<ⅩⅥ>
敗北主義的精神がすっかり板に染み付いているようだった。
夜食の片付けと魔女との対談を終え、ようやく僕が床に就いたのは、午前三時を過ぎての事である。
床、と言っても今晩僕が横になっているのは、慣れ親しんだベッドのマットレスの上ではない。まさしく、文字通りの床に、押し入れから引っ張り出してきた座布団を二枚ばかり敷いて横たわっているのである。
では、誰が普段僕の使っているベッドを占有しているのかと言えば、勿論それは縁が、である。
問題は山積している。
寝具やらの生活用品も新調しなければならないし、寝具に限らず、衣服、食事、今は思い付かない他諸々。新生活の身支度を整えるにはどうしても金が必要になる。保護者たる母の了承を取り付けたとしても、これまで通りのぐうたらな生活はもはや送れないだろう。バイトでも何でもして、資金を稼がなければならない。
そして、縁のことも、僕が名付け親となった一匹の竜のことも、やはり僕は考えなければならないし、知っていかなければならないのである。
怪物、化物、異形。そういった言葉で罵られ、恐れられ、畏れられ、虐げられてきた彼女と、誰もが恐れる人類の敵と、僕の味方と、これから僕は暮らしを、生きることを共にするのだ。
いつまでかは分からない。一週間か、一年か、一生なのかもしれない。何にせよ彼女が僕を必要としてくれている間は、ずっとだ。
永遠も絆も、今や陳腐でチープな言葉に成り下がってしまったから、というわけでもないのだが、この繋がりは永遠でもないし、絆でもない。
ただ単に、一人と一匹が出遭って、独りと独りが出会って、互いに依存しながら傷を舐め合うだけの、惨めなしがらみでしかない。
――僕と縁は眠る。同じ部屋で、熱を分かち合って。
これが二回目であり、これが始まりである。
紆余曲折を経て、結局こういう形の結末になった。僕と彼女の出会いは、こうして決着した。いくつかの偶然と、余りにも献身的な魔女の助力の結果として、僕の平穏な生活は多少の歪みを抱えつつ、少しの変化を孕みつつ、ようやく戻ってきた。
色々なことがあり過ぎて、処理し切れていないことも沢山ある。語り残した部分も少なくはないだろう。確かなことと確からしいことと、不確かなことが、今だって僕の頭の中を巡り巡っている。
しかしそれでも良い。
重要なのは、僕が彼女に救われたということだけだ。僕の命を、僕の一切を、縁は救ってくれた。それだけが、重要だ。
その他は細事に過ぎない。僕が一度は死にかけたことも、やはりつまらないことなのである。
一枚だけの毛布を掛けて、充電中を示すスマートフォンの緑色のランプに薄ぼんやりと照らされた天井を、考えることを止めて僕は見つめる。
目を閉じればすぐにでも眠ってしまうくらいに、体も頭も疲れていたが、まだもう少し起きていたいような、何か面白い話でもテーブルを挟んだ向こう側のベッドに横たわる彼女としていたいような、そんな気もした。見終わった映画の感想を語り合いたいとか、多分そういう気持ちに似ている。
嵐の様に過ぎ去ったこの怒涛の三日間を、ようやく訪れた静かで平穏なこの時間に、まだ興奮と混乱の残っている今のうちに、振り返りたいと、僕は思っていたのかもしれない。
「まだ起きてるか? 縁。」
修学旅行の夜みたいな台詞である。
勿論実際にそんなイベントを経験したことはないが、恐らく心境としてはそれに近いのだろう。
「うむ。かろうじてじゃがな。」
「そういえば、あいつの名前聞いてなかったな。お前は聞いてないのか?」
魔女の名前。あの親切な魔女の名前を僕は未だに知らない。
「いや、私も聞きそびれておったわ。」
「そっか。……あんだけ世話になったんだから、今度ちゃんとお礼でもしなきゃな。名前も聞いて。」
「そうじゃのう。」
縁は静かに答える。
「……のお、丙。お主、本当にこれで良かったのかの。こんな私を、恐ろしい竜である私を受け入れてしまって、本当に良かったのかの。怖くはないか? 私が。」
夜の暗さに吸い込まれてしまいそうな縁の細い声は、酷く自虐的にも聞こえた。
「くどいぞ。良くなきゃこんなことにはなってねーよ。……それに、今はそんなに怖くない。やっぱ見た目って大事なんだなあ。そんな馬鹿な中学生みたいな姿じゃ、流石に何も感じない。」
「……。」
「どした? って、寝たのか。ドラゴンっつっても、まだ子供か。」
「眠ってはおらん。私を侮るな。子ども扱いをするな。」
私は太古より生き続ける竜じゃ、と憤慨した風でもなく縁は話す。
「……のお、丙。」
「なんだよ。」
「……そっちにいってもよいかの。」
静かな雰囲気を台無しにする暴言だった。
