<3>
岩と雪で出来た山脈が遥か下を流れていく。
耳を切る風音、身を削ぐ冷気、上空からの強烈な照り付け。肺は冷たくも清浄な空気に満たされ、体内に溜まった過剰な熱を中和している。
左手に、乱気流の色のない渦を見て、その巻き起こす風に引き込まれないよう高度と速度を保つ。
止めどない景色の移り変わり。青い山脈も、波打つ草原も、むせ返るくらいに眩しい雲の海も、何かを感じる間もなく過ぎて行く。
後ろから朝がすぐそこまで迫ってきているが、地上はまだ夜だろう。あの重い大気の壁を抜ければ目的地まではすぐだ。
急がなければならない。理由はもう忘れてしまったが、急がなければならないのだ。
呼ばれている。
誰かが呼んでいる。誰かを呼んでいる。耳に空気のぶつかる音で、はっきりとは分からないが、人間が呼んでいる。
何だろう。誰だろう。
何だったろう。誰だったろう。
昔のことで思い出せない。
聞こえない。聞こえない。何も、聞こえない。すぐそこに求めるものはあったはずなのに、厚い壁に遮られて、届かない。
寒い。冷たい。
どうして届かない。何故伝わらない。こんなにも、求めているのに。
……ああ。駄目だ。もう間に合わぬ。
「……せ。……いせ。伊瀬。」
自宅以外で目を覚ましたのは一体いつ以来だったろう。朝目が覚めると女の子がいる、というシチュエーションにはもう大分慣れてしまったので、枕元に米村担任がいても飛び上がるようなことはなかったが、それでも真っ白な知らない布団の中で横たわっているという事実は、僕を十分驚かせた。
――また似たような夢を見た。ここ数か月で、三度目ほどだろうか。
何かのストレスが原因だろうか。夢は現実世界のストレスや願望や無意識の現れだという説を聞いたことがあるが、だとすればどういうことなのだろう。僕は別に空を飛びたい、なんてことは微塵も思っていない。
それとももっと概念的で抽象的な、自由への憧れとか、抑圧からの解放とか、そんな願望を反映したのだろうか。
いづれにしても奇妙な感覚だった。やけに鮮明で、どこか懐かしいような気もする夢だった。
――まあ、夢のことをうだうだ言っていても仕方がない。所詮は夢だ。現実ではない。
現実。そうまずはこの現実を、このわけの分からない現実を、わけの分かるものにしなければなるまい。つまり、何故自分が保健室のベッドの上で横になっているのかを、明らかにしなければならないということである。
「えーっと。……っててっ。」
反射的に声が漏れる。
状況を把握しようと、取り敢えず体を起こすと額に痛みと言うより僅かな違和感を覚えたが、それもすぐになくなって頭が冴えてくる。
「起きて大丈夫か?」
「ああ、はい。大したことありません。」
嘗てのあいつの心臓は、体を常に健全な状態に保とうとする。だから、普通の人間基準の大した怪我くらいなら、大したことはない。たとえば心臓を潰されたりしなければ、僕は大丈夫なはずだ。
そっちの方がよっぽど、人として大丈夫じゃない気もするけど……。
「そうか。ただ打ったところが頭だから、お母さんに連絡はさせてもらったよ。保険の先生も大丈夫だって言ってたけど、一応病院に行って診てもらいなさい。」
前髪をかき分け患部の状態を確認する担任に、抵抗することも出来ず、居心地の悪さと手持ち無沙汰を誤魔化すために何が起こったのかを頭の中で整理する。
推察するに、僕は多分跳び過ぎたのだ。跳び過ぎて、ボードの一番下の角に頭をぶつけたのだ。あのゴールにはリングより下にボード部分がかなり余っているから、有り得なくもない。そして気を失った僕を、誰かが保健室まで運び、こうして横たえてくれたというところだろう。
無様過ぎて泣けてくる。そんな天才バスケットマン宜しく、漫画みたいな大ボケを、それも公衆の面前で犯してしまったかと思うと、ちょっと真剣に退学を考えるレベルだ。
――彼女の心臓の作用によって治癒力やダッシュ力が強化されているのと同様に、ジャンプ力もまた強化されているという可能性に思い至らなかったことが、今回の失敗の明らか過ぎる原因だった。
筋力を含む生命力と呼ぶべきものが、体全体で向上している、と理屈では分かっていたが、まさかあそこまでとは思いもよらなかった。
魔女の口振り、『その程度の変化か』という魔女の言葉を僕は鵜呑みにしていたが、考えてもみればあの女は魔女であり、僕たち一般人とは常識の範囲がずれているのだ。竜と渡り合う実力を持つ自称大賢者様の『その程度』と、一般人の『その程度』では、それこそ程度の違いがあるだろう。プロバスケ選手並みの跳躍力も、空を自在に飛び回ることの出来る魔女から見ればその程度なのだ。全く恐れ入る。
「しかし、ボードに頭をぶつけてそのまま落ちるなんて、らしくもなく面白いことするじゃないか、伊瀬。」
「はあ。ちょっと、クラスの女子に脅迫されまして。」
「女子に話しかけてもらえたのか! 良かったじゃないか!」
