<Ⅳ>
食べ物を食べて美味しいと感じた時、人は様々な賛辞を並べ立て、その美味しさを形容しようとするが、そんなことは蛇足でしかないとどうしても思ってしまう。美味しいことを表現するために、美味しい以外の言葉は要らないし、美味しい以上の賛辞は存在しないのだ。
こんな台詞、まさか現実で使う場面が来るとは思わなかったが、美味しい食事に関しては、事ここに至っては、使わざるを得まい。
考えるな、感じろ。
だから僕は言う。心の底から叫ぶ。考えず、感じるままに、自らが作り上げた料理を最大級に褒め称え褒めそやす。
「美味すぎるっ!」
昨日の惨劇を、僕が生涯、心的外傷として付き合っていかなければならないであろう、昨晩の悪夢を、しかし一時でも忘れさせてしまう程の威力が、その朝食にはあった。
「絶品じゃあぁ」
早くも定位置となりつつある、テレビとテーブルの間に腰を落ち着ける彼女もまた、僕と同じく、口一杯に食べ物を詰め込んで、本当に頬っぺたが落っこちてしまいそうな顔をして喜びに浸っている。
そんな縁の幸福に満ち満ちた顔を見て、僕は改めて生きていて良かったと、凄惨な映像を思い出されながらも、思うのである。
僕はこの時のために昨日彼女に、生きていたいと、そう告白したのだ。
「美味しいのう、丙!」
「ああ。美味い。こんなこと言いたかないけど、このテンションだから言ってやる。お前のお蔭だぜ、全く」
普段からは考えられないような発言ではあるが、こうも感動的に美味いと、キャラクターとか恥とか外聞とか照れとか、そんな下らないことはどうでも良くなってしまう。
「何を言っておる。何もかもがお主のお蔭じゃ。この朝食がこんなにも美味いのは、お主のお蔭なのじゃ。お主があの時、私に名を授けてくれたからこそなのじゃ。見当違いなことを言うでない」
「そう言えば、さっきもそんなこと言ってたよな。名前がどうのこうのとか。そんなに重要なのか? 名前って」
「そりゃあ重要に決まっておろう。名前というのは即ち、周囲から、世界から認識されるための標識みたいなものじゃからのう。特に私のような存在にとっては大事なものなのじゃ。それをお主は、あわやドラミちゃんなどと、適当に不適当な名前を付けようとしおって、危ういところじゃったわい、全くもう」
多彩な色を見せる顔を、楽から怒に分かり易く変化させて、縁は不満を口にするが、決して不愉快そうではない。
「……まっ、最後には佳き名前を付けてくれたから、チャラにしてやらんこともないがの」
言葉の最後にはもう一度楽しそうに頬を緩めて、緩んだままのその頬に、Tシャツ姿に変身している縁は、白米を詰め込む。
「ともあれ、名前の話じゃったが」
パクパク
「竜たる私が、竜としての力を行使するためには」
モグモグ
「人間に名前を付けてもらわなければならなくてのう」
ゴクゴク
「それがまあ、精霊との契約というわけなのじゃが」
んまんま
「細かい話はここでは省くとして」
パクパク
「つまりはお主に名を貰ったことで」
モグモグ
「私はお主に心臓を与えることもできたし」
ゴクゴク
「私も殺されずに済んだし」
んまんま
「お主の体をここまで運んでくることも」
モグモグ
「出来たというわけじゃ」
ゴッキュン
「うん。何か精霊とかいう如何にもいよいよなフレーズが出てきてるけど、お前の咀嚼音と感想で全然頭に入ってこない。美味いのは分かるけど、喋る時くらいは箸を置いたらどうだ?」
んまんま
「なーにを言うかあ! こんな御馳走を前にして箸を置くなど、矢の飛び交う戦場で鎧を脱ぎ捨てるのと同じことじゃ!」
「……まあ確かに、僕も人のことは言えないんだけどな」
モグモグ
「だけど、何はともあれ、僕がお前に名前を付けてやったことによって、お前は魔法的な力を使えるようになったっていうことなんだな?」
美味すぎて何とも馬鹿みたいな文章、というより文字の羅列になってしまってはいるが、対して話題は未だシリアスである。
