<ⅩⅤ>
魔女が待ち合わせの場所にあの神社を指定したのには理由があった。丹念に練り上げた結界の中に僕と竜を閉じ込め、更には周囲への被害、影響を抑えるという目的の他に、もう一つ目的があった。
いや寧ろこちらの方が、魔女と縁にとっては重要な事情なのかもしれなかった。
「そうだよ、お兄さん。勿論君たちを逃がさないためにフィールドを指定しったってこともあったけど、それだけが目的なら別にあの神社じゃなくても良かったんだ。だから、あの場所にこそ意味があったということだよ。そこのドラゴンさんにとって因縁のあの神社にね。まあ、因縁があるからこそ意味もあるってものなんだけど、つまりはあの場所こそが、竜が永きに亘って眠り続け、生と死の狭間を彷徨い続け、そして遂には復活を遂げた、ゆかりの地というわけだ。」
竜は転生を繰り返す。死んでは生まれ生まれては死んで、その命を、終わらない生涯を幾度となく、際限なく、繰り返す。そうして竜は生き続ける。それが竜の最も基本的な生態である。
勿論僕が実際にその様子を観測したわけではない。僕の知っている常識が正しければ、人類が彼女の繰り返される生涯を、その全容を把握することは出来ない。竜の生命は余りに永く、ライフサイクルを全期間に亘って観測することは事実上不可能であるからだ。人間と竜とでは、何もかもが違っているが、何よりもまず、一生のスケールが決定的に異なっている。
縁の命は、蓄積された情報が摩耗して、そしてついには消滅してしまうまでの時間よりずっと長い。彼女の生態を知るには、だからほとんどを彼女自身の言葉に頼るしかないのである。
僕が『設定』と決め付けた縁の過去語りを、今度は真剣に受け止め、考える必要があるようだった。
戦場で生まれ、一度は逃げ延び、そして人間によって殺された縁の一度目の人生。二度目も三度目も四度目も、数えることを止めたその後全ての人生も、畢竟結末は同じだった。甦り、また人に殺される。そんな血生臭い無限ループを、縁は繰り返してきたのだ。
終わりのない、果てのない、死の連続。
それを地獄と呼ばすして何と呼ぶのだろう。所詮人間でしかない僕には彼女の心情を察することは出来ないが、だから彼女は本当に何も感じていないのかもしれないが、そういう状況を指して人は地獄と呼ぶのだ。
昨晩、死という人生に於ける一大イベントを経験した僕には、余りにぞっとしない話である。全く以って面白くない、気が知れない話である。
さておき、先の縁の話では死んだ竜の精神と呼ぶべきものは、その骸の周囲を彷徨い続けるのだという。復活までの気の遠くなるような時間を、竜は何者にも干渉されず、何者にも干渉できずに、ひたすら待ち続ける。生きてはいない状態のまま、それでも死にきれずに、死んだままの状態で在り続ける。
無限とも思える時間、と嘗て縁はそう表現した。死ぬことさえもまるで苦にしていないように話した彼女が、である。
恐らく彼女にとっては死そのものよりも、再生を待つ拷問のように退屈な時間の方が余程辛かったのだろう。
魔女が言ったのは、縁が、その死よりも辛い期間をあの神社で過ごしたということである。
縁が精神だけで、意識だけで彷徨い続け、ついに復活を遂げた、竜ゆかりの地。
縁自身からは聞いていない話だった。僕に熱心さが足りなかったせいで、聞き逃していた事実である。
「じゃあ、前のこいつは、その、そこで……」
と、僕はここで言葉を濁さざるを得なかった。当事者である彼女を目の前にして話して良いものなのか、当然の気遣いとして、僕はその言葉を発するのを躊躇ったのである。
前世の、つまりは前の時代の竜は、あの神社の構えられている場所で殺されたのかと、僕は魔女に問わんとしたのだ。それでは余りにも配慮が足りないだろう。自分が殺された時の話なんて、誰だろうと聞いていて気持ちの良いものではないはずだ。
「良い。余り私に気を遣うでない。お主に気を遣われる方がかえって心苦しいわい。それに、その話は大して気を遣われるような類の話ではないのじゃ。」
それでも僕はその言葉を少なくとも縁の前では発したくない。
