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竜の心臓移植 (旧題 ある竜の転生)  作者: こげら
一章 ある失敗の代償
13/92

<結>


 だらだらと絶え間なく続く僕と彼女の退屈な日常の物語はしかしここで唐突に、唐突な展開を迎えることになる。事態はいよいよ、風雲急を告げる。こうして先に言ってしまうと、話の意外性を排除することになってしまいかねないのだろうが、今回の場合は展開が余りに急転するために、その手の心配をする必要もないだろう。


 何の予兆も前兆も前触れもない、所謂シリアスパートへの突入である。凡そ半分くらいを僕の拙い調理過程の描写に費やしてしまったような気もするこの日常譚は、顔色を矢庭に変える。

 まさか僕の人生に於いて、そんなパートが発生するだなんて夢にも思っていなかったが、どうやらその油断が結果として最悪の事態を招いたらしい。


 自らの死という最悪の結末を僕は経験する。

 十七年間続き続けた、幸福でも不幸でもなかった僕の人生は今宵を以ってようやく打ち切られる。何か失敗したわけでも、何か罪を犯したわけでもない僕の生命は、あの竜殺しと呼ばれた大剣によって、俄かに、忽然として奪われる。


 いや、そんなことを言っているから、きっと僕は罰を下されたのだろう。生きているくせに、何もしようとしなかったから、その怠惰の代償として、僕は命を失うことになるのだ。だからこれは、典型的な自業自得の物語なのだ。


 そして、僕だけでなく、同じ場所をぐるぐると回り続けてきた彼女の人生にもまた、転生を繰り返してきたある一匹の竜の命にもまた、この日初めての変化が訪れる。


 ――僕と彼女が共に未来へ、共倒れの未来へ向かって行く、これは始まりのエピソードである。








 玄関のドアベルが鳴ったのは、僕と女が丁度出発の準備を終えた頃である。

 時刻は八時過ぎを示していた。


 こんな時間に人が訪ねてくるなんて、珍しい。


 来客自体も珍しいのだが、日が暮れてから人が訪ねてくるのは、こちらに引っ越してきてからは初めてかもしれない。


 「お前、顔出すなよ。押し入れに隠れて静かにしてろ」


 「うむ分かった」


 一人暮らしの男の家に女が、それもこの時間に出入りしていたとあっては人聞きが悪い。よって彼女には居ないことにしてもらう。


 母親ではないだろうから、部屋の中にまで入ってくる可能性はほとんどない。それでも一応の警戒として、万が一のために彼女を野放しにはしておけない。


 彼女が隠れたのを確認して、玄関へと赴く。


 茶髪、くすんだような青の瞳、にこやかな表情、知らない顔。

 覗き窓から外を覗くと、高校生くらいの、僕と同じくらいの年齢の男が立っていた。見ない顔である。少なくとも学校の知り合いではないし、ご近所さんでもない。


 「どちら様でしょうか」


 鍵もチェーンも掛けてある。


 いやもう既に、内部に不審者一名いるのに今更何の警戒だよ、とも思うんだけど……。


 「夜分にすみません」


 人の良さそうな柔らかい声。


 「こちらにお邪魔している者がいると思うのですが」


 ……?


 「……あの、どちら様ですか?」


 「ああ、すみません。うちの妹がこちらでお世話になっていると思うんです」


 ……。


 ――はあ? 何だ、こいつ。あからさまに怪しい!

 うちの妹? つまり、この男は彼女の兄で、妹であるところのあの女を引き取にきたというのか? 何だそれ。明らかにおかしいだろ。

 じゃあ今まで何やってたんだよ。僕の家に邪魔してることが分かってたんなら、何で早く迎えに来なかったんだ。そもそも何で僕の家に居るって分かったんだ?


 基本的に人を信用しない、性善説より性悪説を信奉する僕の猜疑心を侮ってもらっては困る。元々がそんな質であるのに、加えて僕はあの疑わしい女との邂逅を終えているのだ。

 いや邂逅なんて格好付けた言葉は、彼女との場合では使うべきではないのかもしれないのだが、邂逅というより遭遇と言った方が正しいのかもしれないが、とにかく僕は彼女と出会い、巻き込まれたことを既に深く反省しているのだ。


 「あ、すみません。火点けっぱなしできちゃったんで、ちょっと待っててもらって良いですか?」


 「ええ。勿論、構いません」


 無論、夕食を終えた現在、三つある炉の火は全て消えている。


 「おい、お前の兄と名乗る胡乱な輩が来てるんだけど。何かお前並みに胡乱なんだけど」


 声を潜めて押し入れに押し入れた女に確認を取る。


 「……むにゃむにゃ。ん? なんじゃ? 兄とな? 私に兄などと呼べる者はおらぬが?」


 ――おい、何寝てんだお前。人の家の押し入れで寝るって、ドラえもんかよ!



