<2>
翌日、僕の鈍色の高校生活に転機が訪れた。もしかするとそれは、心臓を破壊されることより、恐ろしい竜と対話することより、僕の生活を一変させるような出来事なのかもしれなかった。
――二時間目、体育の授業中のことである。
あろうことか、あの空気清浄機こと犬上祐が、空気なんてまるで読まずに僕がバスケットボール経験者であることを公衆の面前で暴露したのである。それは犬上にしては珍しく、場の空気を乱す行いだった。
「何ばらしてんだあー。」
と、誰にも聞こえない声で絶望混じりに抗議してみたが、しかし彼も悪意があってそうしたわけではないので、犬上を責めるのは筋違いなのだろう。犬上は別に、僕に何か危害を加えようとかそんな邪な気持ちで発言したのではなく、教員の質問に真正直に答えただけだったのだ。
つまり、チーム分けのお決まり、『経験者はいるか?』という先生の呼びかけに真っ先に応答した犬上が、白を切る僕を不思議そうに見つめて、その後『お前もだろ?』と本当に全く空気の読めない天然ぶりを発動したのである。
ホント空気読めよ。今までの授業でも、初心者の振りをしてたでしょうが!
それにしても先生も先生である。もう三か月近くも同じメンバーで授業しているのだから、誰が経験者かくらいは覚えていても良さそうなものだ。
「えーっと、あー、んー……すまん、名前なんだっけ。」
……そもそも名前も覚えられていなかった。
いくら僕が目立たない生徒だからって、それは教師としてどうなんだよ。成績とか、大丈夫なんだろうなあ!
男性教諭、峯田の格付けが心の中ではため口と呼び捨てOKなランクにまで降格した瞬間である。
「……伊瀬です。」
「あーそうそう。伊瀬だった伊瀬だった。ど忘れしてた。いかんなあ、最近物忘れが酷くて……。」
絶対嘘だ。あんたまだ三十そこそこだろ。ど忘れじゃない。ただの一度も覚えていなかっただけだ。
「ん? でもお前、これまでの授業じゃそんなこと言ってなかったよなあ?」
「あー……、すみません。経験者といっても、僕、下手くそなので、言い出し辛くて……。」
「おー、そうかそうか。そうだよなあ。言い出し辛いことってあるもんなあ。うん、気にしなくて良いんだぞ。」
あんたはもう少し気にしろよ。生徒の名前のこととかを気にしろよ。
ともあれ、犬上によって公表された事実は少なからずその場に衝撃を与えた。峯田先生、改め峯田が声を発するまでは『おいおい何言ってんだ犬上、おとぼけも大概にしろよ、あんな陰キャラがバスケみたいなイケイケ専用スポーツの経験者なわけがないだろう、というかあいつ誰だっけ』みたいな空気が流れたが、しかし事実が事実として教師という権威に承認されると、その流れも止み、やがて静かになった。
静寂、沈黙。つまりは白けたのである。
別に、僕は何の悪い事もしていないのに。何もしていない、換言するところのただ存在していただけなのに場が白けるとは、まるで存在を否定されているみたいだった。
――せめてざわついてくれよ。皆して、無の顔をしないでくれぇ。
友達がいないのも、空気のように扱われるのも一向に構わないが、流石に積極的に否定されると、僕でも傷付くのだ。
騒めくでも驚くでもなく、ただただ無の表情でこちらを見ながら事態の進行を待つ僕のクラスメートたち。ある種結束にも似た生徒たちの一律的な振る舞いに、僕はただ彼ら彼女らと同じ表情で中空を眺めることしか出来なかった……。
「やっぱり。」
――ぽつり、と静かで惨たらしい現場のどこかから、忌々し気で、憎々し気な声が漏れる。
どうやら犬上以外にも、僕が経験者であることを訝しんでいた輩がいたようだった。声色だけで、その声の主を判読することはできなかったが、しかし女子であることは間違いない。となると、誰が言ったのかはかなり絞られてくる。我がクラスでバスケットボールに理解のある女子はバスケ部マネージャー一人を含め、部員三名。そのいづれかであろう。
そして推察するに、多分言ったのは伏見だ。伏見、名前は確か『空』だったと思う。といっても、音の方は十中八九正解だろうが、漢字の方は僕の勝手な推測である。もしかしたら『伏見』ではなく『穴見』かもしれないし、意表を突いて『二四三』なのかもしれない。名前の方も然りだ。