魔法とか竜とか精霊とか、そんな単語を使っておいてシリアスだと言われても挨拶に困るかもしれないが、昨晩、重大なシリアスパートを経験し、重篤なダメージを負った僕にとっては切実な話題である。
「私の力は正確には魔法や魔術といったものとは、一線を画す代物なのじゃがな。理解としては正しいじゃろう」
「その、魔法や魔術とは一線を画すお前の力ってのは、所謂ドラゴンが使うような力ってことか? 空飛んだり火を吹いたりっていう」
「そうじゃあ。空を飛んだり火を吹いたり水や空気を操ったり」
僕のドラゴンのイメージは空を飛んで火を吹くまでだったのだが、本物はどうやら僕の想像を遥かに超えているらしい。
いやまだ本物の竜だと僕は認めてはないんだけど。彼女の言う限りに於いては、という話である。
だからいよいよ、核心に迫る提案を、僕はここでする。
「それを今ここで僕に見せることは出来るのか?」
彼女を全面的に信用するか否かを決めるためのこれは提案だ。ここで彼女が僕の要望に応えるのであれば、僕としても後腐れなく納得して彼女を受け入れることが出来る。
「良い。では一つご覧ぜよ。其方が訝しみ、見事晴らしてくれようぞ」
案外あっさりと、縁は僕の提案を受諾した。見得まで切って、余程の自信があると見える。
きっと物凄い何かが起こるんだろうなあ。
――わくわく
「ではお主よ、お主の湯呑茶碗を貸してもらえるかの?」
「ああ。まだ中身入ってるけど、それでも良いのか?」
「寧ろその方が都合が良い」
温かい緑茶の残る湯呑を、彼女の方へと差し出す。
「では、とくと!」
と、言った途端、茶碗の中の緑色をした液体が俄かに浮かび上がり、彼女の顔の目の前で球を形成する。緑茶の球体は、渦を巻いているようで、中の茶葉が回転しながら上下運動を繰り返している。
「来てます、来てますっ!」
「ハンドパワーなのか!?」
その台詞を言ってしまうと、あたかも種や仕掛けがあるかのようである。興醒めも良い所だ。
「おおー、凄い凄い」
僕が感想を言ってやると、縁は満足そうに、球状の液体を元の湯呑茶碗を戻すのだった。
「何か、宴会芸みたいだったな」
「ええーっ!? お主、あれを見て、その程度のリアクションしかないのか!? のほほんと、宴会芸みたいだったな、って。いやいや、もっと驚くべきところじゃろう。しっかりせい、丙。あれは常識では考えられないことじゃぞ! アンビリバボーじゃぞ!」
「いやあ、正直、僕が想像してたのとちょっと違ったんだよな。いやホント正直言うと、わくわくを返して欲しいくらいなんだけど……」
彼女の指摘は至極正しい。液体が重力に逆らって、物理法則をまるで無視したかのように動いている様は、確かに常識的には有り得ないことで、僕は本来もっと驚くべきなのだろう。普通あれだけのことをされれば、誰だってぎょっとして声を上げるか、反対に余りの出来事に声を失うか、どちらにしても最大限の驚愕を表すべきだ。
「うん。何か思ってたよりショボかったよね。いやでも、凄かったよ、普通に。OK。認めてやる認めてやる。お前の言ってること全面的に肯定してやる。悪かったな、今まで信じてやらなくて」
「いや、いやいやいや。何じゃそれぇ! なんだかとっても納得がいかぬ。ショボいって、お主ショボいって、それはどういうことじゃぁっ!? 普通って、どう考えても普通じゃないじゃろう! 普通じゃなく凄いじゃろ! 何じゃその残念そうな、諦めたような顔は。はいはい分かりましたよみたいな、言いたいことはそれだけですね、みたいな顔はあ!?」
「いやあ、だって、僕はほら、あのでっかい剣で体を貫かれちゃってるわけで、しかもそこから回復しちゃってるんだぜえ? いや、お前には本当に悪いけど、今更あんな水芸みたいなことされても」
「み、水芸!?」
「や、別に水芸を馬鹿にしてるわけじゃないよ? あれはあれで相当な技術が必要なわけで、それに日本の伝統的な芸能でもあるわけじゃん。だからそういうつもりは全くないんだけど、な? ほら分かるだろ?」
