<Ⅷ>
などと、ほのぼのとツッコミを入れることが出来たからといって、杖に乗って空を飛ぶ人間を間近で目撃した僕が冷静でいられたかと言えば当然そうではない。
こんなことを言ったら、またぞろあいつはご立腹するのだろうが、いやそれはそれで見応えがあって面白そうなのだが、正直縁が披露した水芸の百倍くらい僕は驚愕した。
「縁っ。」
「お主、お帰りっ。待ちかねたぞっ。お昼は何じゃ!?」
「そんなことより! 何かすげえ人類がいたんだけど! 杖に乗って空飛んでたんだけど! 凄すぎじゃねえ!?」
「……おいっ、丙! 伊瀬丙! 今、お主の目の前にいるものは何じゃ!? ええ? 答えよ!」
「はあ、そんなの縁に決まってんだろ。僕がそう名付けたんだ。」
「そうじゃあ。私は縁、そうお主に名付けられた、竜じゃ。万年単位で生きておるドラゴンじゃ。当然空も飛ぶ。竜じゃからっ。私竜じゃからっ!」
いやあ、そこをそんなに強調されてもな……。
「その私を差し置いて、なんじゃ。何をそんなに興奮しておる。私の披露した精霊術を、水芸などと宣っておいて、何故浮遊魔法如きでそんなにもお主は驚き、慌てふためいておるのじゃ!?」
案の定、水芸の件はまだ許してはいないらしい。水芸だからといって、そうすんなりと水には流してくれないらしい。
……なんて、別に全然巧い事言えてないんだけど。
「いやあ、でもほら縁? 竜であるお前が空を飛ぶのは当たり前だけど、人が杖に跨って空を飛ぶのは当たり前じゃねえんだぜ? 僕たちの世界では。」
「そもそも竜がいることが当たり前じゃないのじゃ、お主らの世界では! なあにを勘違いしておるか。そんなことより、は私の台詞じゃ。……それで? もう一度聞くが、お昼ご飯は何なのじゃ?」
全く、こいつは食べることしか考えていないのか、僕の魔女との遭遇のエピソードなんてまるで聞く気がないらしい。
「え、まあ、普通に食パンなんだけど。」
「ふんっ、では早く食べようではないか。ふんだもんねまったくもうふんっ。」
うわあ、万年単位で生きてるのに子供だなあ。
ともあれ、いくら縁を弄るのが楽しいからといって、あれ? 縁を弄るって何か卑猥だな。それじゃあまるで僕に品位がないみたいだから、ここはしっかりと訂正しておこう。ともあれ、いくら縁を苛めるのが楽しいからといって……
おかしい。喋っている時はさして変な意味合いには感じられないのに、字面にしてみると、こうも違うものなのか? 何だかとても品性を感じられない。僕は品行方正なキャラで売っていくはずだったのに!