「……まあ、その辺が文化の違いなんだろうね。竜と人とでは死生観が違い過ぎる。……ともあれ、このことについては何もボクから説明しなくても、本人から直接聞いてくれれば良いんだろうけど、話の繋がりとして、事前情報として言っておくよ。と言うか、これを言っておかないと、察しの悪いお兄さんが相手だからね、どうせまた質問攻めにされてしまう。」
魔女の中での僕の評価は、もう既に察しの悪い男と決定してしまったようだった。
真っ向から否定できないところが何とも歯痒いところである。
「因みにだけどお兄さんの口にしたくない質問の答えは、ノーだよ。まあ余談だ、その辺りの詳しい話は。竜の前の体の一部があの神社に匿われていたということだけがこの場合では肝要だ。余計な話ばかりしていると、いつまでも本題に進めないから、取り敢えず今はそれくらいで納得してくれるかな、お兄さん。」
竜の前回の死に様、如何にして彼女がこの神社で眠ることになったのか、その詳細を知っているのかそうでないのか、どちらにしても魔女はこの場で話すつもりはないようだった。僕としては、その経緯は何よりも重要なことのように思えたが、しかしそれは魔女の口から語られるべきものではないのだろう。
知りたければ、僕が直接縁の口から聞かなければならないことだ。
「ああ。話の腰を折って悪かったな。続けてくれ。」
「物分かりが良くて助かった。……とにかく、竜はさっきまでボクたちが壮絶な死闘を繰り広げていたあの場所で、数百年の眠りから目覚めた。そして魔女であるボクは邪悪なる竜の帰還をいち早く、彼女が完全に復活するより先に察知した。魔力や霊力の変動に誰よりも敏感なのは、ボクたちだからね、結果としてボクは、神社の境内で竜が戻るのを待つ形になった。後はお兄さんも知っての通りだ。誰よりも早く竜のもとに馳せ参じたボクは、遠い先祖の受けた恩を返すべく呪いを掛けた。竜を人の姿に化けさせる呪いをね。それが、君と竜が出遭う前日の夜のことだったかな。」
それから魔女は、縁から片時も目を離さなかったのだと言う。目を離さず、監視を続けた。力持つ魔女の責任として。
勇者の登場というちょっとした想定外はあったものの、魔女は任務を完遂した。竜に、人間の中で暮らすチャンスを与えたのである。
「ボクの目的は、竜と出遭った、それでいて竜の本質を知らない人間に、その本性を見せつけることにあったわけだけど、その舞台にはあの神社が一番相応しかった。復活したてで、しかも勇者との遭遇によって消耗した竜でも、馴染み深いあの場所でなら、存分に力量を発揮してくれるだろうからね。まあ実際には十二分と言った感じだったけど、まさかあそこまで労力を費やした結界が容易く壊されるなんて夢にも思わなかったけど、ボクの予想は一応的中した。それは君も見た通りだ。」
話が一段落したのか、魔女はそこで湯呑の茶を啜る。
「……ああ、それから、これからの話をしておこうか。と言っても、これに関しては余りボクが口を出すようなことじゃない。この先さぞかし大変だろうとは思うけど、まあその辺は勝手にやってくれという感じだ。だから現状を、君と、そしてあなたの現状を知っておいてもらおうというだけのことだよ。あなたたちは普通じゃないんだから、気を付けてくれないと、後々面倒事になりかねない。」
僕と縁の普通じゃない現状。竜である縁が普通じゃないというのは当然のことだが、僕も僕で普通ではない。
「先にあなたのことについてだけど、あなたに掛けた呪いのことだけど、お兄さんの思うままに呪いを発動できるように調整しておいた。」
「ほう。それはつまり、丙の意思によって、竜の姿にも人間の姿にも変身できるようになったということかの?」
「そういうことだよ。その呪いを発動する権限は今やお兄さんにある。だから、竜の力を使って、世界征服とかを企んじゃっても良いんだぜ? お兄さん。」
「……そんな大それたことはしねえよ。僕はこれからも慎ましく暮らしていくんだ。」
竜の、縁の力を使ってなんて、そんなことは、たとえ僕の中に世界征服への野心がふつふつと湧いてきたとしても有り得ない。
「そうかい。まあ賢明な判断だね。もし仮にそんなことになったら、ボクやらあの勇者やらが全力で阻止しに行かなければならなくなる。太刀打ちできるかは分からないけど……。」
自信なさ気な魔女の台詞に、何か僕の許可もなしにとんでもない責任を押し付けられたような気がしてならない。あの竜殺しやこの魔女でさえも、完全復活した竜には及ばないと言うのだろうか。そんな想像を絶するレベルの力を持つ竜の手綱を、僕などが握ってしまって良いものなのだろうか。
