<7>
雑木林の合間を縫うプロムナードを上って行く。人工照明の設置されていない道は、真っ黒に茂る木々の葉によってより一層暗く感じられる。
地面の傾きも相まって、スマートフォンの照らす明かりがなければ平衡感覚を失ってしまいそうだった。
幸いなことに、僕以外に人の気配はない。と言っても勿論、縁という人の皮を被った赤ローブのドラゴンは例外だ。人ではない彼女は僕の後ろについてテトテトと歩いている。
――酷く静かな夜だった。風もなく、葉擦れの音さえもなく、僕たちの足音だけがじめじめとした闇に吸い込まれていくようだった。
「都合が良いな。」
都合が良い。これから僕たちのしようとしていることを考えれば都合の良い暗さである。
――坂を上り切ると石畳の小道を挟んだ奥に、一面を芝に覆われた広場が待っていた。
薄ぼんやりとした月明かりが若い芝生を照らしている。広い公園の割に遊具らしきものがほとんどなく、寂しいというほどではないが、だだっ広い印象を受ける。
「さて、この辺で良いか。」
広場のほぼ真ん中、ここならば竜の巨体を出現させても周囲に影響を及ぼさないだろう。
「うむ。十分な広さじゃ。」
「にしても大丈夫か? いくら人気がないからって、たまたま誰か通り掛かったりしたらまずいんじゃ。」
今や、いつでもどこでも電子的な記録が取れてしまう時代だ。ネットに動画でもアップされたら、想像するだけでも面倒臭いことになる。
「丙は変なところで小心者じゃのう。大丈夫じゃ。ある程度ならお主諸共、精霊術でカムフラージュ出来る。流石に注視されればばれてしまうが、まあこの闇夜、暗闇に意識を注ぐ者など獣くらいじゃ。そこまでの心配をせずとも良いじゃろう。幸いこの季節じゃ。湿気もムンムンでこれまた都合が良いわい。」
「魔法と言いお前の精霊術と言い、便利なもんだな。」
ピッキングから光学迷彩まで何でもありか。分かっていたこととは言え、毎度毎度驚かされる。
さておき、そういうことならば要件は手早く済ませよう。縁の加護によって発覚し辛くなっているのだとしても、こんな時間に外を出歩くことへの罪悪感は拭い切れていないのだ。
「じゃあ早速。縁……服を脱げ。」
命令だ。
「お主は言葉を省略し過ぎる嫌いがあるの。その言い方では誤解を生みかねん。いくら日本語が省略することに寛容な言語なのだとしても、最低限というものがあるじゃろう。」
ああ、最近学校でも多いんだよな、わけのわからない省略語。隔世の感を感じるというか……あれ、でも僕もまだ高校生なんだけどなあ。隔世というか、同世代なんだけどなあ。
「良いだろ。この場合は、ちゃんと伝わってんだから。」
僕の意図するところは、縁にはどうやら無事に伝わったようである。無論、僕の意図するところとは、縁の裸をもう一度見たい、という下卑た思惑ではない。そんなことを願ったことはこの二か月、一度だってありはしなかったのである。
何を隠そう、僕はムッツリ派なのだ。堂々と情欲を露わにするはずもない。
……まあ隠しているからこそムッツリなのだろうが、そういう喧しい指摘はさておいて、僕が久々に縁に脱衣を要求したのには、誰に言っても恥ずかしくないれっきとした理由がある。
僕も学習したということだ。同じ失敗を繰り返すことは愚か者のすることであり、人間の本質が愚かさにあるのだとしても、僕たちはそれを克服しようと常に抗わなければならない。失敗することが良いことだなんて甘いことは言わない。だけど失敗したからには、失敗した暁には、それを次に活かさなければ、人間として或は動物としてさえ失格だ。
失敗を無意味にしてはならない。あの失敗を、犠牲を、僕たちは決して忘れてはならない。そう、あの日、魔女と対峙したあの晩、縁が竜に戻ることによってビリビリに引き裂かれた尊い衣服たちの犠牲を……。
「と言うか、お前そのために、ちゃんとそのローブ持ってきたんだろ? 素っ裸にならないように。」
そういう人間味のある配慮が出来るようになってきたということなんだろう?
