<ⅩⅢ>
竜の鱗が剥がれ落ち、舞い散る。
月光を反射する赤い鱗は、魔法の様に眩しく輝いていた。
「まあ、魔法なんだけどね。それにしてもお兄さん。君はこうなることが分かっていたのかい?」
舞っていた鱗が一つ所に集まり出し、次第に人形を成していく。
「つまり、君がこの竜を受け入れた暁には、ボクの掛けた呪いが再発動する仕組みだったわけだけど、君はそのことを予見していたのかな、と僕は聞いているんだよ、お兄さん。」
呪いの再発動。新たに魔法をかけたのではなく、予め設置していた魔法が、発動条件を満たした。魔女の魔法で人間になっていた竜は、王子様でも何でもない男子高校生が痛め付けられることによって竜の姿を取り戻し、そしてまた、恐らくは僕の言葉をきっかけに、見目愛らしいを自認する自信過剰な少女の姿へと戻ろうとしていた。
「へえ、そういうことになってたのか。全然知らなかった。」
当然そんな事情を僕が知るはずもなく、僕はただ変わりゆく縁のどこか神秘的な姿を眺めながら、ぼんやりと魔女の問に答えた。
「……おいおいお兄さん、そりゃあいくらなんでも無鉄砲に過ぎるぜ。無責任とさえ言える。じゃあお兄さん、竜の姿のままの彼女をどうするつもりだったんだい? あの手狭なアパートの一室じゃドラゴンは飼えないよ。」
「いや、うちはそもそもペット禁止だし。」
と言うか、会話なんてしてる場合じゃないんだけど。まだ縁が変身してる途中でしょうが。
竜化の時とは打って変わって幻想的で美しいその光景に、僕はまだまだ見蕩れていたいんだけど。さてはこいつ、シリアスパートを終わらせるつもりだな?
「それともまさか、彼女と駆け落ちでもする気だったのかい。君はそういうタイプじゃないと思ってたけど、ボクの勝手な偏見だったのかな。」
魔女が人聞きの悪い憶測を立てている間に縁の変身は終わってしまった。
最後に、肌に残った鱗模様が内側へと沁み込むように消えると、縁はついに完全な人の姿を取り戻した。僕と出会った時と同じに、神社の階段で座り込んでいたのと同じに、深い赤のローブだけを身に纏った、少女の姿に竜は変身を遂げた。
「……いやまあ、お前さっき、また会いに来るって言ってたから、その時にどうにかしてもらおうと思ってたんだよ。状況から考えて、またってのが、この一件が落着したらってことだろうなとも思ってたし。それに、最悪会いに来なくても縁の力を借りればお前を探し出すことくらい何とかなるかもしれない、みたいなことはぼんやり考えてた。」
縁を人間の姿に変身させる当ては僕には魔女以外になかった。だから、どう転んだところで僕は魔女に頼ろうと目論んでいたし、どうせこの親切な魔女のことだから、頃合いを見計らって僕の要望に応えてくれるだろうとも思っていた。
他人よがり甚だしく、人の善意に付け込むようで情けない限りではあるが、こればっかりは他に手立てがなかったのである。
「ふうん。何だか便利に使われたみたいで釈然としないけど、まあ良かったよ。ボクは魔女だけど、無闇やたらに人殺し、と言うか生き物を殺すのがあんまり好きじゃなくてね。たとえ相手が邪悪な竜であっても、命を奪うのにはやっぱり抵抗があった。ボク個人としては君がこういう選択をしてくれて助かったよ。」
「え? お前、こうなってなかったら、こいつのこと殺してたのか?」
殺すなんて、あんまり物騒で陳腐な言葉を使うのも、僕としては好まないところではあるのだが、魔女の発言の真意を問いただすには、それは必要な語である。
あれ、でもこの魔女そもそも、竜として復活した縁には勝てないはずじゃなかったのか? 直接的な言葉では言ってなかったかもしれないけど、素人の何の裏付けもない憶測だけど、ガタガタ震えていたこの魔女が、あの恐ろしい竜に勝てるとは到底思えないんだけど。
「勿論そうさ。君が拒絶を選択していれば竜はその時点で死んでいた。ボクの掛けた呪いは一つじゃなかったってことさ、つまりは。手は既に打ってあった。復活したドラゴンは、いくらボクでも正攻法では倒せない。受容をトリガーとする変身の魔法の裏にもう一つ、だからボクは呪いを仕掛けておいた。拒絶をトリガーとする死の呪い、をね。」
死の呪い。死の魔法。そんなものが実際にあるものなのか。……いや、あるのだろう。こうして縁が変身している姿を目の当たりにしては、そういう呪いがあっても、不思議ではない。不可思議ではあっても、不思議ではない。
じゃあ、魔女が縁を殺す気がないっていう僕の推測は間違っていたのか。魔女は場合によっては縁を仕留める気があった。と言うより、そういう場合を想定して予め策を講じていたということだろうか。
