<十一>
彼女の絵空事を、彼女から伝え聞いた物語を、僕が代わって、要所を掻い摘みながら語るに当たって、まず先に一つ述べておかなければならないことがある。
それは僕が彼女の話をまるで信じていないということだ。
後々逐一、誤解を解いたり注意書きを加えたりするのは効率が悪いように思えるので、どのような誤解も生まないように、語弊が無いように、改めてここで宣言しておく必要がある。僕は露程も、爪の先程も、彼女の話を丸きり信じていない。信用していない。こんな突拍子もない話を信じ込んでしまうほど、僕は子供ではないし、盲目でもない。
ここから始まるのはただの与太話であり、だから僕は一々何か指摘をしたりツッコミを入れたりはしないので、そのつもりで聞き流して欲しい。
他ならぬ僕自身がそうしたように。
曰く、女は竜なのだそうだ。
その昔、数百年前だか数千年前だか数万年前だか分からない昔、女は竜だった。日本ではないどこか西の方の国で、彼女は一人暮らしていた。竜という種族は転生を繰り返して命を繋いでゆくものであり、よって女に両親と呼べるものは居ない。生まれたその時に、彼女は既に竜の形をしていて、彼女という精神を宿していた。彼女は戦乱の時代に竜として生まれた。人々が殺し合う戦場で、竜は突如として生まれていた。
意味も解らないままこの世に産み落とされた竜が初めに見たのは、槍を構えた人間たちが、一斉に襲い掛かってくる光景だった。つい先程まで争い合っていた人間たちが、恐怖の下に団結し竜めがけて矢を放ち、槍を突き立てたのである。
竜は右も左も分からず一目散に逃げ去った。巨大な翼で羽ばたき、飛び去った。竜が飛んでいることを自覚したのは、六度目の太陽が上空を通過した後だったという。
その後、竜はどこかの山脈の大きな洞の中へと逃げ込んだ。
洞穴の最奥、山脈の深層から、竜が次に顔を出したのは、それから更に数年が経過してからのことである。竜は人間に見つからないよう高く高く飛んだ。遠く離れた遥か上空から、下界の様子を見渡した。
そこで竜が見たのは、戦乱を終え、平和な暮らしをする人間たちの姿だった。その光景に竜は見蕩れ、見惚れた。それからというもの、竜は毎日のように人間たちの生活を眺めるようになった。
竜の一度目の人生は長かった。穴蔵から出るようになって、どれ程の時間を過ごしたか、十年だったか百年だったか、千年だったか、とにかく膨大な時間が流れたことだけは確かだったが、その間竜のしたことといえば、ただひたすらに、手の届かない遠くから、人間の歴史を見守ることだけだった。
そんな竜にもある日、転機が訪れた。ねぐらにしていた洞穴を偶然にも人間に発見されてしまったのである。竜を見つけた人間たちは、その巨体を見るや否や、嘗て竜がそうしたように、脇目も振らず逃げていった。人間の捨てていった荷物を見て、竜は彼らが行商人の一団だったのだと悟った。
その凡そ半月後、次に竜の棲む大穴へと訪ねてきたのは、荷物を取りに戻った隊商ではなく、武装した戦士たちの大部隊だった。
簡潔に、彼女の一度目の人生の完結を述べてしまえば、結果として、竜は死んだ。やってきた人間たちに為す術無く殺された。狭い洞窟の中、竜の大きな体と翼は役に立たなかった。返って邪魔になるだけだった。最期は呆気ない幕切れだった。
長きに渡る生涯を竜はようやく終えた。
……が、しかし、その命が完全に潰えることはなかった。竜は転生を繰り返して命を繋いでいくものである。そのことを竜はこの時初めて体感した。
復活のためのエネルギーを溜めている間、竜は串刺しにされた自らの骸の周囲を精神だけで彷徨っていた。死んでいる間も竜には意識があったのである。何者にも干渉されず、何者にも干渉できない、竜にとって無限とも思える時間が過ぎた。
そしていよいよ必要な力が集まると、竜は二度目の人生を生きた。
その後も竜は幾度となく転生を繰り返した。死んでは生まれ、生まれては死んで、数多の生涯を全うした。度重なる人生を生きる中で、竜はそれなりに出会い、様々に経験を積み、ある程度の知恵と力を手に入れたが、人間と交わろうとはしなかった。いつも離れた場所から、気付かれぬよう手助けをしたり、ただ見ていたりするだけに留めた。
しかし竜の健気な努力も空しく、甲斐甲斐しい献身も空しく、一度目も二度目も三度目も、そして四度目も、五度目も、六度目も、七度目も、八度目も、数えることを止めたその後全ての人生も、最後には畢竟、人間の手によって締め括られた。ただ偏に恐ろしいという理由で人は竜を殺し続けた。竜は人に殺され続けた。
それでも竜は、どんな目に遭わされようとも、人間を愛さずにはいられなかったという――。
今回が何度目の転生かは最早分からない。とてつもない物語の最後に女はそう言った。
「はい、信じない」
「むう。お主、確かにその判断はお主に任せると申したが、何と言うか、風情がないのう。余韻という言葉を辞書で引いたらどうじゃ? お主は」