「いや、別にそこまでは考えておらんかった。」
考えとけよ、そこはちゃんと。ちょっと感心してたのに。
――考えなしの縁は、僕の指示に従ってローブの下のワンピースを脱いだ。換言すると、縁が僕の命令で服を脱いだ。縁が僕の命令で服を脱いだのは二度目だった。
……換言しちゃ駄目だった!
何でもかんでも世の中言葉を言い換えれば良いってもんじゃない。公にしたくない事実まで分かり易くなってしまう。
ともあれ、縁の脱ぎたてほやほやの生温かいワンピースを僕のリュックサックの中にしまい込んで、いよいよ準備が整う。
「何の準備じゃ。完全に変態のすることじゃな。」
一理どころか、万理ある。長城が造れそうなくらいに、尤もな意見だ。
――万理の長城。……あれ? ちょっと格好良いな。
「僕の人として全うな配慮を変態の一言で片づけるな。言っとくけど、服って高いんだからな。そうほいほい破られてたまるかよ。良いから、手出してくれ。縁。」
「手?」
「ああ。お前を元に戻すには、お前の肌に触んなくちゃならねえんだから。」
縁に触れながら、竜の姿を思い浮かべる。さっき魔女に聞いた話では、そうだったはずだ。
「それは知っておるが、それならば何も手である必要はないじゃろう?」
「そりゃそうだけど、良いだろ、手で。どこでも良いんなら手で何の問題もないだろ。」
そこが一番問題が、差し障りがないんだから。僕の評判的に角が立たない箇所なんだから。
「ほっぺたが良い。」
「……いや、別に……良いけど、何でだよ。何で僕の提案を断ってまで頬っぺたなんだ? その心は。」
「うーん。それは、強いて言えば、良かったから、かの。それ以上は言いたくない。それで分からんようなら、分かられたくない。」
「何だよそれ。相変わらず意味わかんねえな。」
良かったから? 何が良かったんだ? こいつの頬っぺたなんか、僕は触ったことないはずだけど。それとも他の誰かに触られたのが心地良かったから、とかか? うーん、まあその可能性は無きにしも非ず、だ。最近じゃこいつも、近所の人間に愛玩動物として認知され始めてるし。実際は、愛玩どころか、世界滅ぼすレベルで危険な生物なんだけど、こいつ、愛想だけは良いからな。下の階のおばあさんなんかは、やっててもおかしくない。はたまた隣の大学生のお兄さんだろうか。あの人もあの人で、良く言って女の子の扱いに慣れてる感じがするし、悪く言ってチャラいから、想像できてしまう。
「ま、良いけど。」
僕は縁に手を伸ばす。低い位置から僕を見上げる縁の柔らかそうな頬に、恐れながらも手を伸ばす。
――うっすらと赤み掛かった見た目に反して、ひんやりしている。いつもの縁の体温だ。冷たい肌の奥底に生命を感じる。
と言うか、こいつって顔こんなに小さかったっけ。僕の手と大して変わんねえじゃねえか。そして、見た目通り柔らかい。超やらかい。擬態語で言えば、ふにふにしてる。もちもちしてる。滑やかで気持ち良い。
ちょっとヤダこれ。なにこれ。女の子の頬っぺたって、こんなことになってんの!? 全然違うじゃんっ! やらけぇ~。ずっと触ってたい。さわさわしてたい。これのキーホルダーを作成して、日がな一日触り続けたい、割と真剣に!