「まあ流石に、ちゃっかり精霊術をも手に入れている竜を野放しには出来なかったってことだよ。それじゃあ余りにもバランスが悪い。大きな力というものは存在するだけで良くも悪くも周りに影響を及ぼしてしまうものだからね。人間の姿で、お兄さんのような凡庸な人間と慎ましく暮らすくらいなら何の問題もないのだろうけど、」
そこは凡庸じゃなくて平凡で良いだろ。
「拒絶され見捨てられた、しかし名前だけは残したままの危険な状態のドラゴンを放置しておけるほど人間は恐怖に対して寛容じゃない。」
今回の話を総合すると、魔女は僕に縁の竜としての恐ろしい姿を目の当たりにさせることによって、行動の意味を自覚させ、責任の重さを認めさせ、決断を迫り、彼女を是とするならば縁を人間の姿に戻し、非とするならば始末していた、ということになるのだろう。
「あの勇者のことも、じゃあ織り込み済みだったのか? お前は。」
あの男に襲われていなければ、果たして僕は縁に、名前を授けていただろうか。いやそもそも、縁と行動を共にする決意をしていたかも怪しいところである。
僕たちが、竜殺しと言う異名を持つ勇者に襲われたのは、最早遥か昔のことのようにも思えるが、昨晩、縁を警察に連れていこうと準備を終えた頃だった。だからその時点ではまだ、僕には縁を受け入れるつもりがなかったはずだ。
余り考えたくはないが、死ぬ思いをしなければ、僕が縁を受け入れ、心臓を移植されることはなかっただろうし、彼女に名前を付けてやることもなかっただろう。よって縁が精霊術を使って魔女に掛けられた呪いを解除することもまたなかったはずなのだ。
魔女が縁に呪いをかけたのが僕と縁が出会う前だったのなら、魔女は僕が殺されることまでをも見越していたということになる。
「そんなわけないじゃないか。大賢者を自称するボクでも、あれは完全に予想外だったよ。」
……お前、そんなものを自称しているのかよ。普通にダサいよ。
「あの男があんなにも早く竜の匂いを嗅ぎつけるなんて思いもよらなかった。勿論、君があんな暴挙に出ることもね。ただ、遅かれ早かれ、どういう形であろうと、人間の形を得た竜が本物の人間と関わり合いになって、いつかは名前を貰うだろうことは分かっていた。それが自然な流れというものだからね。でなきゃ人間になった意味がない。だから、どういう事態になっても対応できるように準備はしておいた。何せドラゴンが人に紛れて生きようというのだから、それくらいは最低限必要な措置だったろう。」
「それは手間をかけたのう、魔女よ。しかし、丙をあのように痛め付ける必要はなかたのではないのかの。私を怒らせるためとはいえ、何もあのようなことをせんでも、他に方法はいくらでもあったのではないのかの。大賢者を自称するならば、それくらいは思い付いて然るべきじゃろう。」
直接の被害者である僕を差し置いて、変身を終えた縁が閉じていた口をここぞとばかりに開いた。
「思い付き、と言えばまさに思い付きだったんだけどね、お兄さんを串刺しにして釘付けにしたのは。」
僕は思い付きであんな痛い思いをさせられたのか。気の迷いでありがとうとか言っちゃったけど、やっぱ許せないな、このボクっ娘。
「でも覿面だったじゃないか。効果は抜群だったじゃないか。結果的には。お兄さんという尊い犠牲があったからこそ、あなたはあそこまで我を忘れて、激情に身を任せることになったんじゃないのかな、お優しいドラゴンさん。だってそうだろう。竜として復活したあなたなら、別にボクを倒さなくても、あの封印は破れたはずなんだぜ? お兄さんをいち早く苦しみから解放したかったのなら、あなたはボクなんかにかまけてないで、お兄さんに突き刺さった封印を、たたき割るでも溶かすでもすれば良かったんだ。その可能性に思い至れないほどに、あの時あなたは理性を失っていた。ボクの目的を考えれば、あなたをそこまで、これ以上ないくらいに激昂させられたのだから、今回の作戦は大成功以外の何でもないんだ。」
魔女が一度神社を去る前、氷柱の封印は縁からしてみれば柔なものだという話を聞いていたため、勿論僕はそのことに思い至っていたが、やはりそういうことだったらしい。まだ壁にくっ付いていた頃は痛いのと怖いので混乱して何とも思わなかったが、後から考えてみればかなり間抜けな話だ。
ただそのことに関して、はっとした顔をしている縁を、責める権利は僕にはないし、あったとしてもそういう気にはならなかったことだろう。
だってそれは、僕が傷付いたことに対して、冷静さを失うほどに縁が憤りを覚えてくれたということでもあるのだから。
事が一段落付いた今もまだ、縁は僕のことで怒っている。
「そうぷんすかしなさるな。これであなたは、あなたたちは最大の秘密を分かち合ったんだ。これから関係を、こほん。これから汚らわしい関係を築いていくに当たっての」
「おい、言い直す必要性が皆無なんだけど。僕の評判を不必要に下げようとするな。」