 「やっぱ、そうだよな」


 つまり、この女の言っていることを信じるならば、あの男は嘘を吐いている。

 胡散臭さと怪しさで言えば、この女もあの茶髪男も大差はない。だが、人を騙す意図のある嘘を吐いているという点で、あの男の方が数段危険度が高い。


 「お前、押し入れからは出てろ。あっちから見えないようにな。後、窓は開けといてくれ」


 「それは良いが、何故じゃ?」


 「念のため」


 こいつはこいつで大嘘を吐いているのだが、それは、何とか僕を騙くらかそうという類の嘘ではなく、どちらかと言えば彼女自身の目を現実から背けさせるための嘘だ。同じ嘘でも、両者には大きな差がある。害意があるか、ないかの違いが……。


 人を騙すための嘘を吐くからには、それ相応の理由があるはずだ。

 だから僕は警戒する。必要以上かもしれないし、過剰防衛なのかもしれない。しかし対策というのは無駄になる可能性があっても、事前に準備しておくべきものだ。


 「なんかもう面倒臭ぇ」


 本当に心底面倒臭い。何故僕が一日に二人もの不審者を相手取らなければならないのだろう。


 「お待たせしました。それで、どのような御用件だったでしょうか」


 「はい。わたくしの身内が、こちらでお世話になっていると伺いまして、引き取に参りました」


 ――どこから伺ったってんだ? 自慢じゃないけど、僕には情報を漏らされるような友達なんていないぞ。


 ……いや本当に自慢出来ないけど。


 「御迷惑をお掛けして大変申し訳ありませんでした」


 ――おいおい、まあニコニコしちゃって。目が笑ってないんだよ。それじゃまるでウォーリーだよ。


 ドアの隙間から見える男の顔には笑顔がへばり付いているが、一つの嘘は、何もかもを嘘くさく感じさせる。何が狙いかは分からないが、何か狙いがあるのは確かだ。嘘を吐くことで、僕やあの女に害を及ぼすのか、この男に何か益があるのか、そういう狙いがあるはずだ。


 「はあ。あの、勘違いじゃないですか? うちは僕の一人暮らしで、誰もお世話なんてしてませんよ?」


 「……そうですか。では、仕方がありません」


 男の不吉な雰囲気に、僕は咄嗟に退いた。


 ……結果としてその咄嗟の動作は、その回避動作は、正解だったのだろう。

 胸の数センチ先を、後退らなければ、胸の、心臓のあった場所を銀色に光る物体が通り過ぎたのを、僕の目は確かに捉えていた。


 我が家を強力に不審人物から守ってくれていたドアチェーンが、見るも無残に垂れ落ち、扉にぶつかって鈍い金属音を立てる。


 「……ぇ」


 「お邪魔します」


 ドアが開き、居住者の許可もなく、堅牢だと思い込んでいた僕の城に、いとも容易く男は侵攻する。


 「ちょっと、待ってください。何をしたんですか。何をしようというんですか」


 僕は愚かだ。何をしたかなんて、分かっている。この男は、切ったのだ。壊れたチェーンの切断面を見れば一目瞭然、美しいほどに綺麗に切断されている。

 僕は愚かだ。この男がこれから何をするかなんて分からずとも、僕は逃げるべきなのだ。


 だってこの男は、僕ごとチェーンを壊そうと、切ろうとしていたのだから。何の躊躇いもなく、唐突に、僕という人間をこの男は壊そうとしていたのだから。


 「失礼ですが、あなたに用はありません」


 最低だ。なんてことだ。ここにきてこんな急展開、聞いてない。不審人物どころではない。この男は紛れもない、危険人物だ。僕の想定を遥かに超えている。対策なんて、どれだけ立ててもこの男に対しては過剰ということはなかった。