「? 食器洗っといてくれたのか?」
縁の話を聞くことを言い訳にして、僕は午前中の家事のほとんどをさぼっている。
食べ終わった食器をそのままにしてしまうほど、僕は話に聞き入って、必死で理解しようと努め、そしてそのまま買い出しへ出かけたわけだが、しかし帰って来てみればテーブルの上に放置されていた僕と彼女の分の食器は綺麗に片付けられていた。
「……じゃって、お主が私の分の買い物をしてくれるというのじゃから、私もお主のために何かをするのは当然じゃろう?」
「へえ。そうか。ふうん。ありがとな。」
そういうところは謎にしっかり律儀なんだよな、こいつは。だからってわけじゃないけど、憎めない奴だ。
「さて、」
そんな憎むに憎めない、同居人も待ちかねていることである。手早く早急に昼食作りに取り掛かろう。
「私も手伝う。」
と言っても、準備することと言えば食パンをトーストするのと、ソーセージ入りの卵焼きを作るだけなので、大した手間ではない。今日の昼はさぼりにさぼって野菜もコンビニのサラダパックだ。
「あっそ。じゃあその食パン、オーブントースターに放り込んでスイッチ入れといてくれ。」
「合点承知の助じゃあ。」
相変わらず楽しそうだなあ。何が楽しいんだかよく分からないけど。
「なあ、それでさっきの話なんだけど。」
買ってきたソーセージの袋を開けて何本かを取り出し、包丁で縦に切りながら僕は先程遭遇した魔法使いらしき人物について縁に話した。彼女の容姿、服装、印象、言葉、行動の全てを包み隠さず洗いざらい話した。
「ほう。それは間違いなく、魔女じゃ。魔法使いではなく魔女じゃ。」
とあっさりと縁は彼女の正体を断言する。
「何だ。魔法使いと魔女とで、何か区別でもあるのか?」
僕はてっきり、魔法使いの女性のことを指して魔女というんだと思っていたけど。
「そりゃあそうじゃろう。魔法使いと魔女とでは、レベルがまるで違う。月と鼈じゃ。両者には天と地ほどの隔たりがある。次元が全く別なのじゃ。」
「へえ。それでどっちが月でどっちが鼈なんだ。どっちが天で、どっちが地なんだ?」
「そんなことは決まっておろう。魔女の方が断然格上じゃ。」
何故か、少しだけ苦そうな顔をして、トーンを落として縁は言う。喜怒哀楽の激しい奴ではあるが、この顔は初めて見る顔である。
「道理を考えれば分かることじゃ。魔女というものがどういうものなのか、お主とて知らぬわけではあるまい? お主の様な者でも歴史の授業で習ったのではないか?」
「歴史の授業で、か。」
まあ、歴史の授業で習ったと言われれば答えは一つしかない。歴史の教科書に、魔女などというメルヘンチックな単語が出てくるのはせいぜい一ページ、その中でも恐らくはほんの一部分にしか過ぎないだろう。
それでいて、たった一度だけ紹介されるだけの史実なのに、その言葉のインパクトは強烈で、誰もが忘れない。
「魔女狩り。」
「……そう。あれは可哀想じゃった。実際、殺された女子共の中には魔女も含まれておったが、しかしそのほとんどは無辜な命じゃった。いやまあ私から言わせれば、別に魔女であろうとなかろうと無辜なことには変わりがないのじゃがな。」
まるで、見てきたような話しぶりである。実際に見て、感じてきたことのように縁は話す。
「裁判に掛けられ犠牲となった者の中には、男も混じっておったが、それでも大多数は女子じゃった。……のお、お主よ。お主は何故、そんなことが起きたのか、分かるかの。何故女子共が粛清の対象になったのか。」
「さあ。明確な理由があるもんだったか覚えてないけど社会不安が原因だろ? 確か。戦争とか貧困とか、あの時代はそういうものに対する不安とか不満が、今よりもずっと近くて、だから」
だから、誰かの所為にしようとした。そしてその矛先は、主に女性に向けられた。
歴史はそこまで得意科目ではない僕の解釈では、余り気持ちの良い話ではないが、余り気乗りする話ではないが、そういうことになっている。
