<Ⅰ>
誰か知ったような声に呼ばれた気がして、目を覚ます。
頭が痛い。寝起きのせいで、どうも記憶が曖昧だが、この背中から伝わる感触は使い慣れた我が家のベッドだろう。いつの間に寝てしまったのか、僕は自宅のベッドで、仰向けに横たわっているらしい。
体の右の方から差し込む陽光が朝を知らせている。
「ひのえぇー? 起きなくて良いのか?」
「あー。まだ眠い」
体が重い。久々に本気で走ったものだから、背中も足も筋肉痛だ。
動きたくない。ああ違う違う。間違えた。働きたくないだった。人偏付けるの忘れてた。
瞼を開くのも億劫だ。もう暫くこの春の微睡みに溺れていたい。
「のう。丙よ。もう九時じゃぞぉ? 全うな社会人なら就業しておる時間じゃあ」
「僕は全うでも社会人でもないから安心しろ」
と言うか、さっきからうるさい。人の耳元でごにょごにょと……。
「その台詞を聞くと、余計に安心できんのう」
――あれ。あれれ? 耳元で? 何が? 誰が? 誰が寝ている僕の耳元でさっきから語り掛けてるんだ? ここは僕の自宅で、僕の自室で、僕以外には誰もいないはずだぞ。
「って、縁! 何でお前が、僕のベッドで、僕に添い寝をしている!?」
僕が現状を説明する間にも、外では雀の親子が交互に囀っている。
「朝チュン!」
――嘘……だろ? おい、嘘だろ。こんな馬鹿な中学生と!?
て言うか、これって何かの罪に問われないのか? この歳で前科一犯とか洒落にならないぞ。
いや、落ち着け。まだ犯罪と決まったわけじゃない。そうだ。合意の上だったんだ。流石の僕でも、そんな下劣な行為するはずがないじゃないか。慌てるな。冷静に考えろ。
そう、合意の上なら何も問題はない!
「問題あるわああああーー!!」
家出少女と……
はい、アウト。駄目である。何が駄目って、まず語感が駄目。
神待ち少女と……
うわあー、うわああ! 本物の神になっちゃったよ。神様になっちゃったよ、僕!
「嬉しくないっ! 全然嬉しくないっ!」
「おい、丙。何を一人で慌てふためいておる。お主はピエロなのか?」
「いや、何と言うか、一応確認を取っておくけど、……合意の上だったんだよなあ?」
――一応確認しちゃったよ。
合意の上であろうとなかろうと、どちらにしたところで最大の問題はそのことについて、僕が全く覚えていないということにあるのだが、しかし最低限、合意があったなら言い逃れ出来るはずだ。
まあ、この期に及んで言い逃れることを考えてる時点で、僕が最低の男であることには、男の風上のも置けない男であることには変わりがないんだけど。動かざること星の如しなんだけど。
「お主、さっきから何の話をしておるのじゃ?」
「ごめんなさい。責任は取ります」
日本人の最強の武器、最悪の最終兵器、ジャパニーズ土下座である。取り敢えずこのポーズだけとっておけば、大概のことは許されるはずだ。
「無理のない程度に働きます」
――週休三日くらいで。
「ああ、そういうことか。違う違う。勘違いじゃ。私とお主は、まだ男女の契りを交わしてはおらん」
まだって何だよ。将来的にはその予定があるかのような口振りだな。
だがここは一先ず安心しておくべきなのだろう。どうやら、この女によると僕はまだ、越えてはならない一線を跨いでいないらしい。僕が責任を取らなければならないような事実は、発生していないらしい。事件はまだ現場でも会議室でも起きていないらしい。
――ふぅ、良かった。これで一生働かずに済む。
「とは言ってもまあ、私とお主はもっと深い所で契られてはいるのじゃがの」
「は?」
男女の契りより深い契りって、そんなもの存在するのか? おいおいまさか、男々の契りとか言うんじゃないだろうな!? お前その見た目で、実は男でしたとか言うんじゃないだろうなあっ!?
……いや、ていうか僕、こいつの裸見てるし。全裸に欲情してたし。
「お主、覚えておらぬのか?」
――えっ!? 何が!? 僕は何も覚えていないけど。お前の裸なんて、全く瞼の裏に焼き付いてないけど!?
