<Ⅺ>
「のお、魔女よ。私は竜じゃ。恐ろしき邪悪の化身じゃ。時代に厄災を引き起こす人類の仇じゃ。憎まれて当然な最悪の生命じゃ。私の使命は殺されることにある。人が私を恐れ、殺そうとするのは自然なことじゃからの。じゃから、魔女よ。私とて殺されることにやぶさかではない。だからこそ私は転生を繰り返してきた。……しかしのう、魔女よ、じゃがのう、魔女よ、今回に限ってはそういうわけにはいかんのじゃ。いくら恩人のお主が相手であっても、おいそれと首を差し出すわけにはいかんのじゃ。あの者が許す限り、私は生きなければならぬ。お主がどういうつもりでこんなちぐはぐなことをしているのかは知らぬが、あの者を苦しめるというのなら、私は黙っているわけにもいかなくなるのじゃ。のお、魔女よ、今すぐにあの封印を解くというのなら、見逃してやらんこともない。お主も分かっておるのであろう。私がこの呪いを解けばどういうことになるのか。」
「へえ。成程ね。差し詰めあの串刺し好きのお兄さんがあなたの逆鱗だったというところか。役に立つお兄さんだ。一家に一人は欲しいものだよ、そんな便利屋さんが。まさに一石二鳥だ。一挙両得だよ。でもボクはそんな脅しには屈しないよ。正義の味方は脅迫には応じないことになってるんだ。……やーいビビッてんじゃねーよ。やれるもんならやってみろ。ボクはそのためにこんな回りくどいことをしているんだから。」
分かり易いにも程がある挑発行為だったが、そんなことをせずとも縁はとっくにご立腹のようだった。
気迫というか威厳というか、オーラなんてスピリチュアルな言葉を使いたくはないが、使わざるを得ないくらい、縁の怒りは明らかだった。あからさまだった。
縁の周囲の大気が揺らめいているようにさえ、僕には見える。
「じゃあいくよ、ドラゴンさん。第二ラウンドと洒落込もう。」
所在なさ気に漂っていた氷柱の先端が再度ターゲットに狙いを定める。
直後、僕を捉えたのと同じ速度の槍の弾丸が五つ、一斉に縁を襲う。
反応出来なかったのか、反応しなかったのか、迫る氷柱に縁は一歩も動かなかった。
直撃に、思わず息を呑む。
衝突の瞬間、五本の槍が縁を捉えたかに見えたその瞬間、静寂に包まれた境内に、硝子質の何かが砕ける音が響き、霧のような、時折ちらちらと月光に煌めく白い煙が彼女の周囲に立ち込め、縁の姿を隠す。
俄かに、晩春のまだ少し冷たい風が吹き過ぎる。
――霧の晴れたそこには、投じられた氷柱の一つも残されていなかった。
「っ!?」
――そこにあったのは、そこに立っていたのは、人間と、そして人間ではない何かの混沌だった。
体のほとんどには、僕の見知った少女の姿が残されている。だが、右前腕から肩、更には背中にかけて、僕の知っている人間の体が、僕の知らない何かのものにすり替わっていた。
成り替わり、変異している。
――異様に発達した異形の右腕。
元々の、人間だった頃の十倍はあるだろうか。細く冷たい縁の腕は見る影もなく、ローブと同じ色の、深く赤い鱗に覆われた隆々たる異形の腕が、少女の華奢な体から酷く不釣り合いに生えていた。
僕のふくらはぎくらいはありそうな五本の指の先端からは、黒く尖鋭な鉤爪がそれぞれ伸びている。
歪な形をしている。生命の理を無視したかのような、いっそ醜怪と言って良い程に不均衡な、歪んだ形態を、その生物は有している。
僕の理解では、生物の肉体に於いて質量と体積は比例する。だから、あの細い足で、あの大きさのものを支えられるはずがない。あの大質量を支えられるはずがない。
彼女は、僕の理解の範疇を超えている。
文字通り歪に歪んだ、まさしく、生物の形として正しくない、と僕は本能的に、或は常識的に、そう感じた。物理学も生物学も専門ではない僕は、ただ経験則のみに頼って、そう感じる。
人でなし。人間ではなく、歪んでいて、普通ではない。