「こんな話に風情も余韻もあるか」
素直にそう思う。寧ろ、ご自慢の設定話に口を挟まず静かに聞き流してやったんだから感謝されてもいいくらいだろう。
全く以って馬鹿馬鹿しい。大人が、これだから最近の若者はなどと一括りに言ってしまうのも頷ける。
だがそうは言っても、収穫がまるでなかったわけでもない。彼女の妄言から、彼女の抱える問題について推察することは出来る。女の語った物語は、現実の写し鏡だ。事実を投影して、無理矢理に再構成した、作り話。だとすれば、彼女の頭の中で捻じ曲げられた真実を、懇切丁寧に紐解いて再翻訳していけば、現れるのはただの事実である。
彼女の話から余計な身を排除して、骨組みだけにすると、やはり彼女はあるコミュニティから排斥されて、現状に至るとしか考えられない。
家出なのだから、自らの意思で勝手に飛び出してきのだろうという考え方も出来るが、殺された、などという強い表現が用いられているからには、無理矢理か、それに準ずる方法で、追い出されたと考える方が自然だろう。
彼女はそうしなければならない状況に追い込まれた。詳しくは分からないが、恐らくそういうことが彼女にはあった。心理的か、或は肉体的か、どちらの方法かは分からない。しかし究極的には、どちらにしても、どちらかでしかない。
そして、あるコミュニティとは、彼女を排除したコミュニティとは、当然、家族という集団のことを示している。
――家族。
兄弟、祖父母、両親、そのいづれか。そのいづれも。経験上、子供に最も影響を及ぼすことが出来るのは、親だ。好影響も、悪影響も、子供は得てして親の影響を受ける。親という存在は子供にとってそれだけ絶大だ。
数十分に亘って語られた彼女の物語。登場人物は一匹の竜と人間たち。竜は彼女を表し、竜を殺した人間たちは、即ち彼女の苦しみの原因を表している。
身内に、家族に、親に、信じ頼るべき縁に、彼女は幾度となく苦しめられ拒絶され迫害された。
幾度となく。これもまた彼女が重ねて、それこそ幾度となく用いた単語である。それは彼女に対する何かしらの圧迫が、一時的な、突発的なものではなく、継続的で連続性のあるものであることを暗示している。
僕の推理なんて当てにはならないのだろうが、もし仮にそうだとすれば、問題の根は深い。僕如きが少し話を聞いたくらいで、楽になったり、ましてや解決したり出来るような簡単な話ではなくなる。
せめてもの救いは、彼女がまだ家族への愛情を失っていないということだろうか。竜が彼女を、人間が彼女の家族を表すとするならば、最後の言葉は、彼女を苛む者に対する慈しみを、彼女が未だ保ち続けているということを意味する。
いやこの場合、その方が悲惨なのかもしれない。何故ならそれは、彼女が問題から逃げることを望んではいないということなのだから。問題の根本を愛してしまっている以上、彼女はその問題と向き合わなければならない。逃げ道がない。選択肢は事実上一つしか残されていないのだ。
いっそ愛することを止めてしまえば、逃げ道なんていくらでもあるのに。
可哀想などとは思わないが、何もかもが憶測でしかないが、その憶測が間違っていることを、僕は願わずにいられない。
「お前、これからどうする気だ? 何があったか知らないけど、また昨日みたいに野宿するのは許さないからな」
結局僕は、彼女の口から真実を聞き出せていない。推測することしかしていない。だからこそ、どう対処するのかも決められないでいる。結局この先どうするかは、彼女次第なのだ。彼女が何も話さないからには、僕はどうこうしてやることも出来ない。
真実を聞いたところで、僕に何か出来るとも思えないけど……。
「どうしようもないの。ここに居られない以上、昨日と同じ方法を取るしかないと思っておったが、それさえも禁止されては、私にはもう思いつく手段がない」
「……そっか。分かった。じゃあやっぱ警察に行こう」
この案件は僕の手に負えるものじゃない。
初めから分かり切ってはいたが、ここにきてそれが明確になった。彼女は本当のことを何も話さなかった。話したくないから話さなかった。触れてほしくないから、話さなかった。だからもう、僕に出来ることは何もない。
警察に連れて行って、後のことは知らない。民事不介入の原則があるから、警察が何か彼女の抱える問題の解決のために動いてくれるとは思えないが、児童相談所への連絡くらいはしてくれるだろう。取るべき行動としてはそれが最善だ。他に手立てはない。
「お主がそう言うのなら、そうしよう。私としてはお主とここに居たいと思うのじゃが、お主に拒絶されては仕方がないのう。」
「……拒絶じゃねえよ」
――拒絶。
彼女のバックグラウンドについて深く考えてしまった後では、その言葉は一層重たく感じられた。まるで僕のしようとしていることが、彼女を苦しめてきたことと同じ行為であるかのように、そうすることが罪みたいに、悪みたいに、酷く咎められたかのように、僕は感じた。