<Ⅶ>
縁の話では、僕の住居には結界が張ってあるのだという。どうせ分からないだろうからと僕は詳細な説明を求めなかったが、その効用は彼女が胸を張って太鼓判を押すほどなのだから、彼女を部屋に一人残していくことに不安はほとんどない。
言葉を変えると、少しの不安はある。
いくら、あっぱれな采配で停戦協定を締結したと言われても、その協議内容を知らない以上は、どうしてもあの男への警戒を解けない。彼女と竜殺しの会談に関しては完全に蚊帳の外だった僕は、協定の持つ拘束力が一体どれほどのものなのか、知らないし、縁が何も話してくれない以上、推定することすらも出来ない。
彼女に外出して欲しくない理由には、ほんの僅かながら、外に出るより結界とやらで守られた家の中にいた方が安全だろうという考えもあるのだ。
かといってその協定の強度を完全に信用していないということでもない。でなければ、暢気に無警戒に昼食のために外出しようなどとは思わないし、冗談ではなく一生彼女をあの部屋に閉じ込めておかなければならないことになる。
「パンで良いよな。適当に」
などと別に吐かなくても良い独り言を呟きながら、僕は自転車に跨る。最寄りのコンビニまでは歩いて五分ほどだが、今日はいつもとは違う、徒歩八分のコンビニに行く予定なので自転車である。
自転車を漕ぐ。通学路とは逆の道を選択して、一番近いコンビニへ続く道ではなく、反対側の長い坂道を自転車で下っていく。
何となく、いつも通学路として使っている、神社脇を通る道は使いたくなかったのだ。
少なくともまだ一人では、あの、僕が殺されたあの神社の前を通るのは、気が引ける。どうなるかは分からないが、案外何でもないのかもしれないが、そこを通るのが何となく、怖いのである。どうにかなってしまうんじゃないかと、精神が耐えられないんじゃないかと、僕は自分のメンタルの弱さを疑っているのだ。
まあ、いつまでもそんなこと言ってられないんだろうけど……。
遅くとも月曜日にはまたあの道を通って学校へ行かなければならない。丘の上という立地上、迂回するのはかなりの手間になり、相当な時間ロスに繋がる。これからまだ二年弱も高校生活は残っているのだから、僕はこの土日にでもあの場所へと赴いて、通過するくらいなら何でもない程度にはトラウマを克服しなければならない。
ともあれ、到着。昼過ぎのコンビニは近くの現場の作業員でそこそこそこに賑わっていた。
厳めしい、恰幅の良い大人の男たちの合間を縫って、牛乳一本とサラダ二人分、食パン一斤にソーセージのパック一袋を籠に入れて、手早く買い物を済ませ再び自転車に跨る。
僕は自転車を漕ぐ。
来た道を同じように帰る僕に、しかし来た時とは違った展開が訪れる。
「そこの自転車のお兄さん。ちょっとお話良いかな?」
黒っぽいローブ、同じ色の大きな帽子、背丈より少し低い杖、首から下げた銀色の装飾。
荷物を前の籠に入れて、あくせく上り坂を漕いでいる時だった。またしても、外出からの帰り道だった。
見るからに怪しい、見た目から怪しい、もしかするとあの竜を自称する女よりも怪しいかもしれない、もういっそ人類で一番怪しいと言っても決して大袈裟ではない格好をした、またしても女が、僕でも分かるくらい明らかに魔法使いの格好をした女が、僕に声を掛けたのである。
……だから僕はダッシュした。上り坂でありながら、重力をぶっちぎる勢いで、両の足に目一杯の力を込めて、ペダルを漕いだ。
振り返らず、振り向かず、認識していないみたいに、嘗て縁にした逃走行為より、更に苛烈に、僕は逃げた。スピード違反でしょっ引かれるのを覚悟で、息急き切って自転車を駆った。
額から冷汗が溢れ出る。
……恐怖だった。言い訳のしようもなく恐怖だった。また何か良くないことが起きるんじゃないかと、また殺されるんじゃないかと、僕は恐れ戦いたのである。歳の近い魔女の衣装を纏ったただの女の子相手に……。
コスプレでないことはすぐに分かった。縁のローブもそうだが、彼女の衣装には、コスプレ特有の作り物感というか、偽物臭さみたいなものがないのである。偽物ではなく作り物でもなく、使い込まれたような衣装を、使い古された衣装を、女は見事に着こなしていた。様になっていたのである。