何よりも、背中から生えているそれが、彼女の歪さを、一層際立たせていた。
身の丈を遥かに上回る、羽を持たない翼が、重力を無視したみたいに堂々と彼女の背中から生えている。
異様で、異形で、偉大な、命を宿した竜の一翼が、アンバランスに、縁という少女の背中から生えていた。
「いよいよそれらしくなってきたじゃないか。化けの皮が剥がれてきた、いや、化物らしくなってきたと言うべきなのかな? この場合は。でもまだまだだ。たったそれだけを元に戻したくらいで、ボクの魔法に太刀打ちできるなんて思い上がりも良い所だよ。余り見くびらないで欲しいね。これでもボクは、嘗てあなたを殺した魔女の末裔なんだぜ?」
魔女の気になる発言も、今は全く気にならない。気にしてなんていられない。それどころではない。
魔女が杖に乗って空を飛ぶなんて今から思えば何て下らないことだったんだろう。そんなことは常識じゃないか。誰だってしっている。魔女ならば空くらい飛ぶ。別に驚くべきことではない。何もない空間から突然氷の柱や火の玉が現れるのも、地面が変幻自在に形を変えるのも、魔法を使っているんだから当たり前だ。呆気にとられるなんて大袈裟だろう。
巨大な剣が突然現れるのも、その剣で胸に風穴を開けられるのも、その状態から復活するのも、考えてみればよくある話である。
人が、人の姿から竜の姿へと移り変わるその光景は、これまでに経験した非常識的なものに対する驚愕を、この右肩の激烈な痛みさえも、下らない、些末なことのように感じさせた。その衝撃は僕の常識を、僕の認識を根底から覆した。
僕が頑なに縁を竜だと認知しなかった理由は、ここでとうとう消滅する。粉微塵に木っ端微塵に砕け散ったと言って良い。
竜への変異。否、還元というのが正式な言い方なのだろう。人の姿をした竜が、再び竜の姿へと還元されるその中途に、今現在、縁はいる。右腕と右翼、二か所だけが、竜の形を成し、あるべき本来の姿を取り戻している。
あの霧は、砕け散った氷柱の残骸だったのだと遅ればせながら気付く。月の光に煌めいていたのは氷の結晶だったのだと、僕は更なる驚きを味わうことになった。
力強いという言葉ではその力強さを表しきれないほど強烈な生命力を宿した右手、右腕、それに付随する真っ黒な鉤爪によって、魔女の生成した氷は、完膚なきまでに、破壊されたのだ。一瞬で個体の水が霧散してしまうほどの猛烈な薙ぎによって、縁は自らに対する攻撃を粉々に砕いたのである。
破砕された氷は、礫一つ残さず、霧となって、塵と消えた。
竜の半身による薙ぎは、物理法則さえ破壊したかのように、僕の目には映った。
今更物理法則なんてものを持ち出すのも野暮ったいかもしれないが、それは僕の信じている常識が、僕の信奉している世界の理が、破られたことを意味している。
自分の目で見たものさえ疑う僕は、たった今を境に、目で見たものの全てを信じるしかなくなった。こんなものを見せられて、縁のあんな姿を見てしまっては信じる他に道がない。僕はもう認めなければならない。
勇者も、魔女も、聖剣も、魔法も、そして竜も、実在する。現実に存在する。
あり得ないことが厳然たる事実として、現前している。
だから、そのあり得ないという僕の固定観念は、既成概念は、今や捨て去る必要がある。それらは最早古い常識なのだから。
――またもや無様に呆気にとられ、声も言葉も出ない囚われの僕を置き去りにして、事態は益々進行する。
縁の変異は、縁の還元は、右腕と右翼だけに留まらない。
右半身のほとんどを竜と化した縁は、その翼で、片方しかないその巨大な翼で、一つ羽ばたき、魔女に向かって突進した。
羽ばたきによって生じた強烈な風は、十数メートルは離れた位置に釘付けにされている僕のもとにまで、強烈さを失わずに、はっきりと届く。
目にも止まらぬ速さというものを、右肩に穴を開けるという代償を支払って体感したつもりでいた僕だったが、上には上、竜の突進は魔女の氷柱の投擲を遥かに上回る速度を見せた。