「何でそんな仕様にしたんだよ。別に、僕に権利を委譲しなくたって良かったんじゃないのか? 今まで通りお前が管理しておけば……」
「権力の分散というやつだよ。一つ所に力が集まり過ぎるとそれはそれで風当りが強くなるからね。ボクもそれだと動きづらい。史上最強のドラゴンのお供には、お兄さんくらいの何の役にも立たない役立たずくらいが丁度良いんだ。」
「僕を無駄に中傷するな。」
「それに、」
うわあ、全然聞く耳持たねえ。
魔女は淡々と台詞を続ける。
話すのが苦手とか言っておきながら、こいつの話って長いんだよな。
「これからはボクもずっと監視を続けられるわけじゃない。もし何かあった時、例えばどこぞの勇者が協定を破棄して襲い掛かってきた時なんかに、ボクがいなければ対処出来ないようじゃ、そちらとしても困るんじゃないのかな。これは勇者に限った話じゃないんだけどね。」
勇者の他にも、竜を付け狙う輩がいるということだろうか。謎の秘密結社とかだろうか。
ショッカーとかだろうか。
「ドラゴンは都の有害鳥獣に指定されてるからね。せいぜい気を付けることだ。特に狩猟期には。」
気を付けるって、マタギとかにかよ!?
「いや、そもそもここは都内じゃないんだけどな。」
まあ冗談さ、と魔女はここで一度話を打ち切る。
「それから今度はお兄さんの体についてだけど、ちょっとお兄さん、悪いんだけど、上半身裸になってくれるかな。」
まるで業務連絡みたいに、必要な事項だけを次々に述べる女である。
「え。やだよ、恥ずかしい。」
「照れてんじゃねえよ。ボクは今真剣な話をしてるんだ。シリアスパートなんだよ、これは。」
馬鹿な! そのパートはもうとっくに終わったはずだ。
かと言って、今がギャグパートかと問われれば返答に窮するところではあるのだが、まあ僕の人生そのものが滑稽でつまらないギャグみたいなものなので、そう言ってしまっても問題はなかろう。
――シリアスパートだとか言ってる時点で、シリアスじゃないしな。
「まあ、しょうがないか。そうも真剣な顔をされちゃあな。」
僕の体の事という言うからには、竜の心臓を移植されたことで生じた変化を観察するために必要な工程なのだろう。恐らくは医療行為のようなものだ。専門家に自分の体を診療してもらえるというのだから、協力するのが患者の義務というものだろう。ふざけている場合ではない。
「……へえ、ふうん。成程ね。」
目で見て分かるような変化があるのか、それとも魔女という特別な人間の目にはその変化が明らかに見えるのか、要望通り半裸になった僕の肉体を魔女はたっぷりと凝視する。
「……中々良い体をしてるじゃないか、お兄さん。痩せ過ぎず太り過ぎず、程よい肉体のバランスを保っている。筋肉の張りも丁度良い。うん、ボクの好みの体だ。」
「何品定めしてんだっ。お前の好みなんて、別に知りたかねえわっ! ……僕の体の異常を、調べるんじゃなかったのかよ。」
シリアスパートどこいった。
本当に恥ずかしいよ。縁も食い入るように見てるし。
第一僕は自分の肉体にそこまで自信がある方じゃない。確かな目で診てもらえるというから、見せただけであって、自らの肉体をひけらかすようなマッチョな趣味を僕は持っていないし、得意になれるほど美しい肉体でもないのだ。
「いやいやお兄さん。これは別に冗談じゃないんだ。そうなる以前のお兄さんの肉体をボクは勿論知る由もないから、お兄さんにしか判断できないことなんでけど、どうだい? お兄さん。何か前と変わったことに気付かないかい? 例えば、少し筋肉質になったとか。」
魔女の指摘に、僕は改めて自分の体を見下ろす。
「……言われてみれば、そんな気がしないでもないけど、確かに。」
しかし、これでも僕は成長期真っ盛りの男子高校生なのだ。身長という点では残念ながらもう成長し切ってしまったようではあるが、体つきの方はまだまだ絶賛成長中の思春期である。男子三日会わざれば括目して見よ、とも言うのだし、僕自身も気付かない内に体格が良くなったということも十分考えられる。