「そう、不安じゃった。怖かったのじゃ。じゃから、弱い者たちの所為にした。肉体の強靭さに劣る女たちは、だからこそ、魔術を操るなどと理由づけをされた。排除するための理由をこじつけられた。じゃから、魔女の力はその他の魔法使いなどとは比べ物にならん程、強力なのじゃ。」
真意はやはり僕には掴み切れないが、授業で習うよりよっぽど、史実が嘗ての事実だったことを、その時代を生きた人々にとってはただの過酷な現実だったということを、彼女の言葉は鮮烈に物語った。
歴史の授業で習う魔女狩りは中世期末から近世にかけてのヨーロッパで行われた大規模なものを例として示すことがほとんどであるが、そういう魔術や妖術といった人智を超えた力に対する恐れや迫害は太古の昔から続いているのだと、縁は言う。その度に、魔女は生まれ、力を強めていったのだと。
「魔の力は人の心を惑わせ、狂わせる。それを扱う者だけではなく、それを恐れる者の心をも、の。」
中二病みたいな台詞だな、と言うことも出来たのかもしれないが、全うな真人間として僕はそうツッコむべきだったのかもしれないが、普段とは少し違う縁のその口調に僕は少なからずたじろいだ。
「まあ昔の話じゃ。」
とここで、いつもの、馬鹿みたいに調子の良い喋り口に戻る縁。
「現代に於いてそういうことが完全に撲滅されたかと言えば、当然そうではないのじゃろうが、今となっては希少なケースじゃ。お主が遭遇した魔女とて、系譜を継いでいるに過ぎないじゃろう。」
ふうん。まあ、よく分かんないけど。
「お前、その魔女に会ったことがあるのか?」
いくら彼女がそういうオカルト的な、魔法使いや魔女の知識に長けているとはいえ、だからと言って僕の話した特徴から、それが魔女であるか魔法使いであるかの判別をすることが出来るということにはならないのではないか、という疑問である。
それに何より縁の口振に、二人は既に知り合っているのではないかと思わせる節があった。
「ああ。勿論あるとも。その魔女には随分と世話になったものじゃ。いや、その魔女の助力なくしては、今ここでこうしてお主と仲良く昼食の準備をすることなど考えられなかったじゃろうな。あやつのお蔭じゃ。お蔭様じゃ。」
「へえ」
あいつの所為かあ。やっぱり。
「……お前とあいつの間にそんな因縁があったとはな。知らなかったぜ。」
「おいお主、私はまだ、私とあの魔女娘との因縁のエピソードなど語ってはおらぬぞ。」
「だってほら、その話聞くの、面倒そうだろう?」
油を敷いて十分に熱したフライパンに、溶き卵とソーセージの混ぜ物に牛乳少しとチーズを加えた高カロリー体を注ぎながら僕は言う。
「だろう? って私に確認を取るでない。良いではないか、話を聞くくらい。耳を傾けるだけで良いのじゃぞ?」
何も考えずに話を聞き流すのならば何の苦でもないが、この話題に関してはそういう訳にもいかない。
話を聞くくらいとは言うが、縁絡みの、それも今回はあの魔女姿の女とのエピソードであるというのなら、当然それには僕の知らない世界の話が前提として、バックグラウンドとしてあるわけであって、必然的に僕は頭を働かせざるを得ない。そしてそれは容易なことではないのだ。
午前の間ずっと、僕はあの竜殺しに関する話題を理解するために脳をフル稼働させていた。はっきり言ってもうへとへとである。
ただでさえ昨日のショックからは、まだ立ち直れていないのに……。
「そもそも私はお主とお喋りしたいがためにここにおるのじゃ。それを放棄されては、私はここにいる理由の半分を失ってしまう。」
「……っはあ。……何があったんだ? あのボクっ娘と。」
しかし仕方がない。世の中にはどうにもならないこともある。こいつがそこまで言うのに、話を聞いてやらないほど、僕も鬼じゃない。疲れ果てた脳を再稼働させて、満身創痍の体に鞭を打って、やぶさかながらも話を聞いてやろう。それが僕の果たすべき責任というものだ。
「そこまで懇願されては私も語らぬわけにはいかないのう。」
やっぱり話聞くのやめようかな、と思わせる最悪な切り出しだった。
