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竜の心臓移植 (旧題 ある竜の転生)  作者: こげら
二章 ある再開の約束
26/92

<Ⅻ>

 魔女が去ってから数十秒、あの親切で、勤勉で、公明正大な魔女が飛び立ってから数十秒、僕の肩に開いた穴は、体にぽっかりと空いた空洞は、間もなく消滅した。


 消滅した、つまりは消え滅んだ。僕の体の、体のない部分が、空白が、消滅した。或は、再生と呼ぶのが正しいのかもしれない。魔女の生み出した氷の槍によって貫かれ、損失していた筋肉が、脂肪が、皮膚が、骨が、神経が、まるで何かの化物のように、通常では考えられない速度で、回復したのである。


 体の内側から新しい肉体が生まれ出でる、異様でありながら、生物的なその再生現象を、しかし僕は大した感慨も感動もなく、ただ冷静に見守った。


 竜を前にしては、そんなことは本当に大したことではなかったのだ。


 僕と竜は語り始める。僕と縁は語り始める。


 未来の話をしようと、魔女は言い、また縁も言った。その要望に、いよいよ応えるべき時が来たようである。


 神社の本殿と比べても遜色のない巨大さを有する竜は、僕の知る縁という名の少女と同じ口調で話し始めたが、その声は縁のものでありながら縁のものではなかった。


 竜の声は、遥か地の底から轟くような、深く、重たい、それでいて甘く優しい、不思議な響きを持っていた。


 「あの魔女め。回りくどい事をしおって。こんなことをせずとも……、……いや、こうでもせねばならんかったのかの。」


 こうでもしなければ、怒り、猛る竜の、真の恐ろしさを引き出すことは出来なかっただろう。人を殺すことを厭わない、化物としての竜の姿を僕にまざまざと見せつけることは出来なかっただろう。


 「私が怖いか? 丙。」


 「……ああ、怖いよ。」


 怖さのあまり涙が出そうになるのを、膝が笑いそうになるのを、逃げだしたくなるのを堪えて、眼前の竜の、僕を見つめる大きな眼を見つめ返して言う。


 もしかするとその行為は、僕が知らないだけであって、酷く畏れ多い行為なのかもしれない。僕のようなちっぽけな人間が、この偉大な生命に向かって真っすぐに言葉を発するなんて、本来なら許されないのかもしれない。


 だけど僕にはそうしなければならない理由がある。


 「……僕はお前が怖い。震えを抑えるだけでも精一杯だ。こうして話しているのも、本当は怖くて堪らない。」


 僕は竜が怖い。


 僕は縁が怖い。


 どうしようもなく彼女が怖い。死の恐怖よりも恐ろしい。それが偽らざる気持ちである。


 本当は、抑えているつもりの震えも、抑えきれていないかもしれない。声の震えも身体の震えも、縁にはばれてしまっているのかもしれない。どちらにせよ、動揺を隠し切れていないことを僕は自覚している。


 冷汗が流れて、喉もカラカラに乾いてしまった。


 威厳、風格、威圧感、圧迫感。高層ビルの屋上の際に、命綱も掴まるものもなく立たされているかのような、喉元に極薄の刃を宛がわれているかのような、命の危機を感じる。何か一つでも間違えれば、全てを失ってしまいかねないようなプレッシャーを僕は全身に浴びせかけられている。


 いや、どんなたとえ話も、どんな比喩も、この恐怖を表すには適切ではないだろう。これ以上の恐怖などあり得ない。この感覚は味わった者にしか分からない。


 自らの命の儚さに、僕は怯え震える以外に何をすることも出来ない。


 僕如き他愛のない生物の命など、彼女の裁量一つでどうとでもなる。僕の命は、僕のものではない。彼女の気まぐれによって延命されているに過ぎない。僕の命運は彼女に握られている。