ホントにシリアスパート終わらせる気だよ。
……尤も、僕が『さてはシリアスパートを終わらせる気だな』なんてツッコミを心の中で入れた時点で、そんなパートはとっくに終わっていたのかもしれないのだが……。
「ごめんごめん、言葉のチョイスを誤ったよ。ボクは話すのが苦手でね。そうそう、こう言いたかったんだ。訂正してお詫びするよ。これから不潔でただれた関係を築いていくに当たって」
「同じことだろうがっ! いや、ただれた、が付いてる分、風評が悪化している。僕は別にこいつとそういう不純な関係になるつもりはねえよ。」
当然だ。僕にそんな如何わしい気持ちはない。中学生女子の裸なんて、見慣れてしまえば大したことはない。
……。
「え? ないのかっ!? お主。てっきり私は、そういうことになるものとばかり思っておったのじゃが……。」
そんな縁の驚愕の表情に、僕は更に驚愕した。
「何でお前の方がその気満々なんだよ。変な覚悟を勝手に決めるな。お前が驚いてることに驚きだよ、僕は。」
「しかしどうなのじゃ? 生殖適齢期に達した雄と雌が一つ同じ屋根の下で暮らすというのに、子孫を残そうとしないのは、果たして生物としてあるべき姿と言えるのかのう、それで。甚だ疑問じゃ。」
縁の意見も一理ある。生物の究極的な本能は種の保存、種の存続にあるのだから、そういった状況にある雌雄が、事に及ばないというのも、理に適わないことなのかもしれない。
しかし、もしも何かの間違いでそういう欲求に襲われたとしても、僕が彼女に手を出すことはないという自信はある。
僕の操は鉄より固いのだ。世の中ではそれを、チキンと呼ぶこともあるらしいが、僕はそうは思わない。人間なのだから、考えを持って、理性を保って行動を選択すべきだろう。その結果として臆病者呼ばわりされるのなら僕は臆病者のままで良い。理性を失った人間なんて、獣と何も変わらないではないか。
チキンとでも何とでも蔑むが良い。
「ドラゴンの立場でものを語るな。人間には理性ってものがあるんだ。それに僕には、健全な日常を送るという崇高な目標があるんだ。」
「しかしお兄さん、ほぼ同年代の可愛らしい女の子と一緒に生活をしている思春期の男子高校生が、毎晩毎晩同じ空間で寝ているのに何も手出ししないのは、健全どころか寧ろ不健全なんじゃないのかな。どうだろう、もしそんな思春期男子が実在していたら、ボクは別な方向へ想像力を働かせてしまうかもしれないね。いや、ボクはそういった人達に差別も偏見もないのだけど、何を愛するかなんて人の勝手だからそれはそれで自由だと思うけど、それでもマイノリティであることは確かだ。もしそうでないのなら、下手な誤解を生まないように、君は本能の赴くままに行動すべきなんだよ。」
言い切った!
「何だこの包囲網っ。どうしてお前たちは僕をあらぬ方向へ導こうとするんだ。」
「……生活費の足しになるかと思って。」
「揺する気だったのかよっ。」
全く、油断も隙も無い。本気にするところだったぜ。危ない危ない。
……と言うか、危うい危うい。僕の精神が。
「ともかく、僕にそんなつもりはない。ていうか、相手がこいつじゃあな。そんな気も起きないだろ。見た目はともかく、中身がほらあれだから。何万年も生きてるっつっても中身が子供だからな。そんな奴相手にしてらんねえよ。」
「そうなのかい? ボクはてっきりそういうところに萌えているんだと思っていたんだけど。」
「僕はこいつのどこにも萌えてねえよ。お前の中で、どういうキャラ設定なんだよ、僕は。」
「チキンなロリコン。」
何だその人種、史上最悪だな。
「……ごめん、何故か痛く傷付いたから今日はもう帰るわ。」
シリアスな展開から一転、長々と他愛のない、僕が追い詰められる一方の雑談に花を咲かせてしまったが、時間も時間、時刻は深夜零時半を指している。高校生である僕や、この中で一番長命でありながら中学生くらいにしか見えない縁、そしてその格好から不審者にしか見えない魔女も、警察に見つかれば補導の対象になる。こんな町の隅っこに警察官が立ち寄るとは考えにくいが、それでも、親への連絡というリスクは、この先予想される極めて政治的な交渉のために、出来る限り回避すべきだろう。
縁という傍から見れば正体不明の、素性の知れない女子との同居を認めてもらうに当たって、その相手と一緒に真夜中に外をほっつき歩いていたとあっては、如何にも交渉の妨げになる。ただでさえ突拍子もない、前代未聞に訳の分からない話なのだから、そんな前科があっては話にもならなくなってしまう。
「分かったよ。じゃあ話の続きはお兄さんの家ということで。」
「……やっぱり、続きはあるんだな。」
と言う訳で、規則正しい生活を心掛ける僕を、しかし魔女はまだまだ休ませてくれる気はないようだった。