「あ、ああ、うん。何かぼんやりしてて、よく思い出せないんだよな。昨日の事。て言うか、僕が間違いを犯していなかったとしても、僕の隣でお前が寝ていることは、やっぱり結構な大事件なんだけど」
それはつまり、この女を一晩僕の家に泊めたということであり、たとえ間違いが起きていなかったとしても、全うな倫理観を持つ僕からしてみれば問題行動だ。
そう、全うな倫理観を持つ僕は、成長過程の女子の裸なんてものに、興奮を覚えることもまた決してないのだ。
「それについては緊急事態としか言いようがないのう」
「そりゃ、家出してんだからお前にとっては緊急事態なんだろうけどよ」
「ん? いや違う。緊急事態じゃったのは、私ではない」
「はあ? じゃあ誰の緊急事態だったんだよ。お前の他に、この部屋に誰が居るってんだ?」
「じゃから、居るじゃろう。お主がの」
どうもさっきから話が噛み合わない。そういえば、朝起きたら隣で女が寝ているという衝撃的に不健全な事件のせいで、覚醒したにも関わらず、まだ頭がはっきり働いていない。
まあ良い。取り敢えず顔でも洗ってすっきりしよう。話はそれからだ。
「お前も顔くらい洗えよ。涙の跡がついてんぞ」
と、ベッドから降りて洗面台に赴こうとした僕だったが、立ち上がった瞬間、酷い立ち眩みに見舞われて再びベッドへとへたり込んでしまう。
過去に類を見ない、くらくらと言うよりぐらぐらと言った方が相応しいような、凄まじい立ち眩みだった。
「おっとっと」
「もうおやつか!?」
「……お前、どんだけ卑しん坊なんだよ。その返しは流石に引く。にしても何だこれ。貧血か?」
座り直して数秒経ってもまだ視界が暗い。急激に動いたのが悪かったのか、ドクンドクンと音が聞こえてくるくらいに心臓が激しく脈動している。
「……心臓……?」
心臓が……。僕の心臓が、動いている。
破壊されたはずの僕の心臓が、串刺しにされて、破裂したはずの心臓が、動いている。途絶されたはずの血液供給が、正常に行われている。
……生きている。
死んだはずの伊瀬丙という僕が、どういうわけか、未だに往生際悪く、生きながらえている。
「いや、だけど。え?」
――そうだ。そうだよ。
思い出してきた。僕は昨日、殺されたはずだ。訳も分からないまま、心臓を壊されて、あの巨大な金属で一突きにされて、死んだはずだ。
いきなり家にやって来た、高校生くらいの男に、追われ、追い付かれ、突き刺され、僕は殺された。
それなのに、そのはずなのに、こうして僕は生きている。我が家のベッドの上で、自らの鼓動を感じている。永遠に失われたかに思われた心臓が、命が、潰えずに、活動している。
天国?
いやいや自分の部屋が天国ってこともないだろうし、まあ確かに僕にとっては天国みたいに居心地の良い場所だけど、だけど死んだ人は、幽霊は立ち眩みなんてしないだろうし……
成程、夢か。夢落ちか。あの、物語の落ちとしては最低とも言われる、夢落ちか。
「貧血を起こすのも当たり前じゃ。相当な出血量じゃったからのう。応急的に処置はしたが、何せ私も万能ではない」
「っえ。あれ。うん? どういうことだ? 夢だったんだよなあ?」
夢でなければ、僕の無事に説明が付かない。
でも、夢だったなら、こいつがその夢の内容について知っていることに説明が付かない。
つまり、ジレンマの発生である。
「夢ではないぞ? お主は昨日、確かに死んだ。いや死にかけた、というのが正しい言い方なのじゃが。何にせよ助かって良かった」
心底安堵したような表情を浮かべる縁ではあるが、僕の方はまだ安堵には到底至らない。至れない。事実をまだ飲み込めていないのだから安心なんて百年早い。
「いやいやいや!あの状況からどうやって助かるんだよ。胸を突き刺されたんだぞ? 貫かれたんだぞ? 心臓潰されたんだぞ?」
言葉にすることで、昨晩の、あの信じ難く凄惨な出来事が具体的に思い出され、動悸が更に激しくなる。
いや、落ち着け。ここで今更慌てても仕方がない。こういう時の対処法は知っているはずだ。僕はこんなことには慣れているはずだ。
ゆっくり、大きく息を吸って、同じように吐き出す。呼吸を整えることで、精神を整える。
取り乱すな。些細なことじゃないか。こんなことは。死なんてそこら中に溢れてるんだから。
「僕は殺されたよな?」
落ち着いたところで、もう一度僕は問いただす。事実を確認する。
「ああ。お主の心臓は修復不能なまでに破壊されておったの。竜殺しに突き刺されて」