 僕によって縁と名付けられた竜は、僕に限らず、他のどんな人間よりも、他のどんな生き物よりも、上位の生命体だ。逆らえば殺されるのが世の理だろうし、彼女に従うのはより下位の生命体として果たすべき当然の義務である。


 勝手な被害妄想なのかもしれないが、ついそんな風に考えてしまう。それ程までに、僕と、竜の差は圧倒的だった。強さの差が、生命力の差が、命の価値の差が、比べるのも憚られるくらいに、開いている。

月と鼈、どころでは済まされない。太陽とミジンコ、でもまだ足りないだろう。宇宙そのものと塵一粒、くらいがぎりぎり適格だろうか。


 比べ物にならない。僕と彼女とでは身分が違う。レベルが違う。次元が違う。だから、比べられない。次元が違うのならば、比べることに意味はない。彼女が上位で、僕が遥か下位にいることだけ分かっていれば、僕が勘違いせずに弁えていればそれで良い。


 「僕はお前が怖いよ。それは言い訳のしようがない。その姿のお前が、竜であるお前が、僕は怖くて怖くて仕方がない。」


 中身がどうだとか、そんなことはこの場面では関係のない話だ。


 結局お前は縁という少女の、少女としての外見に惹かれていただけなのか、という烏滸がましくもお節介な追及が発生することは免れ得ないのだろうが、それはあくまでも現実を知らない、外野の意見である。この竜を前にしてそんな大それたことを言う人間は絶対にいない。いたとしても、それは嘘である。嘘であり、偽りである。


 偽りの上に構築された関係は、弱く、脆い。


 だから僕はここで嘘を吐く気も、偽るつもりもない。彼女を騙すつもりも、自分の気持ちを偽るつもりもない。


 「……そうか。ならば致し方あるまい。お主には迷惑を掛けた。痛い思いも、辛い思いもさせた。すまなかった。じゃが、これきりじゃ。……お主とはもう、これっきりじゃ。」


 竜という生き物を今宵初めて知った僕では、鱗に覆われた彼女の顔から表情を読み取ることが出来ない。ましてやそこに秘められた感情など、読み取れようはずもない。怒っているのか、楽しんでいるのか、喜んでいるのか、嘆いているのか、悲しんでいるのか、それは彼女だけが知っている。彼女だけにそれを決める権利がある。


 「またどこぞの山に引き籠って、世間を空から見学でもするかの。空から世界を見てみよう、じゃ。」


 言っていることは変わらない。中身はあの馬鹿な少女のままだ。馬鹿で、食い意地が張っていて、テレビ好きで、竜とか言ってるくせにやけに現代かぶれしている、あの中学生くらいの見た目の、馬鹿らしく、愛らしい縁のままだ。


 だけど、それでも、この竜の姿を無視することは僕には出来ない。


 「あの魔女もどこかへ飛んで行ってしまったしのう。私の精霊術では、あのような完璧な変身は出来ぬ。……尤も、変身したところで、この姿を見られてしまった今となっては、最早手遅れなのじゃろうがな。」


 ……手遅れ。確かにそうだ。もう元には戻れない。真実を知ってしまった今では、僕は以前の様には振舞えないのだろう。


 僕はもう縁を畏怖してしまっている。


 「……さらばじゃ。人間よ。」


 身の潔白は証明されなかった。竜としての姿を僕に見せなかったことは、不義理でも不誠実でもないのだろうが、縁は宣言通り、見切りを付ける気だ。僕に見切りを付けさせる気だ。


 別れの言葉は、予め告げられていた。真実を知って、都合が悪いようならば切り捨てよと、関係を断てば良いと、出掛ける前、縁は僕にそう言ったのである。


 だから今縁は、これっきりと、これっきり会うことはないと、別れの挨拶を口にしたのだ。鈍い僕でも言葉の意味をはき違えないように、はっきりときっぱりと、さらばと、そう言ったのである。