 「退いて下さいとは言いません。但し、あなたが退こうと退くまいと、わたしはそこを通ります」


 一本道の狭い廊下、男が一歩ずつ迫力を増して、圧力を強めて、距離を詰める。その速度に合わせて、気圧されて、僕も後退る。


 あと二百センチ。あと百五十センチ。あと一メートル。


 僕が右手のトイレのドアノブを掴み、思い切り開け放ったのは、そろそろ壁の裏側に隠れている女が視界に入ろうかという時である。

 ドアが男の行く手を阻むのと同時に、反転してダッシュ。開け放たれた窓へ、振り返らず走る。


 「逃げるぞっ!」


 女の小さな手を無理やり引っ張って、ベランダから庭へと飛ぶ。

 二階からとは言え、裸足での着地は衝撃的な痛みを伴ったはずだが、今はそれを感じている暇もない。当然、狼狽えた表情をしている女に説明を与えてやる時間も、説明を求める時間もまたない。

 着地でバランスを崩しひっくり返りそうになるが、上出来も上出来、大方の予想に反して何とか堪え、そのまま走り出す。


 兎にも角にも、逃げなければ。逃げなければ、命が危ない。


 ――やばいやばいやばいやばい。


 やばいって言葉、好きじゃないけど、普段は気を付けて使わないようにしてるけど、これはやばい。あいつはやばい。いや、あいつのためにあるだろ! やばいって言葉!


 あいつは何だ。どうやって? 何故?


 今はどうでも良い。一先ず無駄な思考は停止して、走らなければ。幸いにも都合よく発揮された僕のあってないようなこの行動力を駆使して、どうにかこの場から離脱しなければ。


 脳内でパニックを起こしながらがむしゃらに走る。足の痛みも息切れの苦しさも関係ない。右手から伝わる体温だけを失わずにいれば今はそれで良い。


 「おいっ、お主っ! どうしたと言うのじゃあ?」


 僕が聞きたい。何なんだあの男は。お前のお仲間じゃないのか。どう見てもまともじゃない。どう考えても普通じゃない。尋常じゃない。お前如き軽犯罪者、可愛いものじゃないか。


 あれは、今も後ろから追いかけてきているあの男は明らかに、平和的じゃない。ごく平凡な男子高校生であるところの僕でも、それくらいのことは分かる。それくらいに、異様で、異常だ。


 「良いから、走れ!」


 変態女子中学生のお前とて何をされるか分かったもんじゃないぞ。


 暗闇の中を闇雲に僕と女は走る。華奢な体の少女は、僕の走る速度に、手を引かれながらではあるが、何とか付いてきている。

 こんな本気でダッシュするのは中学の部活を引退して以来かもしれない。健康管理のため週一、二回は走っているとはいえ中々厳しい。苦しい。裸足というのも勿論あるが、とてつもないプレッシャーが、心拍数を上昇させ、呼吸を乱し、体力を消耗させる。


 子供の頃の鬼ごっことはわけが違う。追い付かれれば身に危険が及ぶ。何しろ相手は武器を持っているのだ。何とは特定できなかったが、刃物、それもかなり鋭利なものだろう。でなければあの切れ味は説明できない。

 金属の鎖を切断したのだ。刃物や凶器に精通しているわけでもなければ、武術経験があるわけでもない僕でも、それがどういうことなのかは、常識さえ備えていれば想像するに難くない。

 刃物で金属を一刀両断するなんて、本来なら簡単ではないはずである。例えば居合いの達人でもなければ、あれ程綺麗な切断面を残すことは出来ないだろう。

 それをあの男は、一瞬で、一太刀で断ち切ったというのだから、僕が過剰に恐れるのも無理はないと思う。文字通り、必死で逃げるのも当たり前の対応だ。


 長屋の狭い庭を脱出した後、いつもの通学路方面へと逃げる。とにかく明るい方へ、人のいる方へ走る。アパート前から続く道幅の狭い三十メートル程の道を駆け抜けて、神社脇の階段を落ちるように疾走する。


 女も僕も息が上がってきているが、もうあと百メートルも走れば大通りに出る。そこまであの男に追い付かれなければ、初めの目標は達成する。

 流石に交通量の多い通りに出れば、大っぴらに武器を振りかざす可能性は低くなるだろう。だから、下の道まで辿り着けば、後はそこから比較的安全だと思われるバス通りに沿って、最寄りの交番に逃げ込む。最終目的地はそこだ。