そもそも僕はクラスメート全員の顔と名前を完全には覚えていない。新しいクラスになってから早三か月が経とうとしているのに、である。だから峯田教諭のことをとやかく言う権利は僕にはないのかもしれないが、しかし僕はあくまで一生徒であって、教員という人を評価する立場にある人間と同じ水準に達していなければならないなんてことはないだろう。
人の名前を憶えるのが僕はどうにも苦手なのだ。暗記が苦手で、興味のない事は特に覚えられない。そして多分、他人への興味関心が周囲に比べると些か薄いのだと思う。
そんな自分のことばかりに気を遣う自意識過剰な僕が、彼女に限って顔と名前を憶えているのは、『空』という今風な名前が印象に残っていたからとか、実は異性として気になっているからとか、そういった理由に依るものではない。
伏見空は何かと周囲の注目を集める生徒なのだ。目立つという意味では、彼女も犬上と同じだ。但し、犬上が良い方向、良い方面で注目されるのに対して、伏見はその逆、有体に言って彼女はクラスの中で、恐らく部活動の中でも、悪目立ちしている。
我がクラスのクラス委員、学校の人気者であるところの犬上祐が脚光を浴びているのだとすれば、伏見空は、疎んじと恐れの眼差しを浴びせられている。
彼女の稀な、と言って良いほどの人間性を表すことは中々に難しい。
たとえば、草食系男子など少し目が合っただけで竦んでしまうような、どころか今や絶滅危惧種に指定されている肉食系男子でさえ、一蹴してしまえるだけの能力とエネルギーを彼女は有しているが、しかし彼女が攻撃的かと言われればそうとも言い切れないのだ。彼女は誰彼構わず手当たり次第に牙を剥くような好戦的な人間では決してない。ただ人を攻撃することを厭わないのである。
日本人の多くが持つ、他人との摩擦や軋轢に対する躊躇いを、彼女はまるで持っていない。嫌いなものを嫌いと、伏見はっきりと態度で示す人物だった。
比較的整った顔立ちと華奢な体躯のお蔭で男子と見紛うことこそないが、運動部員らしいショートカットから覗く気の強そうな瞳は、寄り付く者を拒むだけの十分な迫力を備えている。
目立つという点では僕とは全く対照にある彼女だが、浮いているという意味では、僕と通じるところがある。人を寄せ付けない雰囲気にぶっきらぼうな物言いも相まって、彼女はクラスの中で孤立している。
或は彼女の場合、孤高と言う方が適当なのかもしれない。自分をひた隠しにする僕と、反感を恐れず自分を通す彼女を一緒くたにしては、彼女に対して失礼だろう。歯に衣を着せない率直な彼女を、僕は密かに尊敬しているのだ。
――まあ、怖いからお近づきにはなりたくないし、名前の漢字表記を知らないくらいには尊敬してないんだけど……。
その伏見が、僕のことで忌々しそうな言動を取ったことは、不吉な兆しでしかなかった。あの男に勝る気性の持ち主である彼女を敵に回すなど、考えるだけで胃が痛い。
視野の端で誰かが僕を睨み付けているのを感じて声の主はやはり伏見だったかと悟るが、怖くて直視できない。
こういう時は気付いていない振りをしておくのが僕の処世術だ。ほとぼりが冷めるまで、普段に増して大人しく、を心掛けよう。
――それにしても、何がそんなに気に食わないのだろう。僕のような陰キャラがバスケをやっていたことが、そんなに許せないのだろうか。
……陰キャラに人権はないのだろうか。
さておき、犬上と伏見、名前を憶えていないもう一人の女子バスケ部員に僕を加えた四人を柱として、五人一組の四チームが完成した。憐れにも僕のチームに配属されたメンバーは、あからさまには態度に示さなかったが、幸運にも犬上のチームに配された面々と比べてしまうと温度差は明らかである。特に我がチームの紅一点女子選手は、この世の終わりのような無表情をしていた。
……あれ、これ、犬上が異常に好かれてるだけだよな? 僕が嫌われてるわけじゃないよな? そうだよな、だって僕の存在は今の今まで認められていなかったんだから!
