<ⅩⅣ>
どういう訳だか、僕は麺を煮込んでいた。鍋二つにお湯を合計千五百ミリリットル張って、三人分のインスタントラーメンをぐつぐつと茹で解していた。
一悶着も二悶着もあった神社の、穴の開いた壁やら抉られた地面やらの修復作業を終え、帰宅してすぐのことである。縁のお腹が減ったから何か食べようという切実な懇願に僕の方が押し負ける形になったわけだが、縁は良いとして何故魔女の分まで用意しなければならないのか、そこだけは納得がいかなかった。
「まあけちけちすんなよ。今回の件で、ボクは体力的にも精神的にも、財政的にもかなり疲弊してるんだ、これでもね。あんなリスクとコストばかりの仕事を無償でしてのけたんだから、見返りとは言わずとも、一食くらいなら奢られてやっても良いんだぜ。」
「それを世の中では見返りって言うんじゃないのか。」
しかし、魔女の言い分も尤もである。
今回のことで、魔女は何も得をしていない。何も得ていない。貴重な時間を散々費やして、あまつさえ自らの命をも危険に晒して、にも拘らず魔女は何も手に入れていない。そんなハイリスクノーリターンの狂気的なボランティア活動を、この魔女は企て、見事成功させたのである。
魔女の計画は成功裏に終わった。彼女の狙い通りの結末を迎えた。
僕に竜の恐ろしさを見せつける。一見必要性を感じないその行為は、しかし僕だけには必要な過程だった。魔女の親切なお節介がなければ、あの姿の縁を知らないまま彼女と寝食を共にしていたのかと思うとぞっとする。知らない方が良かったなんて、知ってしまった今となっては到底思えない。
それだけではない。
魔女の努力によって、何が変わったとはまだ頭の整理がついていない今の僕には説明することが出来ないが、何かが、それも劇的に変化したということだけは自信を持って言うことが出来る。
常識や固定観念だけでなく、縁に対する何かが、僕の気持ちが、あの姿を見る前と後では決定的に異なっている。恐怖という言葉だけでは説明のつかない何かが。しかも、曖昧模糊としたその感情の正体は、決してマイナスに帯びた暗いものではないのである。
魔女のしたことはそういう変化を僕に与えた。無償の正義感か義務感か、それとも僕の考えなんて遠く及ばない、もっと崇高で偉大なもののためなのか、分からないが、愚かしい僕にその愚かさを気付かせ、そして尊さを孕んだ劇的な変化をも、魔女はもたらしてくれた。
「……見返りくらいあっても良いのか。」
だから魔女に対する見返りは、報酬は、本来ならインスタントラーメン一杯などで済ませるべきではないのかもしれない。僕は魔女に対してもっと莫大な恩を感じなければならないのかもしれない。
「ああ、ごめんごめん。冗談のつもりだったんだ。からかっただけだよ。本気で見返りを求めてるわけじゃない。見返りを求められるような立場じゃない。ボクは君のために何かをしたわけじゃないんだからね。あくまでボク自身の信条を貫くためにしたことなんだから、君がそのことについて何か負い目を感じることはない。
君はボクに恩を感じるべきじゃない。いや、寧ろ君はもっと怒るべきなんだ。恨むべきなんだよ。君を傷付けたボクのことをね。ボクは君を傷付けた。勝手な思い付きで、君の大事な体に刃を突き立てた。傷を与えて、苦痛を与えた。たとえその傷が君の移植された心臓の作用で、すぐに消えてなくなってしまうのだとしても、その事実が消えてなくなるなんてことはない。
ボクは君に敵対したんだ。しかも一方的に。何の罪も犯していない、善良な一般市民に対してだ。ボクの個人的な主義主張を押し通すために、だ。いくらなんでも、そりゃあ不当だろう。君からしてみれば、とんだはた迷惑だったことだろう。だからね、君はボクを責めるべきなんだよ。自分勝手な都合で君に危害を加えたボクなんかを、招き入れて食卓を囲んでる場合じゃないんだ。ボクが言うのもなんだけどね。
そういうところ、流されちゃってるんじゃないのかな、お兄さんは。混乱するのも当然なんだろうけど、判断力が鈍るのも仕方がないことなんだろうけど、ちょっとお兄さん、危機感が足りなさ過ぎるんじゃないのかい。」
確かに、ついさっき自分の体に穴を開けた相手と仲良く食卓を囲むなんて、よくよく考えてみれば常軌を逸した異常な行動なのかもしれなかった。立て続けに連続的に発生した凡そ常人の経験し得ない異常事態に影響されて、僕自身も何か異常な性質に目覚めてしまったのかもしれない。
実際、僕の体は現在進行形で異常なのだ。異常をきたしているのではなく、異常な、異質なものに為ってしまっている。正常じゃなく、まともじゃないものに変質してしまっている。
こうして冷静に話していられるのは、竜並みの治癒力を身に宿してしまっているからじゃないのか。体に穴は開けられたけど、だけどすぐに治ったから良いだろう、なんてまるで化物みたいな感覚で物を言っているんじゃないのか、と言われると、僕は自信を持ってそれを否定できない。
まあ、体のことと心持ちのことを同列に並べて物を言うなんて、意味のないことなのかもしれないが、今晩最も危険な体験をした僕は、魔女の言う通り危機感が薄くなっているのだろう。以前の僕ならば、こうも簡単に魔女の自宅への侵入を許さなかったはずだ。