「お、お主。まだかぁ? 何やらくすぐったいのじゃが。」
「なっ」
俯き加減の縁の指摘に、僕は思わず、なっとした。
あ、危ない危ない。余りの触り心地の良さに、危うく本来の目的を忘れるところだったぜ。正気を失うところだったぜ。
駄目だ駄目だ。これは危険を伴う重大な儀式なんだ。これからあの恐ろしい竜と対峙しなければならないんだ。集中しなければ。縁如きの柔肌に惑わされている場合じゃない。集中だ、集中。手の感触に集中だ。
「お、お主? 触れるだけならば、そんなにさわさわする必要はないのではないかぁ? そんな風に動かさずとも、そんな動物を愛でるように、あごの下とかをすりすりせずとも良いのでは……」
「違うんだ、違うんだよ縁。これが正式なやり方なんだ。女の子の頬っぺたに初めて触ったからといって、その触り心地の良さの虜になってるわけじゃねえんだ!」
「そ、そうなのかぁ?」
「ああ、僕を信じろ!」
「うん! 信じる! 私はお主を全面的に信頼しておる!」
うわあ、凄い罪悪感だ。
その後、僕は五分間、無言で縁の柔肌を弄び続けたという。
……善良な一般市民であるところの僕に、やたら職務質問を繰り返す国家権力の洞察力に苦言を呈したこともあったが、しかし案外、彼らには見る目があるのかもしれなかった。変質者を見抜く能力に、長けているのかもしれなかった。やはり日本の警察は優秀なのかもしれなかった。
――さて、おふざけはここまでである。本当にこんなことをしている場合でも時間でもないのだ。真実を告白すれば、永遠にそうしていたい気分だったが、僕もそこまで愚かではない。もしかすると変態ではあるかもしれないが、愚かではない。やるべきことが何なのかははっきりと分かっている。
竜をこの場に再現するのだ。
五分間動かし続けた指先の動きを止めて、目を閉じる。そのまま二か月前のあの日のことを順を追って思い出す。僕が神社の壁に釘付けにされた後、魔女の放った氷塊を粉々に砕き伏せた、竜の半身。
あの姿。人間から化物へ変容するあの光景。今でも忘れられない。どころか、余分な記憶が排除された所為か、より一層映像が鮮明になっている気さえする。右腕、右翼の竜化。歪な生命。半人半獣。半人半竜。
そして変化は全身へと広がり、やがて巨大で完全な竜となる。
思い出されたその恐ろしい姿に、変化しろと意思を込める。
「……おい、お主……。」
「……う、うわっ!」
縁の声に目を開くと、そこにあったのは竜でも人でもない、右半身が異様に発達した中途半端な化物の姿だった。
「全く、何をしておるのじゃ。」
じっとりと、恨みがましそうに僕を見つめる竜のなり損ない。まあ、なり損ないの責任は全面的に僕にある。
「ご、ごめん。」
失敗だった。縁にかけられた人化の魔法を完全に解除し、竜の姿に戻すことに、僕は失敗した。
意識していたわけではなかったが、意識しないようにどこかでしていたのかもしれない。あの、半身を竜と化した縁の姿は、僕にとってそれだけ衝撃的だったということだろう。竜の全身を想像しながら意思を込めていたつもりが、どうやら竜に還元される途中の姿を、僕は思い浮かべてしまっていたらしい。
しかしそれだけでも、右半身だけでも、竜の肉体をこの至近距離で見ると、堪らなく、後退りたくなるくらいに、恐ろしかった。
翼はまだしも、硬い筋肉で構築された腕と、人を簡単に握り潰すだけの握力を備えているであろう手、その五指から伸びる黒く鋭い爪が圧倒的な圧迫感を放っている。僕の残された野性は、その巨大さと歪さを、否応なく嫌悪してしまう。
覚悟はしていたはずだったが、縁と暮らすと決めた時に固く決めていたはずだったが、それでも恐れてしまう。自分の命が軽くなるような、あの日以来の久々な感覚だった。
恐れてしまう自分が嫌いになる。酷い劣等感だった。