それだけは自信満々に言える。
――新学年になってから丸三か月が経った今日という日に、僕という謎の陰キャラが新たに発見されたことによって、普段と少し違った微妙な空気が流れながら、しかし表面上はつつがなく授業は進行した。
そして練習時間の二十分を消化したところで、授業はいよいよ試合形式に移行する。男女混合の五対五、一試合五分のリーグ戦である。
時間が余らない限り一チーム三試合だから、実際に試合に出て体を動かす時間は凡そ十五分である。
それは、いつも目立たないようコートの端っこで息をひそめている僕には、また遥か昔に現役を退いた僕にとっては、丁度良い運動時間だった。
……だった、のだ。この日までは。
一試合目。犬上チームとの試合はいつもと変わらず順調に進んだ。経験者であることがばれたせいなのか、若干ボールの回ってくる回数が増えた気はしたが、相手は強豪バスケ部のエース格であるあの犬上。我がチームは順当に大敗を喫し、予め下手くそだと宣言していたお蔭もあって、僕への微妙な疑いの視線はそこで掻き消えた。
『ああ、成程ね、イケてない方の経験者ね。大したことない奴ね。たまにいるよね、身の程を弁えずに部活選び間違えちゃう人。』と、多分彼らの間でそんな解釈がなされたのだろう。まあ、概ね間違いではない。僕は自他ともに認めるイケてない人間であり、イケてない経験者である。それにそういう解釈がされたことで、僕への注目が和らいだのは喜ばしいことだった。
――これで平常運転に戻れる。と、安堵したのも束の間、問題が発生したのは、二試合目、伏見率いるチームとの試合でのことである。
「勝負しろ。」
回ってきたボールをそのまま左へ受け流そうと、パスを出しかけた僕に、伏見は凡そ女子のものとは思えない鬼の形相を浮かべて、そう言ったのである。
勝負しなきゃ刺す、と伏見の鋭利な目は語っていた。
「勝負しなきゃ刺す。」
というかホントに語っていた。
なにでっ?! と、あの馬鹿なドラゴン相手だったなら、そんなとぼけた返事をしていたのだろうが、全うな女子高校生相手に殺害予告をされた驚きと恐怖で混乱した僕には、受け流しかけたボールを、手元に残すくらいの反応しか出来なかった。
恐る恐る伏見を直視すると、伏見はやはり僕の顔を恨みがましそうに、伊瀬丙という犯罪歴のない僕を親の仇であるかのように睨んでいた。
「本気でやらなきゃお前に乱暴されたって噂を流す。」
女子の放つ殺気でも、台詞でもなかった。その竜や勇者も顔負けの威圧感に、上も下もちょっとだけ漏らしたことは誰にも内緒だ。
いや、ホントちょっとだけだからっ! 匂いとかしない程度のあれだから! しないよね? あれこれ、大丈夫だよね? ホントに大丈夫だよね?