「しかし、なに、大した話ではないのじゃ。いや口に出してしまえば、一言で終わってしまうような他愛のない話なのじゃがな? じゃからと言ってそれが私にとって重要でないということには勿論ならんわけじゃ。何せ私が今このようにトーストの焼け具合を確認しつつお主に話しかけていられるのも、あの魔女のお蔭もあるわけじゃから、そう無下に扱うことも出来ぬとは先程も話した通りじゃ。いや決して大袈裟ではなく」
「前置きが長えよ! 卵が焦げるよ!」
「おお、これはすまぬことをした。せっかくの料理を台無しにしてしまっては、私のここにいる理由のもう半分をも失ってしまう。」
……こいつ、喋ることと食べることしかここにいる意味がないと思ってるのか。
「簡潔に言ってしまえば、私をこの姿に、竜である私をこの人間の姿に変えてくれたのが、その魔女ということなのじゃ。」
……
思いがけない、思いもよらない告白だった。
たっぷり数十秒絶句して、冴えない頭をフル回転させて、事態の全容を把握するのに暫くの時間を要した。そしてようやく僕は理解する。
今の今まで彼女が彼女の形を成しているのは、彼女の精霊術とやらの賜物であるか、或は彼女が竜であること自体が偽りであるか、どちらかであると考えていたが、どうやら一つ目の可能性は単純に僕の勘違いだったらしい。
彼女は、縁は縁自身の力でなく、あの魔女と呼ばれた女の力によって人の形を成しているのだと、言った。
考えてみれば、精霊術の行使に、人に名前を付けてもらうという条件がある以上、僕と出会う以前、僕が彼女に命名する以前に、縁はそれを使うことが出来ない。だから、もし彼女が本当に竜だとするならば、僕の考えは初めから矛盾していたのだ。
その矛盾を解消するような言葉を、縁は言い、そしてあの魔女もまた同じことを言った。
今の状況を作った原因の一端はボクにもある。
いまいち意味の分からなかった魔女のこの言葉の真意も、今や明らか過ぎるほどに明らかだ。
魔女の魔法によって王子様が蛙になったり、鼠と南瓜が馬車になったり、そんな話は昔からありふれている。そういう昔ながらのお伽話に登場した魔女の様に、さっき、僕の目の前に現れ、杖に跨って空を飛ぶことで魔女性を証明したあの女が、人間の姿になれる魔法を縁に施したと考えれば、話の辻褄は合う。帳尻は合ってしまう。
縁が竜であると信じるならば、彼女を人たらしめる外的要因の存在は、必然と言えば必然だったのだ。だから、勘違いと言うよりは見当違いと言う方が当たっているのだろう。
あれだけの経験をした僕が未だに彼女を本物の竜であると認め切れずにいる最大の理由は、本物の何かであっても、本物の竜であることを心のどこかで否定している最大の要因は、彼女が竜の形をしていないということにある。竜の形をしておらず、人間の形をしているから、僕は未練がましくも彼女を訝しんでいるのだ。
しかしその僕が捨てきれないでいる希望は、ここで潰えようとしていた。
「僕とお前を呼び出して、じゃあ具体的にあいつは何を教えてくれるってんだ?」
魔女は僕のやろうとしていることと、あの勇者のやろうとしていることを並べて、自身はどちらにも賛同しないと言い放った。お勧めしないともとれる発言をした。僕がまだ何も分かっていないと、そしてそれは公平ではないと、だから僕に、僕の知らない彼女について教えてやると言ったのである。
「お前、何か僕に隠してることでもあるのか? 昨日のこと以外で。」
「いや、特に隠していることはないつもりじゃが、しかし私が私の全てを語り尽くしたとも言えぬのは確かじゃ。私のこれまでを語ろうとすれば、それ相応の時間が必要になるからのう。ただ、お主に伝えるべき重要な点については、簡単にじゃがもう既に伝えてあると思う。つまりじゃ、この場合お主にとって最も肝要な点は、私が竜であることであろう? それを始めに伝えておるのじゃから、最早それ以上はあるまい。あの者が、私以上に私を熟知しているというのなら話は別じゃが、それもまたあるまいよ。……まあどのみち、そんなことは行けば分かるじゃろう。行って私の身の潔白が証明されればそれで良い。」
そうでなければ、と縁は言わなかったが、その言葉の意味は、そういうことだ。
僕に対する不義理があれば見切りを付ければそれで良いと、軽々に縁は言い切った。