そのことが、僕に更なる恐怖を与えた。
勇者に続いて、今度は魔法使いか、と。また彼女を狙って刺客が現れたのか、と僕は迷わず勘繰った。
正体不明の何かから、全精力を傾けて、形振り構わず脇目も振らず逃げる。昨晩と全く同じ展開である。昨晩と全く同じ展開になるだろうことを、つまり僕は予測したのだ。危惧したのである。
飛躍し過ぎているのかもしれない。とんでもない勘違いなのかもしれない。異常な経験をしたせいで、僕は冷静な判断能力を失っているのかもしれない。
しかし僕はその警戒を怠れない。過去の失敗は次に活かさなければならない。ファンタジーを侮ってはならない。現実感がないからといって現実ではないということには絶対にならないのだ。僕はそのことを命一つ犠牲にして、心臓を貫かれることによって学んだ。
いや、学んだ、などと言ってしまうと、何か僕が積極的に知識を得ようとしたみたいに聞こえてしまうので、改めよう。
僕は、思い知ったのだ。自らの愚かさを思い知らされたのだ。
上り坂を上り切って、尚も僕は必死になって自転車を漕いだ。昨日は逃げ切れなかったが、今日は、今日こそは、とそこで気付く。
あの女の狙いが縁なら、僕は別に逃げなくても良いんじゃないのか、と。
「ようやく気付いてくれたようだね」
「え」
――またかよ。
全く笑ってしまう。一体僕はどれだけ滑稽なのだろう。馬鹿げている。こんなことはあり得ない。
「ありえないなんて事はありえないんだぜ」
「グリード様かっ!」
と、昨日に続いて必死で逃げ惑う僕に、しかし難なく呆気なく追い付いていた女に、僕は思わずツッコむ。
「……えー、いやあ、あのー、僕に何か御用ですか?」
「ボクが君に用があるんじゃない。君がボクに用があるんだ」
……もう、何が何やら僕には分からない。本当に、僕が何か悪い事でもしたというのか。何故こうも立て続けに……。
いや立て続けというよりも連続的にという方が恐らくは正しい。竜、屠龍の勇者ときて、今目の前にいるこの女。出来事は連続性を持っていると見るのが、自然な判断だ。訳の分からない人間が、偶然にも三日連続で僕の前に現れ、僕に接触してくるなんてことは、確率的に考え難い。実際、縁とあの男は関連性を持っていたし、だからこの女も縁や竜殺しと何らかの関連性を持っていると考えるのが普通だろう。
だからこそ僕は逃げようとした。逃げようとして、失敗した。昨日と同じように、酷く滑稽に追い付かれた。
だが、それでも彼女は言った。ようやく気付いてくれたようだね、とまるで僕の内心を見透かしたように、僕の勘違いを肯定した。逃げなくても良いということを彼女自身が認めた。
それは危害を加える気はないという宣言である。その言葉を鵜呑みにするには、僕は些か酷い思いをし過ぎているが、会話の余地くらいはあると、僕はここでそう踏んだ。
「どういう意味でしょう。僕は別にあなたに用事なんてありませんよ」
「そう。じゃああの竜について、君は全てを理解しているということなんだね。それは凄い。はっきり言って尊敬に値する」
やっぱり、縁絡みか、と竜という単語が出てきた瞬間僕は、また面倒事が発生したと覚悟した。
「……あいつについて、あなたは何か知ってるんですか?」
「イエス」
「僕があなたに用があるって、そのことを教えてくれるってことですか?」
「イエス」
「何故?」
「ボクは別に、あの勇者がやろうとしていることが正しいとは思わないし、君がやろうとしていることが正しいとも思わないんだよね。ただ、君のしようとしていることがどういうことなのか、君はまだ知らないようなので、そこは公平にちゃんと知らせておいてあげなければ、というただの純粋な親切心をボクは発揮したいだけなのさ。親切心を発揮して、あわよくば見返りとして金銭を要求できないものか、考えているだけなのさ」
「謝礼目当てか!」
親切心に金銭への期待が含まれている。
――ちっとも純粋じゃない!