いや、実際には、見せたという言い方は正しくない。だって僕には、見えなかったのだ。僕の目にはとまらなかった。僕が視覚によって認識できたのは、何か大きな塊が、魔女のいる方へ移動したということだけだ。
轟音が先か土煙が先か、とにかくどちらともが立った。先程の氷の塵ではなく、正真正銘の砂塵である。
抉られた地面の有様から見るに、彼女は右腕を振り下ろして攻撃をしたようだった。
氷の槍を粉々に砕き尽くしたあの右腕を、今度は魔女に、人間に向かって、彼女は振り下ろしたのである。
直撃すれば一たまりもない。人体と氷でどちらの方が強度が高いかは知らないが、彼女の一撃を前にしては、そんなことは些末な差である。強度など関係ない。何であろうと、結果は同じ。あれを受ければ、形を失う。跡形もなく破壊される。
しかし、幸い、と言うべきなのだろう。魔女は縁の初撃を躱していた。昼間そうして去って行ったように、杖に跨り、空を飛び、縁の無慈悲な一撃から逃れていた。
立ち込める土煙。
氷柱の霧は縁の小さな体躯を包み隠したが、今度は、舞い上がる土煙は、彼女の姿を隠すには足りない。
彼女の巨大な全身を隠し切るには到底足りない。
――腕、脚、腹、胸、頭、瞳、翼、牙、角、尾、何もかもが巨大だった。
巨大で、荒々しく、禍々しい。
一匹の竜が、そこにいた。恐ろしくも美しい、恐ろしく美しい、一匹の竜の姿がそこにはあった。
――怖い。怖くて恐ろしい。
素直にそう思う。腹の底から込み上げてくるこの気持ちの悪い感情は、嫌悪に近いのかもしれない。
人間が本能的に蛇を恐れるように、きっと全ての生物が、人間を含む全生命が、彼女を恐れるのだろう。彼女を見れば、どんな生き物も警戒するか、若しくは、蛇に睨まれた蛙が如く、固まって動けなくなってしまうだろう。
当たり前だ。そうでなければ生物として健全ではない。そんな鈍感な生物はとっくに淘汰されているはずだ。
震えるくらいに、鳥肌が立つほど、怖い。堪らなく恐ろしい。今すぐに逃げ出してしまいたいと、切実に思う。
だけど、だからと言って、右肩を貫き、僕を壁にへばり付かせているその氷柱が、逃亡に対する抑止力になったかと言えば、そうではないのだろう。そんなものがなくとも、僕は逃げられない。逃げてはならない。少なくとも、逃げない自分であって欲しいと、僕は願う。
「ようやく本性を現したね。いやしかし驚いた。完全には程遠い状態でこれとは、参ったよ。ただの猫パンチで結界にひびが入った。あれだけ苦労して丁寧に張り巡らせたボクの努力の結界が、こうも簡単に傷付けられるなんて、流石に予想していなかった。……どうだい、お兄さん。これが彼女だよ。人類の敵、邪悪なるドラゴン、嘗て世界の富を独占し、戦火を撒き散らした張本人。その危険性を君も少しは理解してくれたかな。」
僕のすぐ隣に舞い降り、魔女は尚も涼し気な顔のまま言う。
「その顔じゃ、その青ざめた顔じゃ、言うまでもないか。思い知ったという感じだ。まあ無理もない。ボクだって震えが止まらないんだからね。」
杖を持つ右手が小刻みに震えている。涼し気に見えた魔女の横顔は、僕と同じに、青ざめていた。魔女は余裕があって涼しい顔をしていたのではない。彼女もまた、竜を恐れていたのである。寒気を感じるくらいに、血の気も引くくらい、僕と同様にあの竜が怖かったのである。
「……これに挑む人間の気が知れないよ、全く。難儀なことだ。」
成程、魔女はそれが言いたかったのだ。それを僕に知らせたかったのだ。知らしめたかったのだ。
僕の出会った少女が、僕の出遭った竜が、どれだけ危険で、どれだけ常軌を逸した存在であるのかを、何も知らない僕に伝えたかったのだ。僕のしていることがどれだけ愚かで浅はかなことなのかを、魔女は親切にも丁寧に教えてくれたのである。
