負けないよう、縁は僕に大声で叫ぶ。気圧の変化で耳の調子が良くないが、それでもどうにか聞き取れるくらいには大きな声だった。


 「んなこと知るか! この強さでお前に抱き着いてないと、僕は発狂しちまうんだよ!」


 大の高校生が女の子に向かって、情けない話である。


 ――小さい頃、祖父と一緒に観覧車に乗った時のことが思い出される。あの時も、ゴンドラが一周する間中、祖父の手を握りしめていた。人肌に触れて安心を得るなんて、やはり人間も獣と変わらないな、なんてその時のことを思い出して冷静に考えられるようになったのはかなり最近のことだ。僕は元々、高い所が余り得意ではない。


 どうしてこうなったのかと、ゴンドラならぬドラゴンに、何故僕がしがみ付いているのかと言うと、説明するまでもないようにも思えるが、やはりそもそもの原因は僕が学校に教科書を忘れたことにある。その失敗がなければ、今こうして、半人半竜と化した縁の背にしがみ付いて、我が母校を目指すこともまたなかったのだから。


 半竜、と言っても竜と化しているのは翼だけだ。それも、完全変形した竜の翼の大きさに比べればかなりのミニマムサイズである。まあ、翼開長は成人男性の身長を優に上回るくらいはあるのだから、ミニマムと言ってしまうのには些か無理があるのだろうが、あくまで比べればの話である。


 セミやらカブトムシやらクワガタやらの裏側の現実的な部分を見たくないのと同じ心理で、人体から異形の翼が生えている部分を直視しないように僕はしてはいたが、薄眼でぼんやりと眺めた限りでは、左右の肩甲骨の辺りからその両の翼は生えているらしい。


 ――首から手を回してしがみ付く構図になっているため、彼女が羽ばたく度に、僕の胸の辺りで生き物の動く生々しい感触がある。理性を以って理屈を考えれば、確かにこんな風に羽の付け根に引っ付かれてはさぞ飛び辛かろう。


 しかし、この状況では理性や理屈など、無意味なことでしかない。落ちてもすぐに拾ってやる、と縁は約束してくれたが、そもそも僕は一度たりとも落ちたくないのだ。だから縁の言葉は何の慰めにもならなかったのである。


 ――当然のことながら、縁がこの形態を獲得するまでには数々の失敗があった。最初の失敗から数えて、全部で二十回は失敗し、少なく見積もっても三十分は要しただろう。


 僕と縁は人間の背中に翼の加わった形態を目指してトライアンドエラーを繰り返した。何かを思い付いたように笑みを浮かべた縁の提案に、僕が乗った形である。


 縁の指令はこうだった。


 『私の背中に翼が生えた状態を想像せよ。』


 僕は理由を尋ねぬまま、その単純な指示に従った。こと魔法に関しては縁の方が僕よりよっぽど造詣が深いと、考えるまでもなく断定出来たためである。


 初めの十回くらいは、右半身だけが化物になるイメージに引き摺られて一回目と同じような失敗を連発した。続く後の五回は、これまた僕の脳裏に焼き付いて離れない完全な竜の姿に変化させてしまった。その度に僕はがたがた震えていたわけだが、それをどうにか堪えて、いよいよ十五回目あたりで狙い通り、翼だけを竜に戻すコツを掴み、残り五回ほどでやっとこさ最終形、人体の大きさに見合った、バランスの良い形に収めることが出来るようになった。


 一般的な日本人の若者並みにサブカルチャーの影響を受けて育った僕には、人から翼が生えるという構図は想像し易かったのだろう。魔法の何たるかを全く心得ていないにも拘らず、たった二十回だけの失敗で成功に到達できたのは多分そのことが多きく寄与していた。


 そして、その形態、人間の体に翼が生えている状態に僕がこれまでのような抵抗感や嫌悪感をほとんど抱かなかったのも、やはり同じく、創作とは言ってもある程度それに慣れていたからなのだろう。どころか、あの夜、巨大な竜の恐ろしい姿の中に見出した美しさと似た印象を、僕はその姿に受けていた程である。全く、文化が心理に与える影響とは竜に劣らず恐ろしいものだった。


 などと、そんなことを感想として口走ったばっかりに、僕は縁の『では乗るが良い』という勢いだけの気前の良い言葉に乗せられて、背中に乗ってしまったのだ。こんなことになるなんて思いもせずに……。