「丙。一度私を人間に戻してくれ。」
努めて柔らかく話しているように聞こえた。そんな風に話させてしまう自分が情けなかった。結局騙し騙しは相変わらずかと、僕は自分に落胆した。
「ああ。」
再び目を瞑って、少女の姿を思い浮かべる。僕の同居人、僕が名付けた一人の少女の姿を思い浮かべる。
所々の跳ねが目立つ肩に届かない短めの黒髪、赤の混じった宝石のような瞳、小さな顔、とびきりの笑顔の時にだけ見える左右の八重歯、滑らかな肌、低い体温、下らなくも幸福な会話、一緒に食べた夕飯、笑ったり、驚いたり、怒ったり、泣いたり、そのどれもが鮮烈に思い出せる。
恐ろしく忘れがたい竜の姿を思い浮かべることよりも、僕にとってそれはずっとずっと簡単な行為だった。
――目を開く。いつもの縁が、立っている。
「失敗じゃったの。」
人の姿に逆戻りした縁はあっけらかんとしていた。
「しかし、収穫はあった。この失敗によって明らかになったことがある。一つはお主の恐怖は未だ克服されていないということじゃ。まあ、これは予想通りじゃな。収穫と言うより、確認と言う方が正確やもしれん。」
縁は言葉を選ばずに、真実だけを述べる。それは僕に対する彼女なりの配慮なのかもしれなかった。お前が自分に落胆したからといって、私はそうではない、気にするな、と彼女は伝えたかったのかもしれない。
「もう一つ。この魔法、かなり融通の利くものであるらしい。」
縁が気を利かせて話してくれている以上、僕もいつまでもくよくよはしていられない。気持ちの切り替えが必要だ。頭をフルに働かせて、僕の苦手な魔法の問題について考えねば。
「融通?」
「うむ。いや、これは寧ろ成功していた場合より大きな収穫を得られたかもしれんのう。つまりじゃ、私の竜化、或は人化は、お主のさじ加減によってかなり自由な調整が出来るということを今回の結末は指し示しておる。」
――成程。そこまで説明されれれば、理解できる。
つまりこの魔法は、人か竜、零か一、白か黒かの魔法ではないということを多分言いたいのだ。一と零の間に無限に数があるように、白と黒の間に、広大なグレーゾーンがあるように、この魔法という尺度にも竜と人の間にいくつもの段階が設置されている可能性があるということを、縁は指摘している。
「これを応用すれば、例えば尻尾だけを戻したり、翼だけを戻したりすることが出来るやもしれん。」
「ああ、成程。そういう可能性まであるのか。でもそれって、何かの場面で役に立つのか? 全身を戻すにしても、部分的に戻すにしても、この感じだと、時間は変わんないだろうし。」
竜化は一瞬だ。嘗て縁が魔女に襲い掛かった際、僕はその目にもとまらぬ速度を目撃している。人化には多少時間がかかっていたが、緊急事態、例えば外敵から逃走する局面で求められるのは竜化の方の速さだろう。そう考えると、部分的な還元が有効になる場面は果たしてあるのだろうか。
「のお、お主。私の翼は怖いか? 竜ではなく、翼単体で考えて身が竦むほどの恐怖をお主は感じるか? 若しくは、翼だけを竜に戻した、つまり私というただの可愛い人間もどきから、竜の翼が生えているだけで、お主はそれを受け付けぬか?」
いまいち糸の掴み切れない質問ではあるが、だからこそ僕は正直に答えるしかない。
「うん、いや、どうだろうな。やっぱりそれなりに、圧迫感はあると思うよ。羽だけでも相当でっかいし。まあでも、腕とか脚とか頭とかに比べたらそうでもないかも。人から翼が生えてる構図ってのも、漫画とかアニメとかでだけど、割と見慣れてるから、生理的な嫌悪感みたいなものは多分だけどほとんどねーんじゃないか?」
「ふむ。ならば、役立つ場面もあるじゃろう。それもかなり近いうちにの。」
暗闇の中の縁の不敵な笑みに、嫌な予感しかしなかった。