 それとも、一キロ近くも離れた交番まで走っていくよりも、道行く人に助けを求めた方が良いのだろうか。どこかのコンビニにでも逃げ込んだ方が良いのだろうか。そこで警察を呼んでもらって…。

 いや。一般人にあの危険な男に対処する能力があるとは思えない。そもそも、人前では目立ったことは出来ないだろうという想定のもとに今も走っているわけだが、その想定が正しいとも限らない。もしもあいつが形振り構わない奴だったら、人前だろうとどこだろうと任務を遂行するような奴だったら、どこに逃げ込んだところで一巻の終わりだ。警察が到着する前にあの男は目的を果たしてしまう。


 着の身着のままで飛び出してきたので、交通機関は使用できない。彼女を連れているから、ここから交番まで最速でも十分くらいはかかる。


 ――十分も逃げられるのか?


 「畜生」


 恐怖と焦りで、冷静に考えられない。いくつもの考えが頭の中に現れては消えていく。どれもが取り留めもなく、現状を打破する力を備えていない。


 どうすれば良い? どうすれば良い?


 完全に空回りしていることは、明瞭に理解できるのに。


 どうする? どうするのが最善だ。どうすれば逃げ切れる。どうすれば助かる。


 問だけが乱立して解答が一つたりとも出てこない。テストの残り時間が五分しかないのに、大問二つ分くらい丸々手を付けていないような、そんな感覚、と言ったら何か緊張感に欠けてしまうが、どうにもならないことへの焦燥感と苛立ちが更に思考を鈍らせる。歯痒さでどうにかなりそうである。

 叫びたい気分だが、そんなことをしても肺の空気を無意味に失うだけだ。


 だが、僕のそんな苦悩は、焦燥は、全くの無意味だった。全くの杞憂だった。


 僕が足を止めたのは、思いがけず足を止めざるを得なかったのは、奇しくも丁度、僕と彼女が出会いを果たした、そして再会を果たした、天地神社の石段の目の前である。


 今朝と同じ場所で同じように、最大速力から速力ゼロへ、僕は急ブレーキをかけた。


 「用があるのはその女だけと言ったはずです。邪魔さえしなければあなたに危害は加えませんよ」


僕たちの後ろを走っていたはずの追跡者は、しかし僕たちの正面に立っていた。

 話し方や言葉遣いとは裏腹に、威圧的で高圧的な刺すように鋭い眼差しで、男は忠告する。邪魔をすればお前に危害を加えるという、それは脅迫だ。


 元気のない電灯に暗く照らされた男の顔には明白な敵意の色が浮かんでいた。敵意なんて向けられたことのない僕でさえも明確に理解できてしまうような、強烈な意思がその全身から漲っていた。いっそ異様と言って良いくらいの、害意の塊がそこに服を着て立っているようだった。


 「刃物なんか取り出しといて危害を加えないなんて、そんな言葉、どう信じろってんだ。それに……」


 それに、それはつまり、邪魔しようがしまいが、こいつに危害を加えるつもりは、あるってことだろ。


 「どんな事情があるかは知りませんが、物騒なことはやめにしませんか。話し合いで解決しましょう」


 「それは出来ません」


 「何故! こいつに何の、どんな用事があるっていうんですか」


 「あなたには関係のないことです」


 ――関係ない? 人の家に突然押しかけて、ドアチェーンぶった切っておいて関係ない? そんな馬鹿げた話はない。

 器物損壊、不法侵入、銃刀法違反、殺人未遂、その他諸々。法律の壁をぶち破って、無理矢理に関わって来たのはお前の方じゃないか。それを関係ないなどと…。


 「関係なくねーよ」


 「?」


 追い付かれてしまったのなら仕方がない。この際、ありったけの文句を言ってやろう。どうせ逃げ切れないのなら、有らん限りの悪態でも吐き尽くして、誰か助けが来るまでの時間稼ぎでもするとしよう。

 冷静な判断とはとても言えないのだろうが、臆病な僕は今も怖くて仕方がないが、他に妙案も浮かばない。何より、言わずにいられないのだ。僕は怒っているのだ。

 人様に迷惑を掛けておいて、謝りもせず不遜な物言いをする若者を正さなければならない。ふざけるなと。弁償しろと。賠償しろと。謝罪しろと。僕にはどうしてもこの男に言っておかなければならないことがある。