 そんな寂しいことを、平然と縁は言った。本当に平然だったのか否かは定かではないが、僕の耳には平然としているように聞こえた。平然と振舞っているように聞こえた。僕との別れが寂しくないみたいに、苦しくないみたいに、悲しくないみたいに、あの我儘だった頃の彼女とは打って変わって手のひらを返して、何かを押し殺したように平らな台詞だった。


 分からない。本当のことは分からない。人の気持ちは分からない。いわんや竜の気持ちをやだ。


 りゅうのきもち。そんな雑誌があれば限られた生活費を切り崩してでも購読するかもしれない。今この場面で、縁という一匹の竜の気持ちを把握することが出来たなら、どんなに便利なことだったろう。


 いや、多分それも違うのか。


 もしもそんなふざけた雑誌が発売されていても、それによって今の彼女の気持ちを把握できると言われたとしても、僕は案外手を出さないのかもしれない。たまたま通りかかった出版社の人間に試供品として、その便利雑誌を無料で配布されても、僕はきっと受け取らない。受け取りを拒むだろう。


 誰かの気持ちをお前が勝手に決めつけるな。


 犬でも猫でも人間でも、そして竜でも、誰かが誰かの気持ちを、感情を理解することなんて出来るわけがないだろう。そんな身勝手で独りよがりな妄想を、押し付けるなんてはっきり言って気持ちが悪い。


 なんて、偉そうなことを言わずとも心の中では思うに決まっている。


 「……勝手に決めつけてんじゃねえよ。僕の気持ちをお前が決めるな。勝手に話を進めるな。」


 僕が縁の気持ちを理解できないように、縁もまた僕の気持ちを理解していない。人が人の気持ちを理解できないように、竜もまた人の気持ちを理解できない。


 人と人は違う。人と竜は違う。違うから分からない。


 僕の気持ちは縁には分からない。言葉にしても、全てが伝わることはない。言葉は感情そのものではない。


 だけど僕は言葉を紡ぐ。全ては伝わらなくても、少しは伝わるかもしれないから。言葉はそのためのツールなのだから。拙く、取留めもなく、まとまりもない台詞に、それでも僕の全部を込めて、畏れ多くも、僕は言う。


 「ああそうだよ。確かに迷惑も掛けられたし、痛い思いも辛い思いもさせられた。もう二度とこんな大変な目には遭いたくねえ。串刺し好きとか言われて、体に穴開けられて、痛くて、痛くて痛くて、ふざけんなと思うよ。お前と出会ってから僕の一番嫌いな面倒事ばかりが舞い込んでくる。もういい加減にして欲しい。」


 そうだ。こんなことはもう懲り懲りだ。痛いのも、苦しいのも、怖いのも、死ぬのも、後一度だって経験したくない。面倒臭いことは大嫌いだ。それが正真正銘、僕の気持ちである。


 「……だけどな、縁。楽しい思いもしたんだよ。……楽しい思いも、嬉しい思いも、美味しい思いも、全部お前としたんだ。涙が出るほど美味かったんだ。お前と食べるご飯は。お前との会話は笑っちまうほど楽しかったんだ。それがどれだけのことか、お前には分かんないかもしれないけどなあ、凄いことだったんだ、僕にとっては。泣く程嬉しかったんだ。だから、僕の気持ちを勝手に決めないでくれ。これっきりなんて、寂しいこと、言ってんじゃねえよ。」


 縁が怖い、もう辛い思いはしたくないというのが、僕の本心ならば、彼女とこんな中途半端な形で別れたくないというのもまた、僕の本心である。


 両者は矛盾しない。これは二者択一の問題ではない。これもまたただの気持ちの問題だ。侮ってはならない、人の、僕の、また彼女の、気持ちの問題なのだ。


 僕の言葉に偽りはない。関係を築くために、僕は気持ちを偽らない。彼女と、関係を築きたいから、正直に誠実に全てを洗いざらいに、嫌なことも、そうでないことも、僕は初めに言っておくべきだ。