高校生にもなって、女の子の発言で泣かされてる時点で男の子としてもうかなり大丈夫ではない気もするが、それは一旦置いておいて、はてさてどうしよう。
……どうしようもねえー。
伏見空はどういうわけか、僕との一対一を御所望のようである。それも本気で、という条件を、とんでもない脅迫を添えて出してきた。
何が狙いだっ。
一対一。One on One。バスケットボール競技に於ける最大の見せ場の一つであり、選手にとっては最も楽しいとされるシチュエーションだ。当然皆の視線もそこに集まるため、こんな脅しを掛けられた状況でなければ、僕は絶対にしないプレーである。
僕は正義の味方でも国家権力でもないので脅迫に屈すること自体はやぶさかではないのだが、しかしこの場合脅迫に屈したところで僕の名誉、というか分不相応にもバスケに手を出した間抜けな陰キャラという不名誉な、それでいて居心地の良い称号が剥奪される可能性も、低確率ながらある。もし万が一、女子バスケ部の実力者であるところの伏見を抜き去ってしまったら、せっかく開放された疑いの眼差しに再び晒されることになる。
可能性は極めて低いが、この、身長と体格に極度に依存する競技では技術では劣る者が勝者になるケースも少なからずあるのだ。つまり、彼女より頭一つ背の高い僕には、ゴール下まで持ち込んで高さで戦えば、多少の勝機があるということだ。
だからといって、事実無根な脅しのネタを握られているせいで、手を抜くわけにもいかない。いくら彼女がクラスで浮いた存在でも、ぽっと出の、発見されたての正体不明の陰キャラよりは周囲に信用されている。良く言って素直な性格の彼女に信頼をおく者は実のところ、彼女を嫌う者より多いのだ。彼女の流すデマをいくら僕が否定したところで、恐らく全員が全員彼女の方を信じるだろう。
だから、どうしようもこうしようも、僕は最早彼女に真剣勝負を挑むしかないのである。
衆人の前で僕を打ち負かして、恥を掻かせたいのか何なのか、彼女の狙いは未だ不明だが、僕はこの勝負への参加を渋々了承した。
――理想のパターンは本気で挑んで返り討ちにされる、だ。ドリブルを盗られるのが、一番分かり易く僕のショボさをアピールできるだろう。『あいつちょっと調子に乗ってドリブルしてボール取られてんじゃん。使えねぇ。』と、チームのメンバーに嫌な顔をされるかもしれないが、それくらいは仕方あるまい。
それに彼女なら、そんな心配をするまでもなく僕などあっさり完封してくれることだろう。犬上ほどではないにしても、伏見とて次代のエース候補の一人であるらしいのだ。女子とは言っても、県大会で上位に食い込む強豪の中心を担う選手となるとそんじょそこらの男子など、目ではない。
ということで、久々の、中学三年の夏に部活を引退して以来の真剣勝負である。本気で掛かって来い、とのことなので、成功するかは別として僕の最も得意とするプレーをそれでは披露することとしよう。
僕の得意技。
ステップ一。左手でドリブルをつきつつゆっくりと左へ移動し、相対する伏見からは視線を外し、パス出しますよぉ~、という顔で近くの味方の方を見る。出来るだけゆっくり歩き、体から力感を抜くのがポイントである。この時、口笛などを吹いても可だ。
ステップ二。クロスオーバーでボールを左手ドリブルから右手ドリブルに素早く切り替え、同時に右前方へ全力でダッシュをかける。相手の左腰と自分の左腰がぶつかるようなイメージで、最短距離を低く鋭く切り込むのがコツだ。
以上、全行程終了。
これはチェンジオブペースというバスケットボールの基本技術の応用で、言葉の意味するところは読んでそのまま速度の変化、緩急である。
野球で、緩いボールの後だとそれほど球の速くない投手のストレートであっても速く感じるのと、攻守が逆ではあるが、同様の原理を利用している。
一試合数十点から百点単位で得点の入るバスケットボールは、野球とは反対に攻撃する側が圧倒的に有利な競技である。これは、攻める側が先に動くからであり、守備側がその動きに後追いで対応しなければならないからだ。動きを先読みするというディフェンスもあるにはあるが、それはかなりの高等技術で、トップクラスの選手でも一試合を通してそのディフェンスを継続することは不可能だ。
ディフェンスはオフェンスに対して受動的にならざるを得ない。だからこそ、急激な速度の変化に対応することは極めて難しい。それがチェンジオブペースという技術が、基本的でありながらプロでも多用されている理由である。