危機感、警戒心、防衛本能、そういう、僕がこれまで堅持し続けてきた自らの身を外囲から、或は害意から、守り続けてきた壁が、そして善意すらも拒んできた障壁が、ここにきて綻んできている。
「いや、でもお前がどういう気持ちで、どんな自分勝手な理由で行動したのだとしても、僕は今日のことを経験しておいて良かったと思うよ。今日というか、お前が縁にした全てのことを、僕は良かったと思ってる。お前がいなければ僕と縁は出会えなかったし、僕と竜は出遭えなかった。結果が全て、なのかは分からないけど、僕はやっぱりどうしても、お前に感謝しちまうよ。」
なんて、当事者を目の前に少し喋り過ぎただろうか。魔女に指摘された通り、こういうところが警戒心の薄くなっているところなのだろうか。
……だとしたら、それもまあ、悪くない。
「……けっ。あんまり気持ちの良い台詞ではないね。寧ろ気持ち悪いよ。それじゃあまるで人間失格だ。余り人からかけ離れないことだ、お兄さん。君がどういう気持ちでそんなことを言っているのかは分からないけど、危害を加えられて感謝するなんて人としても動物としても不健全だ。言っておくけど、人間は人間以外にはなれないよ。どんなに人間離れしようともね。それをその心臓にでも銘じておくことだ。」
相変わらず言っていることの半分も理解できないが、何となく、またもやお節介なことを言われているような気がした。お節介で有り難い、金言を聞かされているようだった。
「まっ、小難しい理屈は抜きにして、食べようではないか。魔女よ、言っておくが丙の料理は絶品じゃぞ? お主のその空きっ腹にはさぞかし沁み入ることじゃろうて。」
暢気な竜が口を挟む。
「おい、無駄にハードルを上げるなよ。インスタントなんだから。そんな大したもんじゃねえよ。誰が作ったって。」
どんぶりに移した質素な汁と麺だけのラーメンに、刻んだ小葱を散らし、ごま油を垂らしただけの、料理と言うのも憚られるお手軽な料理だ。人に自慢できるような代物では決してない。
「卵入れたい奴は勝手にやって。」
そして間もなく、と言うか、僕が食卓に卵パックを置くよりも早く、返事も何も無しに無言のまま、出来立て熱々の麺とスープの入ったどんぶりに卵が二つ投入される。遅れて僕も、化学調味料多めな香りと湯気の立ち込めるラーメンへと投じる。
……食料が三倍速で消費されていく。
「では、お主。頂きます。」
縁に続いて、僕と魔女も控えめな挨拶をして、深夜の不健康な食事会は始まった。
――その破壊力たるや、魔女の魔法も霞むほどだった。
口に入れる前から感じるごま油の香りに食欲が一気に跳ね上がる。
増進された食欲に任せて、まずはレンゲに掬ったスープを一口。
「……はああー、沁みるぅ。美味ぇ。」
全ての不安が溶けてしまったかのような、幸福感。ただの美味しいという概念を最早超越している。味覚だけでなく、何もかもが満たされる。
夜風に当てられてか、氷に貫かれてか、とにかく冷えた体に、温かく、塩気たっぷりの不健康な液体が流し込まれて、凍えかけた芯が解凍されていく。
僕は今、間違いなく幸せだ。
先行して味覚と嗅覚を襲ったごま油の作用によって、安っぽい即席ラーメンの味に香ばしい奥行きのようなものが発生している。
特筆すべきは小葱のアクセントだ。これを侮ってはならない。ほとんどしょっぱいだけのスープに葱の匂いと成分が溶け出し、本来単調なはずの味の中にも悦ばしい変化がある。ほんの少し刻んで入れただけなのに、何たるコストパフォーマンスだろう。
主役の麺。歯ごたえもコシもあったものじゃないただの小麦粉の細茹でに過ぎないのに、何故だか憎めない。どころか、啜るという行為そのものが心憎いほどに心地よく、愛おしい。スルスルと唇と唇の間を通過する感覚に、日本人としての感性が揺さぶられる。
更に、卵。偉大なる白身の包容力。黄身に対して一見地味に思われがちだが、そんなことは決してない。無精卵であるこの卵の白身に対して彼という二人称を用いてしまうのはそぐわないのかもしれないが、それでも彼の存在なくしては、この一杯のどんぶりの一体感は成り立たない。熱湯で白く固まった白身の、芳醇とさえ言える香り、ほんの僅かな甘みがスープの刺々しさを緩和し、調和を生み出している。
そして黄身。割らないように取っておいた美しい黄金の球体をいよいよ崩す時が来たようである。
すっ、と箸で一刺し。外側を包んでいた膜が破け、神秘の液体が溢れ出す。下にある麺をその液体に通して持ち上げると、一口十円もしなかったはずの庶民の味方は、金色の光沢を纏った全く別の何かへと変貌を遂げていた。
ずずずずずっ。
――あれ、何だこれ。もう死んでもいいかもしれない。
黄身のコーティングが啜り心地の良さを倍増させている。まず音からして違う。重厚感が違う。ベースのような底から込み上げる低音の響きがする。
濃厚な口当たりの黄身と、味の濃いスープが絡み合って、至高の旋律を奏でている。成程、流石に完全食品と言われるだけはある。完全だ。卵を放り込んだだけで、この一杯は完全な一品へと進化した。
加えて、こんな時間にこんな体に悪くて美味いものを食べているという背徳感が、どうにも癖になりそうだった。
畜生、おかわりしたい!