そんな梅茶漬けみたいにあっさり言われても、飲み込めるものか。茶漬けだからってさらさら流し込めると思ったら大間違いだぞ。何だ竜殺しって。確実に喉につっかえるわ。
「や、竜殺しって何だよ」
「聖剣竜殺し。あの馬鹿でかい剣の銘じゃ」
「ああ、あれ」
まあ確かに竜殺しって感じだ。大きさからして。
「え、じゃあやっぱ現実だったのか。いやあ、いやあ、にしても現実味が……」
「丙は自分の目で見たものも信じられぬのか?」
と、女は、縁という名の女は、丙という僕の名前を、いとも容易く口にした。
「あれ。……名前」
教え……たんだよな。
「そうじゃぁ。丙とはお主の名前じゃ。伊賀の伊に瀬をはやみの瀬、丙午の丙、で伊瀬丙。お主から聞いた。そして縁は私の名前じゃ。お主から貰った」
そうである。
一体いつだったか、一体どこでだったか、僕は彼女に名を明かした。彼女に名前を与えた。願いを込めて、縁という名を僕は彼女に授けた。竜を自称する女に、人間に憧れる孤独な竜に、名前を付けてやった。
そして、代わりに命を貰った。彼女の心臓の一つを、僕は貰った。夢と現の狭間で、彼岸と此岸の境界で、僕と彼女は互いに打ち明け、与え合った。
「……」
現実味のなさに言葉がでない。
幽霊を信じない僕は、疑り深い僕は、自分の目で見たものさえも疑う。説明のつかないものは間違いだと僕は思う。
天狗、河童、座敷童など日本人にはお馴染みの古式ゆかしき伝統的な妖怪たち、口裂け女、コックリさん、トリオのベム、ベラ、ベロといった新進気鋭の現代妖怪たち、レント、巨人、吸血鬼、小人、魔法使い、ネス湖のネッシー、ビッグフットさん、宇宙人、未来人、地底人、超能力、占星術、錬金術、ペガサス、ケルベロス、麒麟、勿論竜だって、だから僕は信じていない。
裏を返せば、論理的に説明のつくものならば僕は必ずそれを信じる。とにかく自分で納得できれば、それで良いのだ。
だが今回の場合、判断に困る事案が立て続けに発生し過ぎている。一つ一つ精査していかなければ。何を信じ、何を信じないのか、検討していく必要がある。
まず大前提として昨日起きたことは夢ではない。彼女と認識を共有している以上、それは明らかだ。
では僕が、彼女の言うところの竜殺しなる巨大な金属で串刺しにされたというのは本当に事実だろうか。これも、全てが夢でないという前提があるからには事実なのだろう。その証拠、というには些か弱いかもしれないが、実際、縁の着ている洋服は、僕が与えてやった着衣は錆びた鉄のような色に染められているし、寝ていたベッドにもその痕跡が見て取れる。この酷い立ち眩みも、大量出血の後遺症だとすれば一応説明できる。
次に、僕は本当にまだ生きているかという疑問だが、これは考えるべくもなく事実だ。そもそも僕は死後の世界を信じていない。
であるならば、僕が瀕死、というよりほぼ即死の状態に陥ったことと、その僕が今も健在であることが事実ならば、僕は胸から背中に大きな風穴を開けられた状態から、蘇生したことになる。
普通に考えればそんなことは有り得ない。医療はまだそこまで進んではいないし、恐らくどんなに医療が進んだところで、心臓と、恐らく肺、加えてその他いくつかの臓器をずたずたに破壊された状態から一命をとりとめるなんてことは多分出来るようにはならないだろう。出来るようになったとしても、せめて傷跡くらいは残りそうなものだが、僕の胸は、僕の穴の開いた胸は、今や新品のように綺麗に均されている。
説明がつかない。僕という命の復活は説明がつかない。
但し、彼女の言葉を信じないとすればだ。
そして、彼女の言葉を信じるとすると、あっという間に、全てのことに説明が付いてしまうのである。
つまり、ファンタジーを受け入れるか受け入れないかのここは分水嶺だ。
彼女の物語、彼女のファンタジーに富んだ物語を受け入れるなら、全てに説明がつく。合点がいってしまう。
有り得ない大きさの剣がどこからともなく突然出現したり、後ろを走っていたはずの男が目の前に現れたり、体を貫かれた人間が甦ったり、年頃の女が一人で暗い夜を明かしたり、彼女の顔に涙の跡が見て取れることも、あらゆる事象が説明出来てしまう。
当たり前だ。だって、ファンタジーなんてものを受け入れてしまえば、何だってありになるのだから。
竜や転生がありなら、剣の召還もありだし、蘇生魔法も転移魔法も何でもありになってしまう。どんなに現実離れしたファンタジー的現象であっても、一度それを受け入れたなら、一概に僕は信じざるを得ない。
