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ある日の平穏<皐>

 余りにも大変な事態が続いたので、ここで一旦小休止としよう。そうでもしなければそろそろ僕の気が滅入ってしまう。


 胸に穴を穿たれたり、恐ろしい怪物と対峙したり、いい加減休みが欲しいのだ。


 そもそも、胸に穴を穿たれる、なんて嘘みたいにグロテスクな表現をしなければならない状況に陥っているのだから、少しの休養くらいは許されるはずだ。神様だって天地創造という大仕事の後には休んでいるのだから、天地逆転、くらいの経験をした僕にもその権利はあるだろう。


 ……なんて、普段は全く神なんて信じていないのに、都合の良い時だけ名前を利用するのは各方面から顰蹙を買うかもしれないが、まあ、日本人の大多数にとっては、神様なんてそんなものだろう。何せ日本には八百万の神がいるのだ。それだけいれば有り難味も自然と薄くなる。


 何か言葉を重ねれば重ねるほどますます墓穴を掘り進めてしまいそうなので、戯言はここまでにしておいて、さておき僕が縁との生活を始めて、早くも一週間が過ぎ去っていた。


 ゴールデンウィークとか言いながら、何もゴールデンではなかった一週間と二日を経て、僕と彼女は相も変わらず同じ屋根の下で暮らしている。


 「自転車に油はさしておいたぞ、人間。」


 僕の同居人の縁である。


 縁。僕のルームメイト。跳ねの目立つ黒髪ショート。中学生くらいの女の子。赤み掛かった瞳と八重歯。漢でなくとも大食漢。古臭い喋り方。安定しない一人称。


 ――そして何より、竜である。


 邪悪と生命の象徴、人類の憎き敵、背中に巨大な翼を携え、鋭い牙と角を備えた、異形の中の異形、生物でありながら生物でない、最強にして最恐の化物。今は人の形を成していても、それが彼女の正体であり、その本質は決して変わらない。


 言葉にしてしまうと安っぽい感じになってしまうが、しかしそれも致し方ないことだ。彼女の恐ろしさを表すことなんて、そもそも出来るはずがないのである。


 そんなドラゴンと色々あって僕は生活を共にすることになったわけだが、意外なことに我が家のドラゴンは気の回る性質を持っているのだ。


 交通費と時間の節約のため、僕は高校に自転車で通っている。自宅から高校まで直線距離で凡そ十キロ、ゆっくり漕げば四十分、自己ベスト二十五分のひたすら川沿いの道のりを、多少の雨や雪や槍が降っていても、学校のある平日は毎日走破している。


 近所の停留所から、高校の最寄り駅まで繋がっている便の良いバスの路線もあるのだが、学校が駅から離れていることもあり、自転車の方が所要時間は少なくて済むのだ。


 しかし本日に限って、僕はバスでの通学を余儀なくされた。一年もの間、苦楽を共にしてきた我が相棒たるママチャリ号の調子が優れなかったためである。


 今朝、いざ学校へ行かんと意気込んで自転車を漕ぎ始めたところ、突然、我が相棒がこれまで聞いたことのないような形容しがたい悲鳴を上げたのだった。


 相棒などと馴れ馴れしく肩を組んでおきながら、思い返せばその相棒のメンテナンスなんて買ってから一度もしていなかった。それでいて雨の日も雪の日も酷使し続けたと言うのだから、全く人間というのはエゴの塊のような生き物だ。


 ……まあ言わずもがな、僕の行動、というか不行動の招いた結果である。


 見たところ、錆び付いたチェーンがこんがらがっているようだった。チェーン外れなら、今までにも経験したことがあったために、十数秒もあれば対応することが出来たのだが、今回の異常は数分を要する類のもののようだったので、僕はすぐさまバスへの乗り換えを決断した。


 朝に於ける数分は、僕にとっては死活問題なのである。


 『自転車故障』『バスに変更』『十分に一本』『次のバスまで三分』『乗り遅れたら遅刻』『目立つ』『死』という単語群が、その時次々と僕の脳内を駆け巡ったことは言うまでもない。


 焦燥の儘にバス停へと全力で走り出した僕の後ろ姿を、縁はどこかからか目撃していたのだろう。頼んだわけでもないのに、自転車のメンテナンスをしてくれたということは、そういうことだ。


 僕の同居人であるところの縁は、気の利く竜であるようだった。


 「そりゃあ助かったけど、いい加減僕のことを種族名で呼ぶの、止めにしないか? ドラゴン。」


 「それもそうじゃの、人偏。」


 「僕は部首じゃない。どちらかと言えば僕はつくりの方の人間だ。」


 何となく、漢字の主役は部首のような気がする。


 「そうじゃったそうじゃった、お主はそういう奴じゃった。スライムLv1。」


 「どういう意味だ? 何故僕をゼリー状の種族で呼ぶ。しかも今度はレベル表記までしてあるぞ。つまりは僕が一レベのスライム並みに取るに足りない生物だとでも言うのか?」


 「そんなことよりお帰りなさい、丙。」


 「おい、勝手に始めて勝手に終わるな。飽きてんじゃねーよ。僕の発言に対して何か当意即妙な返答をしろよ。」


 ノリノリの僕が馬鹿みたいじゃないか。


 「下らん。それに、外出していた者が帰ってきたなら何に先んじても、お帰りとただいまのやり取りをするべきじゃろう。そんな常識も知らんのか。お主は案外、無知蒙昧なのじゃのう。」


 「辛辣過ぎる。何で帰って早々無知蒙昧なんて言ったことも言われたことない四字熟語を喰らわなきゃならないんだよ。」


 「ただいまも言わない悪い子にはそれくらいが丁度良いのじゃ。」


 彼女だって、第一声はお手伝いアピールだったくせに、まるで子供扱いである。


 まあ、実年齢で言えば僕の何十倍も何百倍も何千倍も生きているわけだから、子供扱いは本来妥当なところではあるのだが、しかし縁という人間の子供を模した馬鹿に言われると、甚だ納得し難いところである。というか、普通にむかつく。