「絶対駄目。」
絶対に駄目である。そんなことを許したら僕のあらゆる信用が失われる。描写を省いても無駄だ。行間を読まれてお終い、邪推の波に呑まれてしまう。
「酷い言い方じゃ。残酷な四文字熟語じゃ。しかも即答とは。もう少し考慮してくれても良いのではないか? 熟考した後に、イエスと答えるべきではないのか。」
やっぱこいつ、馬鹿なんだな。
切実にそう思う。
「考える余地もねえよ。……どしたんだよ。怖くて眠れないのか? 竜のくせに。」
「そんなわけがなかろう。私は竜じゃ。この世に私より怖いものなどない。……違う。分かるじゃろう、普通に。お主それでも男子か。男子高校生というのは、もっとこう、野獣のようなメンタルの持ち主のことをさして言うはずじゃぞ。」
「男子高校生にそんな定義はない。今時の男子高校生は、草も食わないんだよ。ほとんどがむっつりなんだよ。分かってねえな。」
「全く以って不健康じゃ。そんなことでは大事な子孫が残せぬではないか。と言うか、むっつりではあるんじゃな。お主も。」
それは否定できない。縁のどこか健気さを含んだ言い回しに、心が少しも動かなかったと言えば嘘になる。
はっきり言ってドキドキした。ドギマギもした。
「当たり前だろ。僕はそういうことに全く興味がありません、なんて白々しいことを言う男子高校生がいたら気を付けろ。そいつが犯人だ。」
「何のじゃ?」
「何らかの犯罪の。」
「ふふっ。酷い偏見じゃ。」
取留めの無い会話だった。
こういう会話が出来る状態にまで戻れるなんて、彼女の竜の姿を目の当たりにした時には思いもしなかった。
怖くはないかと縁は僕に問うたが、それを僕は自信を持って否定出来た。出来たことが嬉しかった。
少女の姿をした縁を自分は恐れないらしいということに、言葉を発して初めて僕は気付いた。
「……良かった。あの時ついて行って良かった。あの時話しかけて良かった。……お主で良かった。」
噛み締めるように縁は言う。
「やめろよ今更。照れ臭い。」
照れていること自体が照れ臭い。
「照れれば良い。いくらでも照れてくれて良い。あの時お主が引き留めてくれて、手を伸ばしてくれて、私がどれだけ嬉しかったことか、お主はもっと知れば良いのじゃ。思い知れば良いのじゃ。……ありがとう、丙。」
「はいはい。そりゃあどういたしまして。」
「ふふ。お主も本当は嬉しいくせに。」
「僕の心を読むな。」
当たってるのがむかつくんだよな。
「……まあしかし、こうなることは実は分かっておったのじゃ。私にはの。」
「嘘まで吐き始めたら人間終わりだぞ。」
お前は人間じゃないんだろうけど。
「いやいや分かっておったのじゃよ。本当に。あの夜、私とお主が初めて出会い、初めて別れた夜、お主は私に言ったのじゃ。」
「言ったって、……何を。」
「……またな、と。じゃあまたな、と。つまりそれは、また会おう、という意味じゃ。」
思わぬ指摘だった。そしてその予想外の指摘に、僕は納得せざるを得なかった。
遥か昔の事のようにも思えるそんな時点から、僕は彼女に心を許していたのか、と。
またな、なんて台詞、どう解釈したって、縁の言った通りの意味にしかならないのである。
全く、僕としたことが。不覚も良い所だった。
「あの瞬間、その言葉に、私は震えた。お主にとっては、ただのありきたりな挨拶だったのかもしれぬ。あの時はまだほんの僅かだったのかもしれぬ。じゃがそれでも、私はお主に受け入れられたのじゃと、そう感じたのじゃ。」
約束は既に交わされていた。
僕がどういう魂胆でそんな約束をしたのかは、今となっては定かではない。僕が初めて縁と別れたあの晩、まだ彼女を竜として認めていない、まだ勇者に心臓を串刺しにされてもいないあの夜、月明かりの下で僕は一体何を思ってそんなことを口走ったのだろう。
意図があったのか意思があったのか、もう昔の事過ぎて覚えていない。
知り合って間もない、男の一人所帯に上がり込んで食物を要求するような変態的な少女に、異常とさえ言える、しかしてその本性は異形の、そんな突拍子もなく荒唐無稽なドラゴンに、僕は何を感じていたのだろう。
狂気か、好奇か、或は好意か。
――ああ。
そう言えば、僕の行動を説明するのに打って付けな言葉がある。
彼女がこの部屋へと攻撃を仕掛け、一進一退の攻防を繰り広げたその後、僕の襲われた心理現象。それがなければ、今こうして同じ屋根の下で眠ることはなかった。序章でしかない僕と竜の出遭いの物語を決定付け、もしかすると今も尚続いている迷惑で煩わしいそれは
――怖いもの見たさ
僕と竜は眠る。
二章 ある再会の約束、これにて完結です。