 「……あんたがこいつに手を出す気なら、それは僕にも関係のある話だ」


 咄嗟に出てきた言葉だったが、だからこそ多分それが、僕の本心なのかもしれなかった。


 本当に見過ごせないのは、ドアのことなどではなく、この男にこの女を傷付ける意思があるということなのだろう。


 男の用は、この女にある。男の狙いはこの女だ。

 関係のない僕の命を、あわや奪おうとした男だ。本丸の彼女にどんなことをするかなんて、目に見えている。どういうわけか、或は当然のことなのか、僕はそれを看過できない。許容できない。


 「お主、それ以上はよせ。あの者は私に用があると言ったのじゃ。お主がむきになって危険に身を晒す必要はない。それにあやつの正体にももう察しがついておる。私が出て行けば、穏便にとはいかずとも、取り敢えずこの場は収まるはずじゃ」


 「あ? 何言ってんだ、お前。そもそもお前がちゃんと話さないから、こんなわけ分からないことになってんじゃねーのか? 誰なんだよ、あいつ。お前が出て行って、それでお前は無事で済むのかよ」


 「まあ……無事では済まんじゃろうが」


 「じゃあ」


 じゃあ駄目じゃん、と続く僕の暢気な言葉は、数メートル先にいたはずの、今や数十センチ先にいる男の声によって遮られる。


 「すみませんが、下らないお喋りに付き合うつもりはありません」


 男は、音もなく僕と女の側面に回り込んで、そして……、


 「っ!!」


 そして、どこから取り出したか、どこに隠し持っていたのか、見たことも聞いたこともないような、剣と呼ぶのが相応しいのかもわからない巨大な金属の塊を、女めがけて突き刺そうとしていた。


 敵が、主人公の変身や必殺技の溜めを待ってくれるのなんて、漫画の中の話だ。ましてや敵の前で無駄話をするなど、現実なら命知らずも良い所である。

 いや、そもそも、殺意のある敵が登場することなんて、リアルやノンフィクションでは有り得ないと僕は思っていた。その殺意が自分に対するものではなくとも、例えば、知り合ったばかりの素性も知れない女に対するものであったとしても、そういう場面に出くわすことなんて、僕に限らずほぼ全ての日本人が予想だにしていないだろうし、当然経験もしたことがない。

 だから僕は、こういう時、多くの人がそうであるように、自分がどう動くのかを知らない。立ち向かうのか、立ち去るのか、立ち竦むのか、悲鳴を上げるのか、雄叫びを上げるのか。


 ――スポーツをやっていると、周りの状況をやけに鮮明に理解できる瞬間がある。一流のアスリートともなると、その瞬間、時間が止まったように感じるらしい。野球でボールが止まっているように見える、というのがその最も有名な例だ。

 中学までバスケットボールをやっていた僕も、人生で二回か三回くらい、そういう現象に遭遇したことがある。正確には止まって見えるのとは、少し違う気がするのだが、しかしその現象が起きた次の瞬間には、決まって体が勝手に動く。無意識に、気付いた頃には普段の自分からは考えられないようなスーパープレーが飛び出しているのだ。


 僕はそんな体験を人生で二度か三度したことがあり、そして今日がその三度目か四度目であるようだった。尤も、それがスーパープレーであるのか、それとも思わず吹き出してしまうような珍プレーであるのかは判断に困るところではある。

 だってそれは、とてつもなく無茶苦茶な、無策で無謀なそして愚かしい行動だったのだから。


 痺れるような、肌がひりつくような、感覚。


 「お主っ!?」


 突き飛ばされ、後ろに倒れる女の顔は、驚きの顔で満ちている。


 ゆっくりと時間の流れる極限の状態で、僕がとった行動は、正しくは僕の体が勝手にとってしまった行動は、今にも突き刺されそうな顔見知り程度の女を、後ろへ突き飛ばすことだった。


 ――正義の味方にも、目立ちたがりの英雄にも、お人好しの偽善者にも、僕は憧れない。自己犠牲なんて自己満足は本当に果てしなく下らないし、誰かのためなんて、いつだって嘘っぱちだ。


