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竜の心臓移植 (旧題 ある竜の転生)  作者: こげら
三章 ある罪の報酬
39/92

<6>


 僕は大変な見落としをしていたようである。


 今日あった悲惨な事件の衝撃ですっかり忘れていたのだ。明日への絶望と、魔女との再会で頭が一杯になってしまっていた。だからこそ、そのことに僕が気付いた頃には、最早手遅れになっていたのである。


 反論の余地もなく自業自得であることは分かっていたが、この日ばかりは、どうして後悔は先に立ってくれないのかと、世の道理を恨まずにはいられなかった。


 思い返せば、あの米村担任との会話の中にもヒントはあったのだ。ヒントというか答えそのものがあったのだ。


 米村担任は忙しいと言った。そしてその理由も、聞いてもいないのに教えてくれた。後から思ってみればあれは忠告だったのかもしれない。なんて、それは流石に大袈裟ではあるが、しかし注意力を欠いてさえいなければ、その時点で僕は気付くことができるはずだったのだ。


 ――明日は古典の小テストだから教科書の指定された題材を今日の内に復習しなければならない、と。


 その復習には必須の古典の教科書と、ついでにテスト範囲や要点をメモしてあるノートも、僕は今日、学校の机の中に置いてきてしまった。鞄やら制服やらは担任に持ってきてもらっていたのだが、気絶明けで頭が回っていなかったのか、近年稀に見る失態だった。


 僕は特段勉強が得意というわけではないのだが、それでも一定以上の、教科によっては最低限の、成績をいつも収めている。


 縁が家事を負担してくれるようになってからますます増えた暇な時間を有効活用して、本腰を入れて勉強すればもう少し上を目指せるはずだが、とは言っても頑張ったところで所詮は凡人レベル。一流にはなれない。それに僕には良くもなく悪くもない、ある程度努力すれば維持できる、今のくらいの成績が丁度良く居心地が良いのである。


 その居心地の良い立ち位置を守るために、明日の古典の小テストはクリアしなければならない必須条件だった。何せ今学期の国語の成績評価の内訳は、授業態度二割、小テスト四割、期末テスト四割という、奇天烈な配分なのだ。しかもあの米村担任の作成する学期末試験は、問題が捻くれていて難解なことで有名で、前日に小一時間でも復習すれば確実に満点が取れる小テストで得点を稼いでおかなければ成績を維持することはかなり厳しくなる。


 しかし、前述した通り今や手遅れだった。


 時刻は七時半を回っている。こんな時間にわざわざ学校へ行くのが面倒だ、という僕のメンタルは勿論あるが、それ以前に学校の閉門時間を既に過ぎている。部活動の活動時間は七時までと定められており、この時間にはもう校舎は閉ざされているはずだ。


 「簡単な、あの窓についてるセキュリティ緩々の鍵くらいなら、私の精霊術で開けられんこともないぞ? 丙。」


 僕の嘆きを聞かされていた縁が、ふとそんな物騒なことを言い出す。教科書を忘れたという話から、一足飛びにその発想に行き着いてしまう辺り、彼女らしいと言えば彼女らしい、やはりそこは人間らしくない思考経路である。


 「それは僕に忍び込めって言ってるのか? 犯罪だろ、普通に。建造物侵入とか、良く知らないけど、不法侵入だ。」


 うちの学校はまだセキュリティシステム、みたいなのを入れてない遅れた学校だから、忍び込もうと思えば忍び込めるのだろうが、不法は不法である。


 「しかし、お主はその学校の生徒なのじゃろう? しかもその侵入とやらの動機は、翌日の試験に備えるため、という学生としては至極健全な、どころか褒め称えられるべき動機じゃ。侵入ではあっても、不法とまで、果たして言ってしまって良いものなのかの。」


 という彼女の甘言に、取るに足らない戯言に気持ちが揺らいでしまったのには、一年の頃から維持してきた平均よりやや高いくらいの成績を取ることへの執着や執念のようなものがあったのかもしれない。


 ……我ながら、天晴なほどに中途半端な志の低さである。


 「……うん、いや、うーん。いや、でもなあ、今から自転車で学校に行って帰ってくるのはかなり面倒だし、と言うかお前と二人乗りは色々無理だし、バスを使うにしても往復で二時間以上かかるからな。バス代もかかるし。費用対効果を考えれば、明らかに費用が嵩み過ぎって感じなんだよな。」


 一応僕も授業にはそこそこ真剣に取り組んでいるため、コストを支払って、リスクを冒してまで教材を取りに戻らずとも、恐らくは六割くらいの点数は取れるはずだし、もっと言えば、明日の朝早起きして三十分早く学校に行って復習すれば七、八割は目指せるはずだ。手間と時間を掛けてその残り、二割だか三割だかをどうしても求めるか、と問われれば判断に迷うところだ。