 「言ったじゃねえか。僕はお前とまた料理をしたい。お前とまた一緒にご飯を食べたい。話したい。笑いたい。もっと楽しい事、一杯したい。一緒に暮らそうって、言ったよなあ? お前、僕がそんなこと適当な気持ちで言ったと思ってんのかよ。僕がどんだけ恥ずかしいのを我慢して、どんだけの覚悟をして言ったのか、お前はまるで分かっちゃいねえんだ。……ドラゴンが何だよ。怖いからって何だよ。そんなもん、あの恥ずかしさに比べたら何でもないだろうがっ! あの嬉しさに比べたら何でもねえんだよ、そんなことは!」


 人類の敵だろうと、邪悪の象徴だろうと関係ない。


 出会ってしまったから、関わってしまったから、楽しかったから、その事実は取り返しがつかないから、僕は彼女を放っておけない。僕には手を差し向ける義務がある。誰に強いられたわけでもない、自らに強いた義務がある。


 初めて会ってからまだたった二、三日しか経っていない、知り合ったばかりの相手に、それも恐ろしい竜の形をした化物に、ここまで肩入れするのは馬鹿らしいことなのかもしれない。情が移ったと言われれば、そうなのだろう。


 情は、僕の感情はとっくに揺り動かされている。


 魔女に言われなくても、覚悟はとっくに決まっているのだ。僕は一番言いたくない台詞を既に言っている。目覚めた時、死の淵から甦った時、彼女によって救われた僕は、寝惚け眼の混乱した頭で、しかしはっきりとした決意のもとに、あの赤面ものの小恥ずかしい台詞を吐いたのだ。


 言葉にして、言葉に込めて、自分でも気付かなかった想いが集約されて、感情に対する理解が追い付いていく。


 「僕はお前と一緒にいたい。」


 最後はほとんど、自分でも何が言いたいのか分からなかった。ただ、口をついて言葉が溢れ出ていた。


 何の解決にもならないそんな望みが、僕の持ち得る全てである。


 「僕はお前を恐れ続けるかもしれない。それでも良いか?」


 僕は竜に手を伸ばす。人の身でありながら、届かないと知りながら、俯き僕を見下ろす一匹の竜の鼻先へと、手を伸ばす。


 「……それで良い。」


 威厳を失った、ただの縁の声で竜は言う。徐々に徐々に、その顔を僕の掌へと近付けながら。


 「怖いのを隠しながら、面倒くさいと思いながら、騙し騙し、これからお前と暮らしていく。それでも良いか?」


 怖いも面倒臭いも、受け入れる。無味無臭、無色透明の水のような僕ならば、それも出来るだろう。


 「……それで良い。それが良い。……そうしたい。」


 竜の冷たい鼻先が、僕の手に触れる。ひんやりと冷たい、縁の体温を竜は宿していた。


 「……温かい。温かい、人の肌は。」


 恐ろしさも、おどろおどろしさも保ったままの竜は、消え入りそうな静かな声で鳴く。


 僕と竜はこうして出会った。


 縁という名の竜は、こうして初めて僕と出会った。


 縁


 僕がそう名付けた。窮屈な繋がりと温かいしがらみの中で生きるように。僕ではなし得なかったその願いを込めて、僕は彼女にそう名付けた。


 その繋がりやしがらみの中に、僕が入っちゃいけないなんて道理は、どこにもない。


 いや、名付け親である僕だけは、何があっても彼女との繋がりを断ってはならないのだ。


 縁には居場所がない。竜が故に居場所がない。だから転生を繰り返してきた。そんな彼女に縁などという名前を付けたのだ。ここで彼女を突き放せば、それは皮肉以外の何者でもなくなってしまう。


 拒絶はもう沢山だ。迫害の歴史は終わらせるべきだ。終わらせるべき時は、今だ。


 居場所がないのなら、お前の居場所は僕で良い。





 ――



 「やれやれ、全く本当に、難儀なことだよ。」


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