彼女の竜としての姿を、縁の本質を見せつけることで、魔女は僕を糾弾している。
お前はこんな化物を擁護しているのだと、こんな怪物を保護しようとしているのだと、魔女は僕に警告しているのだ。
不可解だった彼女の言動にようやく説明がついた。
魔女に本気で縁を退治する気があったなら、こんなまだるっこしい方法を取らなくて良かったはずなのである。縁を殺したければ、人間に変身する呪いを掛けた時点で、殺しておけば良かったのだ。僕に名前を付けられる前の精霊術を使えない縁には、呪いを解く手立てがなかったのだから、変身の魔法が成功した時点で魔女は彼女を殺してしまえるはずだった。魔女の魔法を以ってすれば、そんなことは簡単だっただろう。
その絶好のチャンスを見過ごし、あまつさえわざわざ挑発するような発言をして、逆鱗に触れ、本来の姿と力を取り戻させる必要は、どこにもない。どころか、そうしたことによって、現在魔女は窮地に立たされている。
尤も、自ら進んで窮地を演出しているのだろうから、確かに勤勉なことではある。
魔女の狙いは、僕に縁の竜としての姿を見せることにあった。
この神社に到着してすぐ、先制攻撃を仕掛けられた時、僕は騙されたと、罠に掛けられたと思ったが、それこそが魔女の罠だったのである。縁を激昂させ、竜化させるためのはったりだったのだ。
魔女は初めから本当のことを言っていた。初めから縁を殺す気なんてなかった。
君のしようとしていることがどういうことなのか、君はまだ知らないようなので、そこは公平にちゃんと知らせておいてあげなければ、というただの純粋な親切心をボクは発揮したいだけなのさ。
わけのわからない魔女の言葉の意味も、ここまでされれば理解することが出来る。有言実行、魔女は僕のしようとしていることの意味を、誰の目にも分かり易く明らかにしてくれた。
こんな危険を冒してまで、身命を賭して、とまでこの場合なら言ってしまっても差し障りはないだろう。縁の攻撃が当たっていれば、彼女は今頃、あの掻き消えた氷柱と同じように、蒸発していたのだから。
全く、親切にも程がある。この魔女はどこまでも公明正大だ。そんな義務なんてないだろうに。
……ああ。そうか。
その理由も魔女は言っていた。
良識ある人間として、力持つ魔女として、彼女は当然の責務を果たしているに過ぎない。
「さて、ボクの仕事はここまでだ。いつまでもあんな怪獣の相手はしていられない。そろそろ、あの竜も意図を理解した頃だろうから、後は君に任せるよ。ここから先はボクが口を挟むようなことじゃないからね。……まあ、よく考えることだ。君は期せずして今回の件に関わってしまったわけだけど、今ならまだ引き返せるんだ。成り行き任せはここまでだよ、お兄さん。進むか引き返すか、君の意思で決めるべきだ。なに、心配いらないさ。どちらを選んでも、君を咎める権利は誰にもない。」
進むにしても、退くにしても、いい加減覚悟を決めろと、そんなことを言われているような気がした。
「ああ、そうそう。この封印は解いておくよ。ボクがそうしなくても、今の竜ならこんな柔な魔法は溶かしてしまえるんだろうけど、被害者でしかない君に酷いことをしたせめてもの償いだ。これでも悪いことをしたとは思ってるんだぜ? ……ただ、君の逆鱗としての役割が大きかったのも確かだ。君を傷付けなければ、竜はあの姿には戻らなかっただろうさ。よっぽど君のことを慕っているらしい。」
肩に刺さる氷の塊に魔女が触れ、封印は解かれた。氷柱は解け落ちた。
「じゃあね、お兄さん。また、会いに来るよ。」
そして、親切な魔女は再び杖に跨る。
「アディダス。」
最後までふざけたようなことを言って、僕を置き去りに、正義の味方は飛び去る。
「……アディオスだからな、それを言うなら。」
夜の闇に黒衣の魔女の姿は見る間に紛れた。
「ありがとう。」
そんな偉大な魔女に、僕はそう言わずにはいられなかった。