 悍ましい。忌々しい。僕もその悍ましい何かになってしまったかと思うと嫌気がさす。


 「……あ、……ああ、……ああああ」


 男の持つ巨大な剣は彼女という最初の目標を捉え損ねたが、だからといって空を切ったわけでもなかった。目標との間に分不相応にも割って入った、僕という一般人の体を真っ直ぐに、剣は捉えていた。僕の胸に、僕の心臓に、剣は突き刺さっていた。


 ――本当に最悪だ。何でこんな目に遭わなければならない。どこから間違えていたんだ。どこで間違えた。


 くそったれ


 性に合わない、信条にそぐわないことをするから、こんな酷い目に遭うのだ。


 胸から生えた金属塊が引き抜かれると、薄暗い月夜にも鮮やかな液体が、まさしく堰を切って、間欠泉の噴出のように、勢いよく止めどなく噴き出す。

 痛いよりも熱いよりも、視界から見下ろすその光景が、自分の胸に巨大な裂け目が出来ているというその光景が、受け入れがたく、衝撃的で、吐き気を催すくらいに、気持ちが悪い。体の中心に感覚のない空間が出来ていることが、そこはかとなく、気持ち悪い。


 死の予感に慄いたのか、それともただの反射なのか、全身がひくひくと激しく痙攣している。


 「……あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝」


 絶叫もここで打ち止め。声に代わって、ドロドロとした粘性の高い血液が、ゴポゴポと口から溢れ出る。目から鼻から口から、どういう類のものかはわからない、温かい液体が流れ出て、視界は白く、意識は薄く、不愉快なほどに高音の、キーンという耳鳴りが絶えず頭の中で鳴り響く。


 自分が立っているのか、それとももう地面に倒れてしまったのかも、明らかでない。明らかなのは、十七年間、勤勉に、絶えず体中へと血液を送り出してきた僕の心臓が、すっかり壊されてしまったことと、波風の立たなかった僕の人生がここにきて壮大に、いよいよ終わるということだけだ。

 肋骨を砕き貫いた巨大な剣は、心臓と恐らくその周辺の臓器のいくつかをずたずたに壊して、そのまま背中の皮膚を内側から破って反対側へと抜けた。体内には痛覚がないから、詳細なことは分からないが、そんなことは一目瞭然だ。


 僕は死ぬ。一章ならぬ一生のお終いである。

 今日ここで、突然に、唐突に、理由も知らされず、何の救いも説明もなく、僕は命を終える。何かの失敗の償いとして、僕は今宵人生に終止符を打つ。出会って間もない、まだ五分と経っていないであろう男の手によって、殺されるのである。


 ――今際の際に何を思うかで、人の価値は決まるというが、だとすれば僕は、分かり切っていたことかもしれないが、相当ろくでもない人間なのだろう。死の直前に僕が思うのは、家族のことでも、友達のことでも、例えば世界平和のことでもなく、怒りでも憎しみでも悲しみでも懺悔でも後悔でも愛情でもない。

 僕が思うのは、僕が願うのは、野蛮で根源的な、酷く醜く浅ましい、ただ一つの欲望だ。





 ――いやだ。いやだいやだいやだ、こんなところで死にたくない。死にたくない。死にたくない。




 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。




 ――死にたくない




 「……ぢ……に……たく……」


 笑ってしまうくらい悍ましく、泥沼のように果てのない、最悪な欲望が理性の領域を侵食し、どす黒い血液のように溢れ出る。


 ――死なないためなら、何だってする。何にだって縋る。誰にでも懇願する。それを回避するためなら、人だって殺してやる。


 吐き気がした。多分もう、食道の大部分は破壊されていて、断絶されていて、口からそれが溢れ出ることはないのだろうが、とてつもなく気持ちの悪い塊が、激流となってこみ上げてくるのが分かった。


 「……に……」


 死への恐怖と、生への執着と、自分の情けなさに、泣き叫びたいが、しかし僕にはもうその権利さえ残されていない。痛みは既に遥か遠く、体温は急激に落ちていく。最早時間はない。一刻の猶予もない。どんなに拒絶したところで、僕は死ぬのだ。


 ――さようなら。

 そう伝えたい相手もいない。


 呆気ない幕切れだった。下らない人生だった。つまらない人間だった。結局何もしなかった。誰にも影響を及ぼさず、誰とも絆を結ばず、ただ死にたくないと、生きたいではなく、死にたくないとだけ願って、そうして一人、僕は死ぬ。