 「竜人、とでも呼ぼうかのっ! 緊急脱出を迫られた時に、共通の認識を持っておいた方が対処も迅速になろう。こちらの形態の方がお主にとっては都合良いじゃろうしの!」


 竜人。竜人形態。竜人モード。まあ、縁の言うことにも一理ある。この姿の名称を予め決めておくことで、初動が速やかになるだろうことも、それが極めて重要であることも理解できる。


 だが、そんな理屈は抜きにして、僕は今こう叫ぶしかないのだ。


 「何と呼ぼうが構わないけど、今はそんなこと果てしなくどうでも良いよ! まだ着かねえのかよ! 縁!」


 長い。とにかく長い。そんな訳はないのだが、もう何十分も飛んでいる気さえする。


 「もうすぐじゃ!」


 凄まじいスピードだった。風から守ってくれる壁が何もない所為なのか、それとも実際にそのくらいの速度が出ているのか、どちらにしても体感としてはジェット機並みのスピードだった。これでまだ全力でないと言うのだから恐ろしい。


 高度はどれくらいだろう。息苦しさは感じないが、道を歩く人がかなり小さく見える。但し見えたと思った頃にはもう見えなくなっているので、正確な目算は出来ない。少なくとも雲より低いところを飛んでいるのは確かだ。なんて、冷静に高度を推測していられないくらいには高い。腰の辺りで僕と縁を結んでいるシャツ一枚で安心できるような高度では当然ない。


 まさか人類永遠の夢であるところの生身での飛行がこんな形で叶うなんて、夢にも思わなかった。と言うか、こんな形で叶うのなら叶わない方が良かった。前述した通り、僕は高いところが得意ではないのだ。高所恐怖症というほどに極端に受け付けないわけではないが、進んで高い場所に登ろうとするほど、僕には馬鹿や煙としての才能がないようである。


 加えてこの速度だ。高さだけならばまだ諦めがつくにしても、この高さにこの速度は、いくら我慢強いことを自らのアイデンティティの一つとして数えている僕でも、我慢の閾値を超えている。


 初めは良かった。背中にしがみ付いて上空にゆっくりと舞い上がるまではまだ我慢できた。僕も大分大人になったな、なんて余裕な感想を吐露することも出来た。しかし、縁に学校の方角を指し示してからが駄目だった。その直後、事態は急転した。


 縁の羽ばたきは、竜の羽ばたきは、やはりと言うべきか、想定の遥か上を行っていたと言うべきか、凄まじかった。初めの羽ばたき一つで、一体どれだけ進んだろうか。僕の心にあった余裕は一瞬で、羽ばたき一つで吹き飛んだ。あの魔女との戦闘を目撃していたのだから、余裕なんて作っている場合ではないと気付いて然るべきなのかもしれなかったが、残念なことに空を飛んだことへの興奮でそこまで頭が回らなかったというのが真相である。


 「お主! お主から聞いた距離が正しければそろそろのはずじゃが、細かい指示を頼む!」


 「分かった! 分かったから、一回スピード緩めろ!」


 「了解じゃ!」


 「うがぅっ。」


 加速が突然であったように、減速もまた突然だった。電車の運転手なら大目玉を喰らうレベルの急停止である。お蔭で舌を噛んだ。


 「お主? 見えるか?」


 久々の叫び声ではないクリアな声。耳もようやく正常に機能し始めた。相変わらずの高さだが、あの速度を味わった後だからか、特別怖いとも思わなくなっている。


 ……慣れって怖い。


 「あ、ああ。あれが高速で、多分あっちが駅だから、もうちょっと先だな。」


 上空から見下ろす景色は、当たり前だがいつもとは全く印象が違う。何点か基準になる特徴的な建物を定めて、頭の中に地図を思い浮かべなければ、位置関係を見失ってしまいそうだ。


 ――高速道路の等間隔に並んだ証明と、駅の雑多な明かりを根拠に目的地を絞り込む。


 「ああ、あった。あの川縁の、ちょっと暗いところが校庭だと思う。」


 「ラジャー、じゃ。」


 縁は再び加速した。そこまで速く飛ばなくて良い、と忠告しておけば良かったとまたしても僕は恐怖の中に後悔したのだった。


 ――縁との空中旅行は無限に続いたかに思われた。僕としては、もう何時間も飛んでいたと思っていた。しかし目的地に到着して、時間を確認してみると、僕と縁があの公園を出発してから、まだ五分と経っていなかった。


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