だからここは瀬戸際だ。これまでの人生観を覆すような決断に、僕は迫られているのだ。
「……お前が僕を救ったのか?」
「否。お主が私を救ったのじゃ」
不可能を除外して残ったものこそ、それが如何に信じ難いものであったとしても真実である、と彼の世界一有名な名探偵は言っている。創作の名探偵ではあるが、僕はその意見に大いに賛同するし、してきた。
それに、本当はもう分かっている。僕の心境に起きた変化は、どんな理屈を並べ立てても無視することは出来ない。この胸の中の心の臓器が痛切に訴えかけている。
「お前の心臓を僕が貰って、お前は大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃ。私の心臓は元々四つある。その内のいくつかを失ったからといってどうということはない」
彼女の物語を受け入れるからには、この信じ難い言葉も信じなければならない。こんなことを信じるなんて常軌を逸しているとしか言いようがないのだが、実際常軌を逸した事態が起きたのだから、致し方あるまい。
「それに、たとえ私の心臓が一つしかなかったとしても、私はお主に命を授けていた」
「何でだよ。何でお前はそこまで言い切れる」
自己犠牲を嫌悪する僕は、だから素直にそう疑問を持つ。
「それは口にするのも憚られる、並々ならぬ尊い事情があるからじゃ。自分のことを棚に上げておるようじゃが、お主とて、その一つしかなかった命を、なけなしの、替えの効かない大切な命を、私に差し出してくれたではないか」
僕の命なんて……、と言おうとも思ったが、思い返せばそういう冗談は、少なくともこの女の前では禁止されている。言い付けを守ろうというわけでもないが、昨日、まさに死の直前、ああまで強烈に死を拒み、命を惜しむ言葉を吐いてしまった今となっては、そういう類の冗談は冗談では済まなくなってしまった。
冗談ではなく、ただの虚言になってしまう。
「……あれは体が勝手に」
「体が勝手にそう動く人間が、どれ程稀有な存在か、お主は理解しておらんようじゃ」
「統計的なデータがあるわけじゃないから、そんなこと分かんねーだろ」
「私を誰じゃと思うとる。幾世も命を繋ぎ、世を眺めてきた、万世不滅のドラゴンじゃぞ? データというなら、私の頭の中に星の数ほど記録されておるわ」
彼女の記録。彼女の記憶。彼女の物語。歴史。迫害の繰り返し。殺戮の記憶と苦痛。彼女と彼女の絵空事を受け入れるということは、その全てを受け入れるということだ。
きっとそれは容易ではない。
竜だろうと何だろうと、感じることが出来るのなら、あんな風に涙を流して悲しみを表すことが出来るのなら、彼女の悲劇を、その悲劇性を適切に表現できる言葉は、きっとこの世界に存在しないのだろう。それを表すには、彼女の人生は余りに永く、言葉という概念は余りに未熟過ぎる。
「しかし丙よ。次にもし私の命が危険に晒されるようなことがあっても、もう二度と、自分の命を引き換えにしようなどと、無謀な試みはしてくれるなよ? そんなことをしたら、私はお主を絶対に許さぬからそのつもりでおることじゃ。…竜の祟りは七代どころでは済まぬからの。」
「ああ。肝に銘じておくよ」
妙に迫力のある有り難い忠告と脅しをかける僕の名付け子に、僕は言う。
「……なあ、縁。」
彼女の、僕が名付けた名前を呼ぶ。
「何じゃ、丙?」
「お前が良ければだけど、僕と一緒にここに住まないか?」
寝惚け眼の、頭も正常に機能していないこんなあやふやな状態で言うべきことではないのかもしれない。余りに突然で脈絡もなく、もしかすると僕はまだ冷静ではないのかもしれない。
だけど、やはり僕は今ここで、昨日の出来事を忘れてしまわない内に、昨日の想いを忘れてしまわない内に、はっきりと言っておかなければならないのだ。
「……ふふっ。やっぱり大好きじゃ。丙」
僕には救われ、願い、名付け、命を貰った責任がある。
この太陽のような笑顔の責任が、僕にはある。
一緒にいたいと、あの時死の淵で狂おしいほどに思ってしまったのだ。吊り橋効果だろうが何だろうが、僕はそのために、どんな努力でもする。
だってこいつはあの時言ったのだ。
お主も私を必要とせんのじゃな、と、諦めたように、冷めたみたいに、寂しいみたいに。
僕はその言葉をどうしても、否定してやらなければならない。
否。違う。否定なんてことは彼女にはもう十分なのだろう。もう沢山だろう。
だから僕は彼女を、絶対に、肯定したいのだ。