 ――明日の小テストで八十パー取れれば、もしかするとぎりぎり成績を保てるかもしれないし、いや、しかし微妙だなあ。


 ……いやいや、うん、まず往復二時間で四百円ちょっと掛かると言う時点で圧倒的にコストパフォーマンスが低いからな。機会費用のことを考えれば、今日はもう別なことに時間を使って、明日の朝に備えるのが最善か。


 「時間のことを気にしておるのなら、私の背中に乗って行けば良いのではないのか?」


 などと、頓狂なことを言い出す縁。


 「何だ? お前はついに、馬としての機能をも搭載するようになったのか?」


 ピッキング機能付きの馬か。ちょっと意味不明だな。


 「違わい、あんぽんたんめ。」


 あんぽんたん!


 初めて言われたが、可愛らしい語感だ。ちょっとアンパンマンに似ている。


 「じゃから、竜に戻った私の背中に乗って一っ飛びすれば、時間は問題ではなくなるじゃろう。どちらにせよ、こちらのテストもするつもりなのじゃろう? そのついでじゃ。」


 ……ついでって、簡単に言うけどそっちの方のテストは、全然ついでで済まされるような軽い儀式じゃないんだよなあ、僕にとっては。


 僕はまだ、竜に対する恐怖心を克服したわけではないのだ。人としての、人の紛い物、魔女の言う、人間もどきとしての縁ではなく、本来の姿、竜の姿をした縁への恐怖心を。


 ――いや正しくは、まだ、ではない。だってそんな風に言ってしまうと、まるでいつかは克服できるみたいに聞こえてしまう。馬鹿な、そんなことがあるものか。あの竜の恐ろしさはそんな生半可なものではない。僕の味わった恐怖は、劣等感は、人の一生を費やしたくらいで克服できるような、些細なものではないのである。


 触れることさえ全く容易ではないのに、ましてや背中に乗るだなんて、考えるだけで怖気を震う。


 「無理だろ。流石にそれは。」


 悪いけど、と口に出しそうになるのを堪えて、言うべきことを僕は言う。


 「そうかのう? 案外、あれから大分時間の経過した今ならいけるのではないか?」


 だから、そんな簡単な話じゃないんだよ。単純な話ではあるけど、だからと言って簡単じゃないんだ。僕はお前と違って、か弱いんだから。


 「まあしかし、テストは早めに済ませておくべき、というのがお主の見解でもあるわけじゃから、今晩にでも決行してしまおうではないか。私もこの体に大分慣れてきたとは言え、久々に、文字通り羽を伸ばしたい気分じゃ。学校まで行くか否かは、そのテストをしてみてから決めれば良かろう? 私が竜に戻った時点で、行くか行かぬかを正式に決めれば良い。」


 「ああ、まあそうだな。」


 十中八九、行かない方を選ぶんだろうけど。


 だが、魔法解除と再発動を早く試しておこうというのは、元々僕の意見だ。それを今夜中に済ませてしまおうというのには、何の異論もない。あの偉大なる魔女も言っていたが、寧ろ遅過ぎたくらいなのだ。


 何かしらの災難に備えて、これは何に先んじても確認しておくべき事柄だった。言わずもがな、何も起きないに越したことはないのだが、防災とはそういうものだ。


 ――念には念を入れて、慎重には慎重を期して、後二時間ほど夜が更けるのを待って僕と縁は計画を実行することにした。


 この部屋から歩いて十分もしないところに広い公園がある。谷を挟んで向こう側の公園。南側の斜面を竹林、北側をクヌギ、コナラ、サクラ類、その他諸々で構成された雑木林に囲まれる丘に築かれた、斜面と広場ばかりの公園だ。特にこの季節には青々と鬱蒼と生い茂った木々、草草によって周囲からは視界が遮られるし、夜には人も寄り付かないため、世にもおどろおどろしい竜を復活させる儀式の場としては如何にも適当だろう。


 「じゃあそれまでに、晩飯の片付けまで終わらせるか。」


 驚愕の事実に僕が慌てふためいていた所為で今晩はまだ、準備だけを終えた夕食にありつけていない。僕としては戦地に赴く気分なので、やはりどうしても腹ごしらえはしておかなければなるまい。


 「私はこの時を待っておったのじゃ! いや正直お主の小テストの話など、どうでも良いっ、と思っておった!」


 「おい。」


 なんて、いつもの如く下らない会話と楽しい食事をしている間に、緑の匂いの濃密な夏の夜は更けていくのだった。



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