「そこは女子じゃなくて、脅迫という文言に引っ掛かって下さいよ!」
この担任、ホント僕のこと大好きなんだよなあ。僕のこと、と言うか、僕を苛めることなんだけど。
「というか、何でこんなところに先生がいるんですか? ここはあなたの職場じゃないでしょう。早く嫉妬と陰謀渦巻く職員室へ帰ったらどうです?」
「馬鹿なことを言うな。私の職場はそんなブラックじゃない。嫉妬や陰謀など渦巻いているものか。私の職場は遠慮と建前で出来ている。」
リアルな発言だ。
「それはそれで肩が凝りそうで嫌ですね。」
「社会なんてそんなもんだ、どこへ行っても。幸い、私はこの部屋の主とは旧知でね。時折こうして訪ねてきては息を抜いている。ここは良いぞぉ。空調は効いてるし、コーヒーも美味いし。」
「さしずめ僕は、息抜きのための口実というわけですね。」
出来るだけ咎めるような視線を送る。
「相変わらず君は。本当にそう思うかい? 私が仕事をさぼるために君を見舞いに来たとでも? 君は私をそんな薄情な人間だと思っているのか?」
まあ、流石にそんなわけはないことくらい、僕にも分かっている。この人は過保護でお節介で心配性な教師なのだ。生徒のことを想っているという点に於いては、この人に嘘はない。
「まあそうなんだけど。」
え。ちょっ、あれ。
「可愛い教え子が頭を打って気絶したというのに、仕事なんてしていられるかっ! というのは建前で、本音はただ普通に日常的に仕事なんてしてらんないだけだ。」
ぶっちゃけ過ぎだろ!
「いやあ、最近やたらと忙しくてな。明日は小テストだし、そろそろ期末テストもあるだろ? 問題作る担当押し付けられて、これがまあ面倒で面倒で。そんな時にだよ? 君が授業中に倒れたって聞いて、ははぁんこれは絶好のチャンスだと、居ても立ってもいられず私はすぐに駆け付けたね。さぼれるぜ、仕事ほっぽれるぜ、ひゃっふうー、ってな。」
リアルなテンションの高さだった。
「そこは嘘でも心配で駆け付けたって言って下さいよ。どんだけ赤裸々にもの語ってんですか。真っ裸ですか。」
尊敬とか信用とか、その他いろいろな感情を返せ。
「うん。それだけ元気があれば心配あるまい。君のことだから今日はもう恥ずかしくて教室には戻れないだろうし、そろそろお母さんも到着するだろうから、それまで安静にしていなさい。じゃっ。」
と、的確な分析を残して保健室こと休憩室を出ようとした米村担任だったが、ドアを開いたところで何か思い出したように立ち止まる。
「っと、そういえば、伊瀬。犬上には後でちゃんと礼を言っておけよ。」
「犬上?」
犬上、とはあのイケメンで有名なイケメンのことだろうか。
「お前をここまで担ぎ込んできたのは、あいつらしいからな。担ぎ込んだというか、抱え込んだらしいけど。」
にやっ、と僕の方を流し目で見遣り、今度こそ担任は退散した。
――……恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!
うわあ、うわあ! よく考えたら、ジャンプし過ぎてボードに頭ぶつけたこと自体より、気を失った無防備な寝顔ならぬ気絶顔をクラスの半数の人間に見られたこととか、あまつさえクラス一の人気者にみっともなくも情けなく運搬されたこととか、全然そっちの方が恥ずかしい!
明日学校行きたくねええええええええ!!
どうしよう! どうしようこれえ! え? 何? どうすれば良いの? 死ねば良いの? やだよお。こんなことで死にたくないよお。何? ボードに頭ぶつけたことを苦にして自殺って。どういう種類の死だよ。ないよっ、そんな種類の死に方っ! 命はそんなに軽いものじゃありませんっ!
ん? いや待て。待て待て待て。あの担任最後何て言った? わざわざ言い直して何て言った?
担ぎ込んだというか、抱え込んだ?
…………いや。……いやいやいやいや、まさか。いやいやそんなそんな。まさかね。まさかそんなことないよね。うん、ないない。あるわけない。そんな馬鹿げた話はこの世に存在してはならない。ないわ。
だってもしそうだったら、あのイケメンがおぶって僕をここまで運んできたんじゃなくて、抱えて、つまりお姫様抱っこで運んできたって言うんなら、そんなのもう僕は死ぬしかないじゃんか? そんな羞恥プレイに僕の豆腐メンタルが耐えられるわけないじゃんか?
男が男にお姫様抱っこされるなんて。うん、ない。ないない。ないわ。絶対ない。と言うかなかった。そうだよ、何もなかったじゃん。え? なかったじゃん。何言ってんの?
大丈夫だったわあ。そもそも男同士のお姫様抱っこなんて、この世界に存在しないからね? フィクションだから、ああいうのは。空想だから。現実には起こり得ないから。妄想と現実をごちゃ混ぜにしてはいけませんよ、全く。混ぜるな危険だ。
ひいー、危ね。危うく舌噛み千切るところだった。まあ多分すぐ治るけど。
……ふう。あ~ぁあ。取り敢えず、……記憶ってどうやって消すんだっけ?