 ということで、この家の主が一体誰なのかを、誰が一番偉いのかを、最近調子に乗り始めている無知蒙昧なるドラゴンめに叩き込んでやろう。生まれたての愚かな子供に世の中のルールを教えてやるのも、健全な人間としての先達たる僕の役割なのだ。


 さあ、僕の偉大さをとくと思い知るが良い。


 「お前、今日晩飯抜きな。」


 育児放棄。僕はネグレクトを発動した。


 ゴハンヌキ


 魔女でも魔法使いでもない僕が唯一、それも縁を相手にする場合に限って使用可能な魔法の呪文である。取り敢えずこの呪文さえ唱えておけば、縁は僕の言うことを何でも聞く。何でもだ!


 ……何だか自分が酷く醜悪な人間であるような気がした。何故だろう、『何でも』を強調し過ぎた所為だろうか。びっくりマークなんて入れた所為だろうか。


 「と、ともあれ、因みに今日のメニューは餃子なんだぜ?」


 「ぎょっ、餃子じゃとっ? あの挽き肉と野菜を混ぜ合わせ皮に包んで焼いたり茹でたり揚げたりする、あまりの美味しさから無限に食べ続けられるとさえ言われる、あの餃子じゃと!?」


 じゅるり。


 「ああ、そうだ。その餃子だ。最後の一粒を巡る争いが、最終的には東西冷戦の契機ともなった、あの餃子だ。」


 「馬鹿なっ!? 冷戦にそんな裏事情があったとは。餃子め、恐るべき威力じゃ。」


 馬鹿な会話だった。馬鹿みたいじゃなくて、馬鹿だった。


 「僕一人で三十個は流石にちょっと多いな。あー、でもしょうがない。こうなったら他に方法はない。頑張って全部食べようそうしよう。何せ冷たい戦争を引き起こすくらいだ。さぞ美味いんだろうなあ。ああ、残念だ。その感動を分かち合えないなんて、寂しいぜ。」


 「ごめんなさい調子に乗りましたこれからは何でも言うこと聞きます靴も舐めますだから卑しい私めにあなた様の餃子を分け与えて下さいお願いします神様仏様丙様。」


 「……うわあ。」


 永劫を生きる竜としてのプライド、みたいな厳格さを持ち合わせてないのか、こいつは。がっかりだよ。言わせた僕の方が申し訳ねえよ。


 「お前って結構恥知らずだよな。」


 「お主はかなりのいじわるじゃ。」


 さておき、僕の偉大さどころか、卑小さがつまびらかになったところで自転車の状態を確認しておく必要がある。いくら縁の物覚えが良いからといって、触ったこともないであろう文明の利器を完璧に修理出来るかどうかは怪しいところである。別に疑うわけでもないが、明日も朝から、勿論通学のために使用する予定があるので、今のうちに見ておくのが得策だ。


 「それにしても、自転車用の油なんて良く見つけたな。どこにあったんだよ。」


 前述した通り、自転車を購入してからというものメンテナンスなんてしたことがなかったので、自転車のおまけとして貰った機械油の所在がどこなのか、この部屋の主である僕でさえ把握していなかったのだ。


 「風呂掃除をしていたらな、洗剤がなくなってしもうての、新しいのを継ぎ足さなければと思い洗面台の下を探っておったら偶然見つけたのじゃ。朝お主が自転車にも乗らず慌てて走って行ったのは見ていたからのう。そこで私は気を利かせて、絡まったチェーンを戻し、ついでに油もさしておいたのじゃ。あの自転車のブレーキにのう。」


 「ブレーキにっ! お前実は僕を殺す気だったのか!?」


 最後の最後で何という間違いを犯してるんだ。それまでのファインプレーが全部台無しだ。


 「お前それ、未必の故意だからな?」


 いや、実際にはただの殺人未遂なのだろうが、昨日見た刑事ドラマの再放送でそんな言葉が出てきたので言いたくなっただけなのである。まあ、ただの殺人未遂の方が、全然ただごとではないのだが……。


 「密室の恋? 何じゃそのちょっといやらしそうな小説のタイトルは。」


 「違う。未必の故意だ。お決まりの聞き間違いをするな。」


 「ああ、そうかそうか。発音が似ているものじゃから、間違えた。成程のう。日本語は奥が深い。密室の鯉か。今度は一転、サスペンスの香りじゃ。料理人はどこに!?」


 「誰が読むんだ、そんな如何にも安っぽいサスペンス。そして恋も鯉も発音は一緒だよ!」


 こいつこのネタ大好きだな。


 「分かった! 犯人は鮒じゃな。あ奴らキャラが被っておるからのう。」


 聞いてねえ……。


 「そう感じてるのは古今東西どこを探してもお前だけだ。あと、僕に対する殺人未遂の犯人ならお前で正解だ。」


 犯人はお前だ。


 「ブレーキに油なんかさしたら、止まれなくなるに決まってんだろうが。」


 もしかしなくても馬鹿なのか?


 「これはうっかり。どうやら私は気を利かせたつもりで、ブレーキの利きを消滅させてしまったようじゃな。」


 「いやそれ、僕の命の危機だから。巧いこと言ったみたいな顔してんじゃねえよ。全然巧くないから。」


 そんなわけで、この晩僕と縁は二人で餃子を食べた。


 山もなければ谷もない、ましてや落ちなんてあるはずもない、こんなだらだらとした日常がいつまでも続くと、この時僕は思っていた。




 ……まあ、実際続くんだけど。







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