くすっ。
「鼻で笑うなあああ!」
いや本当に何と言ったらいいか、僕としては、彼女が顔を真っ赤にして元気溌剌にツッコむ姿を見られただけで、もうそれだけで十二分に満足なのだった。
「嘘嘘。冗談だよ。悪かった悪かった。いやあ、ホント驚いたぜ。仰天したぜ。心臓破裂するかと思ったぜ」
僕に限って言えば、その比喩は余り笑えない。
「もう。お主の意地悪」
頂きました。
いや別に、キュンなんて擬態語は、どこにも発生していない。こんな意味の分からない、からかい甲斐のある生物を、可愛いだなんて、そんな馬鹿げたことを僕は断じて思っていないのである。家でも学校でも一人暮らしの、お一人様の僕を余り見くびらないで欲しい。そんな簡単ではないのだ。僕の心は。ギザギザハートなのだ。
「え? ちょっと今の台詞もっかい言ってくんない?」
「馬鹿」
「んふ」
「へ、変態!」
「うっひゃー」
「丙がドMの変態になってしもうたあっ!」
「そのドMの変態を生み出したのは、他ならぬお前なんだぜ? 縁。お前という奴は、とんでもない化物を生み出してしまったようだなあっ!」
とんでもない馬鹿者だった。悲しい怪物だった。
「……まっ、冗談はさておいてだよ」
「本当に冗談なのじゃろうなあ、丙。何やらリアルの匂いがプンプンするのじゃが……」
訝し気な視線。
「ば、馬鹿なことを言うなあ。お前の同居人は、女子に罵倒されて興奮するなどという変態になど、なっていないよ」
――本当だよ? いやだから本当だって。
……閑話休題。
成程まさしくこういう時のためにあるような言葉だ。全く以って便利な文言である。ここまで話が脱線してしまっても、たとえ居心地の悪い方へ話が逸れたとしても、この四字熟語さえ使っておけば、これまでの話を強制的に打ち切り、なかったことに出来るというわけか。
……まあ、なかったことにはならないんだけどね……。
「昨日あれからどうなったのか、説明してくれよ。あれからどうなって、あいつが何者で、何でお前を襲うのか、聞かせてくれ」
寝起きの混乱で、復活の混乱で、ついうっかりしていたが、僕には何よりもまず彼女に確認を取っておかなければならないことがあった。冷静に考えてみれば油断も良い所だったのだろう。彼女が竜であるかどうかなどということは些末な問題だった。
つまり、お前の身はもう安全なのかと、あの男の、一度は僕を殺したあの男の脅威は既に去ったのかということを僕は何よりも先に聞いておくべきだったのだ。。
僕と彼女がこうして生きながらえている以上、昨晩彼女の命を狙った男は、少なくとも一旦は退散したか、退散させられたかということになる。彼女のあの異様な力によって、或は撃退された可能性もある。
彼女の見せた力、液体を自在に操るあの力は、確かに僕の期待していたものとは違ったが、と言うかそれは僕が勝手に期待していただけなのだが、しかし彼女の言っていることがあながち嘘ではないということの証明にはなった。だから、あのような常識外れの術を使えるのならば、彼女が他に言っていたような、空を飛び、火を吹き、空気を操作することもまた、出来る可能性が高くなった。
いや、可能性などと今更曖昧に誤魔化すのはフェアではない。彼女は僕の要望に応えて証拠を示したのだ。証明したのだ。僕も最早納得しなければならない。
彼女が本物であることを。彼女に嘘がなく、偽りがなく、偽物でなく、本物の何かであることを。
そして彼女が本物であると決まると、あの常軌を逸した大剣使いの男を、彼女が撃退することもまた現実味を帯びてくるのである。
火を吹く、は置いておくとしても、例えば空気を、目に見えない大気を、あの緑茶にしたように自在に操れるのだとすれば、例えば大気組成をも操ることができるのだとすれば、それは恐らく強力な武器となる。
あの男とて、あの竜殺し、僕を殺した人殺しとて退散せざるを得ないのではないだろうか。