「情けは人の為ならずって言うだろう」
「へえ、じゃあ何のためなんですか? 情けって」
「お金の為」
――嫌な諺だなあ。
……どうやらこの、縁よりもよっぽど奇抜な格好をした女、あの竜殺しとは違って全く話の出来ない相手ではないらしい。大人しそうな顔をしている割に、下らない冗談を言うことくらいは出来る、人間味のある人間のようだった。
少なくとも、家に入れることを拒否しただけで突然切り掛かってくるような、物騒な性質は持ち合わせていないようである。
警戒を解くわけではないが、一まず高鳴る胸を撫で下ろす。
「胸を撫で下ろすって、よく考えたらいやらしい言葉だよね」
何だこいつ。僕の内心は最早筒抜けなのだろうか。
まさかこいつもジェダイマスターなのか?
「え? いやあ、別にそんなこともないんじゃ……」
「じゃあお兄さん、ボクの胸を撫で下ろしてよ。ほら、ねえ? ボクの胸を撫で下ろして?」
「な、なんと!?」
……確かに実際にこう迫られると、精神的な意味でなく物理的な意味で胸を撫で下ろす、を捉えると彼女の言っていることも分からなくもない。
「ねえほら? お願いだから、はやくボクの胸を撫で下ろして?」
うら若き女性が、顔を赤らめ、恥じらいながらも上目遣いで懇願している。
いや、実際全然無表情なんだけど。主観的にはそう見える。
「どうしたの? お兄さんはボクの胸を撫で下ろしてくれないの? ボクじゃあ駄目、なのかな……」
「えっ、うっ」
本当だ! 何ていやらしい言葉なんだ!? こんな言葉が世間一般に蔓延っているなんて、おいおいこの国のモラルは一体どうなっている!
「どうやらお兄さんは真性の変態のようだね。胸を撫で下ろすなんて常用的な言葉で、そこまで情欲を掻き立てるなんて」
「ち、違う! これは罠だ。僕は決して、え? マジで? 良いの? とか思ってない! 違うんだ。嵌められたんだよ、僕はあ!」
「おやおや、いよいよ犯人の台詞だ。そうだなあ、これはあれだ。ボクに罰金を支払うしかないようだ」
「結局金目当てかよっ!」
「百万で解決できるなら安いものだ」
「勝手に決めるな」
「いや、でもしかし、そんな、それ以上なんて受けとれないよ。そんな一千万円だなんて……。」
「僕は金額の低さに不満があったわけじゃない!」
――何だこいつ。ある意味あの竜殺しよりもぶっ飛んでるな。良い人間か悪い人間かは分からないが、取り敢えず、悪い女だ。
「言い訳はそこまでだ。彼女のことを知りたくば、今夜零時、例の神社まで、あのドラゴン娘を連れて来ることだね。さもなければ、君の貯蓄はボクのものだよ」
「馬鹿なっ! もう既に僕の銀行口座が抑えられているというのか!」
――何と言うことだ。だったらもうお前の勝ちじゃん!
「ま、今の状況を作った原因の一端はボクにもあるのだろうから、その責任を果たしたいというのも、多少はあるんだけど……」
馬鹿なノリに付き合ってやった僕なんかをほったらかしにして、女はさも神妙に言う。
原因? 責任? 今の状況とは、つまり僕が縁と行動を共にしている状況ということだろうか。いまいち真意の掴めない発言である。
「アディダス。また会おうぜ」
と、ドイツに本拠を構えるスポーツ用品メーカーの社名を言い残して、魔法使いと思しき女は俄かに手にする杖へと跨り、そして空の彼方へ姿を消した。
「……多分、アディオスって、言いたかったんだろうなあ……」