まあ僕のそれはそんな大したものではない。すっとぼけた顔と態度を示し油断させておいて突然牙を剥くという小賢しい手だ。嘗てのチームメートには、顔でバレバレと指摘され、練習では使う頻度が日を追う毎に低くなった技である。レベルの高い相手にそう何度も使えるものではない。
しかしこの勝負に於いては、バスケ部顧問をしてセコいと言わしめた僕の得意技は、見事なまでに完全に、成功してしまったようだった。
――歯を喰いしばる伏見を置き去りにして、僕の体はゴールめがけて真っ直ぐに進む。流石は体育の授業というべきか、はたまた誰も僕が伏見を抜き去ることを予期していなかったのか、僕とゴールの間に、遮るものは最早何もなかった。
うぁっちゃあー。やってしまった。
中学時代、現役真っ只中の頃の僕の右ドライブは、確かにそこそこのレベルでも通用するものだったが、堕落した生活を送っている今現在の僕のふにゃけたドライブなど、伏見相手に通用するはずがないと思っていた。高を括っていた。……が、そこには大きな誤算があった。誤算というか、計算に入れるのをすっかり忘れていた要素が、あの竜を経験した僕にはあったのだ。
――僕の身体能力は、竜の心臓の作用によってある程度向上している。
その、ある程度、というのがどの程度を指しているのか、魔女の解説を聞いた夜から二か月が経った今日まで、僕は一度も検証しようとしなかった。通学時間が短縮されたな、というくらいには、体の変調を自覚していたが、何か実験的にその程度を把握しようとはしなかったのである。体が変質したことで日常生活に明らかな弊害が出ることがなかったため、どうしても必要性を感じられなかったのだ。
後から思えば怠慢なことだった。こういう緊急事態を想定して、いや、想定しなくとも、自分の体に常識外れの変化が起きたのだから、その変化について詳しく知りたいと、本来なら思って然るべきだ。
魔女がわざわざあんな忠告をしなければならなかったのも頷ける。僕には自覚が足りないのだ。人間から、化物に近いものに寄ってしまった自覚が。
――筋力が増強されている所為だろう。僕の敗北を目標とした決死の切り込みは、僕の、また伏見の想定を遥かに凌駕していた。卑劣さに満ちた、派手派手しさもなければ華もないそのワンプレーは、素人目に見ればさほど驚くような動きではなかっただろう。犬上や伏見が時折見せるような、脚の間や体の背面を通すスキルに比べれば、クロスオーバーは確かに見栄えしない、技とも言い難い基礎的で地味なスキルだ。
だが、ボールの移動距離が他のどの切り返し手法より短いクロスオーバーは、単純故にロスがなく、最も攻撃的で、最も速い。
そして、特別高度な技術を必要とせず、ダッシュ力のみに頼るこの単純な切り込みは、肉体の強靭さをもろに反映する、今の僕には打って付けのプレーだった。
――まあ、負けることを目標としていた僕にとっては最悪な一致だ。こんなことならば、苦手なロングシュートでも打って、茶を濁しておけば良かった。これが僕の実力だ、と適当なことを嘯いて煙に巻けば良かった。
しかしそうは言っても、後悔は先に立たない。よもやの出来事に敵味方共に硬直している現状では、僕はもうゴールに向かうしかない。伏見だけはまだ追い縋っているが、この状況からの逆転は不可能だ。スリーポイントラインの外から始まった一瞬の攻防には、既に決着が付いている。開始地点から二、三歩も走ればゴール下まで到達出来てしまう程に、バスケットボールのコートは狭いのである。
僕はゴールへ向かう。
完全なノーマーク。フリーでのゴール下シュート。目立ちたい人間にとっては絶好のチャンスであり、目立ちたくない人間にとっては絶体絶命のピンチである。
社会的地位を人質に取られている都合上、わざと外すことも出来ない。
だから僕はレイアップシュートを選択した。あのバスケットボール漫画の金字塔で言われるところの、庶民シュート。数あるシュートの中で最も確率の高いシュート方法である。鈍っている僕でも、フリーの場面ならまず外すことはない。
――左足で踏み切り、跳ぶ。両手で持っていたボールを右手に渡して、そのままボードの隅に軽くぶつければ……
……入る……はず……?
何かがいつもと違った。
ゴンッ
その『何か』が視点の高さだと気付いたのは、次に目を覚ました後のことである。