何を馬鹿な、何を突拍子もない考えをしているのかと思われるかもしれないが、僕が水芸と評した彼女の力は、そういう可能性を現実的に秘めている。
「そうじゃのう。まあそう怯える必要もあるまい。私のあっぱれな采配によって、一まずは安全じゃ。事なきを得たと言って良い。あの男も、暫くは手を出して来ぬじゃろう。もし何かの間違いで、あの男が急襲を仕掛けてきたとしても、この部屋の中に居る限りは安全じゃ。結界を施したからの。あの竜殺しの人間とて、易々とは破れまい」
「そっか。なら取り敢えず、あいつに対する、何か対策みたいなものを取り急ぎ立てる必要はないんだな」
さっきから精霊とか結界とか、ちらほら用いられている如何にもな単語を、僕はまるで承知したみたいに話しているが、実際のところ全く承知などしていない。僕はあの担任のように、物分かりの良い人間ではない。
しかしだからと言って一々ツッコミを入れて話の腰を折っていては、いつまでも話が進まないので、納得はせずとも、まあそういうものか、くらいに聞き流しているだけなのだ。要は、大事なのは話の本筋なのであって、細々とした事情は後々ゆっくりと飲み下して行けば良い。
そしてこの場合、話の本筋、最も重要なポイントは、脅威が既に脅威ではなくなっている、ということにある。どういう細かい事情があるにせよ、そこさえ押さえていれば僕としてはそれで満足なのだ。
逆に、その最重要項目を聞いてしまった今となっては、残りの疑問はさして急を要するものではなくなった。あれからどうなったかも、あの男の正体も、あの男の行動の理由も、今現在安全が確保されているのならば、それはさほど重要ではない。対応のための質問は、疑問を解決するためだけの質問へとレベルを下げている。
「そんなことよりこの味噌汁、ちょっと信じられないくらい美味いなあ。ホント、日本人で良かったわ」
という訳で、緊張感の欠片もない腑抜けた台詞である。僕を殺してくれた男の正体への疑問や好奇心などというものは、所詮この葱と若芽を入れただけの味噌汁の美味性には及ぶべくもないのだ。
「おい、お主。それで良いのか?」
「あ? 何がだよ。日本人で良いかって話か。だったら良いに決まってんだろ。日本人じゃなけりゃ、僕は味噌汁を作れなかっただろうし、たとえ味噌汁を飲んでもここまで幸せな気分になれなかっただろうからな」
「いやそうじゃなくて。お主、まだ解決していない疑問が残っておるのではないのか?」
「ああ。何だ。そんなことか。いや、そりゃああるけど、正直今はどうでも良いというか、今は味噌汁に集中したいというか」
「何じゃ、その今は部活に集中してるから勉強はしないみたいな言い訳は。お母さんはそんな言い訳は聞いてくれないぞ?」
「いやだからさ、せっかく美味い飯食ってんだから、もっと楽しい話をしようぜ? ってことだよ」
こんな話ばかりしていると、嫌でも昨日の惨劇を思い出してしまいそうなので、フラッシュバックを起こしてしまいそうなので、楽しい食事の時間くらいは、下らない他愛のない話題に花を咲かせて、気分を誤魔化したいのだ。
ただでさえ、こいつとこの先暮らしていくに当たって、色々と片付けておかなければならない気の重くなるような問題が山積しているのだから。ただでさえ、考えなければならないことと、考えたくないことが、頭の中でぐちゃぐちゃに散乱してしまっているのだから、血の巡っていないこの頭でいつまでもくよくよと考えていても良い結果は得られまい。
今ばかりは、この料理を噛みしめて、味わっておかなければ、勿体ない。彼女の命を犠牲にしてまで生き残った意味がなくなってしまう。
「ふっ。それもそうじゃ。では私から、捧腹絶倒請け合いの、珍妙にして興味深い話題を提供させてもらうとするかの。……先進国と途上国の逆転はいつどのようにして起こり得るかという話なのじゃがな……」
「……話題が変な方向に重い!」
昨日の殺伐とした出来事が嘘のように、朝の時間はのほほんと過ぎて行った。