重ねて言うようだが、僕は自分の肉体を自慢するような性質ならぬ性癖を持ち合わせていないので、鏡の前でポーズをとって自らのマッスル状態を逐一確認するようなこともまたしないのだ。
「……僕の成長と心臓移植が何か関係してるのか?」
「関係大ありだよ。でもそうか。その程度の、成長に紛れてしまう程度の変化か。そっちの方は思っていたより大したことではなさそうだね。」
「なあおい、勝手に納得してないで、どういうことだか僕にも説明してくれよ。」
「ああ、うん。つまりね、お兄さんの体は強靭さを増しているんだよ。肉体的に強くなっている。竜の心臓の影響を受けて、生命力が強くなっている。……だけど多分、お兄さんにとって重要なのはそこじゃない。今確認した通り、その変化は微々たるものらしいからね。ボクはもっと、気持ち悪いくらいにムッキムキになった、筋肉達磨みたいになった哀れなお兄さんの姿を想像していたのに、正直がっかりだ。」
勝手に期待して、勝手に失望された。しかも微妙に嫌な期待のされ方である。
しかしそういう可能性もあったのか。良かったあ。流石に筋肉達磨は嫌過ぎる。
「……竜の血を飲んで長命を得たなんてありふれた話さ。ましてや君の場合は心臓だ。前例のないことだから分からないけど、あくまで推測でしかないけど、君の命は最早人間並みとは言えないだろうね。」
ああ、そういうことか、となんだか胸につかえたものがストンと落ちたような気がした。
だから魔女はこうも回りくどく、言葉を濁していたのか。
竜は生命力の象徴である。そして心臓はその中でも更に象徴的な臓器である。命そのものをも表すことさえある。
考えてみれば当たり前のことのようにも思えた。あんな馬鹿げた、冗談のような再生能力が備わったのならば、寿命くらいいくら延びたって不思議ではないだろう。
いや、その方が寧ろ自然だ。何故なら、生命の肉体は破壊と再生を繰り返すことによって動的に平衡を保っているのだ。老衰、つまりは寿命によって死ぬということは、破壊に対して再生が追い付かくなるということであり、再生能力が強化されれば、当然それだけ死も遠くなる。
「……あんまりショックを受けていない様子だね。意外だよ。もっと驚くかと思ってた。」
「そりゃあまあショックじゃないわけでもないけど、何と言うか、これまでのことに比べたら大したことじゃないって言うか、僕からしてみればあの化物みたいな再生の仕方の方がよっぽどぞっとしたよ。」
前例のないことだから分からないと、魔女は言った。だから、僕の寿命がどれだけ伸長されたのか、説明することは、誰にも、四つしかない心臓を僕に分け与えた縁でさえも出来ないのだろう。奇跡的に寿命には何の影響も与えないという可能性を否定する方法もまた誰も持ち合わせていないのである。
どうなるか誰にも分かりようのないことで、くよくよしても仕方がないし、それを考えるべきはもっとずっと先のことだ。年老いた僕が、その時になって考えれば良いことである。
先送りにしてはいけない問題があるように、先送りにすべき問題もあるはずだ。
「今はまだ、あんまり実感のある話じゃねーしな。」
「そうかい。案外さっぱりしているんだね。別に褒めてはいないけど。まあ本人がそれで良いというのならとやかく言うつもりはないよ。……さておき、ボクから話しておくべきことはもう出尽くしたみたいだ。日が出てしまう前に、そろそろお暇するよ。これでもボクは魔女だからね。」
魔女は僕の部屋を後にする。登場も退場も唐突な魔女である。
まだ聞かなければならないことがあったような気もしたが、いい加減頭が回らなくなってきていたので、僕は素直に申し出に応じた。
「じゃあね、お兄さん。それにドラゴンさん。出来ればもう会いたくないものだよ。」
「何だその最悪な別れの挨拶は。僕はそうでもなねーぜ?」
「勿論私もじゃ、魔女。」
「またラーメンでも食べに来いよ。今度はチャーシューでも付けてやるからさ。」
「……仕方がないね。そこまでねだられたら無下にも出来ない。全く以って不本意だけど、しょうがないからまた奢られてあげるよ。……じゃあ、そういうわけだから。」
不愛想で、表情に乏しく、お節介で、やけに台詞の長い、お人好し魔女は杖に跨る。
「アディダス。」
そして今度こそ、深い夜の闇に魔女のマントは溶けていった。
また会いたいと、僕は不覚にも本当に、そう思っていた。