――おいおい、噂には聞いてたけど、深夜食べるラーメンの美味さって、ちょっと異常過ぎやしないか? もしかしたらこれ、何かの法律に触れてるんじゃないだろうなあ。だってそうだろう。こんなものが自由に許されてるんだったら、この国はとっくに駄目になっていなきゃおかしいじゃないか。どういうことだ? 全く辻褄が合わない。
時間が時間のため、隣近所への迷惑も考えて、声を荒げて感動を表現できないのが、悔しい限りだ。
「んんー。人間は偉大じゃあ。信じられん美味しさじゃ。これが庶民の味だと言うのじゃから、全く恐ろしい話じゃ。流石に進化し過ぎじゃろう、人間。」
珍しく縁の言う通りだと、僕は痛切に思った。
「何を言ってるんだい。偉大さでも恐ろしさでもあなたの右に出る生き物なんていないよ。それに、これは庶民の味なんかじゃない。贅沢品さ、こんなものはね。皆が皆こんな高級なものを食べていると思ったら大間違いだよ。卵と葱とごま油を入れるなんて、嗜好品とさえ言えるね。そもそも一人に付き麺一玉を宛がっている時点でちょっと常軌を逸しているよ。あなたが知らないのは無理もないのだろうけど、普通こういうものは、半分に割って残りは次の機会に取っておくものなんだ。スープにしたって、一杯分のスープを一回で使い切ってしまうなんて、おいおいお兄さん今日はどうしたんだい? 随分と大盤振る舞いだね。もしかして眠くて頭が働いてないのかな。しっかりしておくれよ。本来なら、一般家庭の常識的な食事なら、あの粉末一袋でラーメン三杯分は賄えるんだ。そうだよね? お兄さん。」
「えっ……。」
……うわあ、悪い事したなあ。お前、そんなに苦しかったのかよ、生活。何と言うかそこまで聞くと流石に不憫だ。子供の貧困が最近問題になってるけど、あれって魔女の世界でも一緒なんだな。まあ一人親の僕も他人事じゃないんだけど。
なんて言ってしまうと益々不憫な気がしてならないので、当たり障りのないように、誤魔化そう。彼女が自らの不遇に気付いてしまわぬように。
「あ、ああ、そうだな。今日はちょっと調子に乗り過ぎたかもな。はっはっ。まあ、せっかくだから存分に味わってくれよ。」
その一杯百円もしない贅沢な一品を。
「で、続きって、何か早急に話しておかなければならないことでもあるのか?」
当然、魔女が僕の家に上がり込んだ理由は、こうして幸福に浸るためではない。
続き。話の続きを魔女はしにきたのである。
「いや、取り急ぎってことでもないんだけど、事の顛末と言うか、君はまだ今回のことの全部を知ったわけじゃないだろう? それを教えてやろうかと思ってね。恩着せがましくもその情報料として、あわよくばこうやって何かお零れに与れないかと、まあそんなところだ。」
……もういっそ、三食入りの即席麺を丸々一パック進呈したい気分だった。
「そうか。じゃあ聞かせてくれよ。その事の顛末とやらを。」
ともあれ、話を聞くべき頃合いのようである。
一匹の竜が人間になり、そして僕と出遭うまでの物語を、今となっては僕も聞いておかなければなるまい。
基本的に人の話に興味のない僕だが、いつまでも無関心を通し続けるわけにもいかないのである。
だって僕が出遭ったのは、人ではないのだから。