 何もしてこなかったくせに、何もしようとしなかったくせに、死にたくないなんて、まるで支離滅裂だ。今更、生に縋りつくなんてみっともないにも程がある。お前なんて、初めから生きるべきではなかったのだ。因果応報。飄々と格好をつけて無関心に生きてきたことの付けが今こそ回ってきたのだ。


 ……だけど

 ……だけど、それでも僕は、どうしようもない僕はどうしようもなく、


 「……死にたく……ない」


 ――最後に、人生の最期に、執念と呼ぶべきものでどうにか見開いた目の、赤黒く染められた視界に捉えたのは、大粒の涙をぼろぼろ溢し、何かを叫びながら僕の手を握る、あの女の血に濡れた顔だった。


 「――――!」


 何を言っているのかは分からない。僕の耳はもう既に機能していない。


 「……あ……あ。もう……じゅ……」


 もう十分だった。


 その光景を目の当たりにした瞬間、僕の死に涙を流してくれる人間がいると初めて理解したその瞬間、突然に、死ぬのも案外悪くないと、僕はあっさり死を受け入れたのだった。

 たったそれだけのことで、惨めな僕の人生は救われたのである。報われたのである。


 こうして僕の一度目の人生は、一度切りの人生は、生まれて初めて、死ぬことによって初めて、死という劇的な一幕を迎えたのだった。劇的で、唐突で、余りに呆気ない、それでいて幸福な、全ての終わりだった。











 僕というまだ名前さえ明かされていない主観が消滅したこところで、この物語はお終いだ。

 あの怪しくも疑わしい、胡散臭さの発生源のような女との出会いと誘惑、煩わしくも和気藹々とした団欒、そして走行距離僅か百メートル余りの逃亡劇、僕という人間の凄惨で悲劇的な死に際と、ささやかな救済、それだけがこの物語の全容である。


 いや、余りの取留めのなさに、それは悲劇ではなく喜劇だろうと笑う者もいるだろう。斯く言う僕とて、油断すると思わず笑ってしまいたくなる。何だこのすっぽかしたような投げやりな終わり方は、と。

 まあそこはそれ、受け止め方は人それぞれ。あの女も言っていたが、何事もどう解釈するかは受け手の自由だ。


 さておき、物語というには余りにも短く、脈絡も伏線も落ちもない稚拙なものであったから、寸劇、というくらいが丁度いいのかもしれないが、ともあれ物語はいつだって語られるものであるからして、語り手たる僕が死んでしまえば、物語はそこで終わる。誰にも語られない物語は、最早物語たりえないのだ。

 だから、これにて終幕。見事にハッピーエンドである。


 平凡で凡庸な男子高校生の話など、いつまでも長々と続けてもつまらない。死という、幕引きにはおあつらえ向きのイベントが発生したところで、潔くここは退こう。いい加減、周りにばかり気を遣って、気を張って、自分を保つのも疲れてきた頃合いだ。生きるなんてことは大概面倒なことばかりだし、出不精を自称する身としては、永遠の眠りも、魅力的な言葉でしかない。


 僕は勇者でもないので、死んでしまっても情けなくはないし、そもそもあの台詞は鬼畜過ぎる。


 少しばかり特殊な死に方をしてしまったから、後始末をする皆さんには申し訳ない限りだが、死んだ後のことまで考える意味も理由もないだろう。


 さて、もう良いか。語ったことよりも語り残したことの方がよっぽど多いような気もするが、いよいよ以ってここで打ち切りだ。本来なら、ここまで我慢して付き合ってくれた読者諸兄には感謝と謝罪をしておかなければならないところなのだろうが、残念ながら僕の時間はここまでである。

 訳の分からない死に方だったけど、まあ、最後は悪くもなかった。最期は幸せだった。


 これを言ってしまうと、何か負けたような気がしてならないので、最後に一言、捨て台詞を吐いて、勝ち逃げと決め込もうではないか。死んだくせに勝ち逃げなどと、おかしな話だがそれはそれで味というものだ。どうせ死ぬのだからそれくらいは見逃して欲しい。


 では本当に最後に、一言。




 ――あいつとの、結局名前も聞き出せなかったあいつとの夕食は、控えめに言って人生で最高に、楽しかった。




 以上、これにて完結。


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