<十>
吾輩は竜である。名前はまだ無い。
どこで生れたかはある程度見当がついている。何でも薄暗いじめじめした所でゴロゴロ鳴いていた事をよく憶えている。吾輩は転生したこの地で久方ぶりに人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは男子高校生という、人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この男子高校生というのは時々我々を捕つかまえて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。
などと、小説の冒頭としては日本一有名であろう作品になぞらえて始まった彼女の自分語りを、僕は食器を洗い流しながら聞き流した。流しっぱなしである。
「おい、男子高校生はそんな恐ろしい怪獣みたいな種族じゃないぞ。猫食ならまだしも、竜食って、どんな食文化だよ。書生だって最近じゃ猫も食わねーよ。そもそも書生なんて人種も今やほとんど絶滅してるよ」
自分語りといっても勿論そんな内容が自分、彼女の経歴であるはずもなく、それは彼女が長年温め続けてきた『設定』なのである。
――それにしても我とか私とか吾輩とか、一人称が安定しない奴だ。長年温めた割に設定が甘過ぎる。
「なあ、そういう仮想世界の話じゃなくて、現実的なノンフィクションの話はいつになったら聞けるんだ?」
「まあ、そうじゃろうな。私とて信じてもらえると思って話してはおらん」
頑なに強情に、女はスタンスを崩さない。こういうタイプの輩は、周りが何を指摘したところで、『ああはいはい分からないよね、分かるよー、君が分からないのも分かる、まあ仕方ないよね』などと追及をまともに受け付けない分、質が悪い。そして大概うざったい。
「せめて名前くらいは教えろよ。何だ、名前はまだないって。じゃあいつになったらあるんだ? 誰に名付けてもらうんだよ」
「それは今の状況では、お主しかおらんじゃろうのう。私もお主に付けてもらえれば言うことはないと思っておる」
――思っておるって。
「やだよ。何で自分の子供より先に知らない中学生の名付け親にならなきゃならないんだよ」
――まあ、将来子供を儲けるつもりも、気の休まるところのない結婚生活を送るつもりもないし、それが出来るともおもってはいないが……。
「良いではないかあ、名前を付けるくらい。それでお主に害が及ぶというわけでもあるまいに」
まあ今更この女相手に気を張る必要もない。僕にとってこいつはどうでも良い奴で、どう思われても良い奴で、この女の方が既に醜態を晒しっぱなしだから、こちらだけ身構え続けているのも阿呆らしいだろう。
――いや正確に言うと晒されたのは、醜態というか裸体なんだけど……。
そういう意味では、気兼ねのない相手ではある。当然のことながら、良い意味ではなく――。
「まあ害はないんだけどな」
「ならばここは一つ。一興と思って。ちゃちゃっと」
そんな宴会芸みたいな適当な感じで良いのだろうか。
――命名って、そんな半チャーハン感覚の軽い儀式だったっけ? 確かに名前なんてただのタグだとか、分かったような格好付けた小っ恥ずかしいこともいつか言ったけど。
「お前、龍なんだよな? 自称するところの」
こんな可哀想な人類の話など全く信じてはいないが、あくまで自称するところ、彼女の認識の中で彼女がどういう設定になっているかの確認する必要があった。
正式な名前でなくとも、ニックネームみたいなものなら付けてやっても、得はないが害もまたない。これから彼女の実話を引き出すに当たって、いつまでもお前では呼びにくいし、あくまで仮の名前として、あだ名を命名してやるのも確かに一興かもしれない。
ということで、彼女に即したあだ名作成のための資料として、彼女の設定を今一度確認してみたのである。
「いや、龍というより、竜という感じ、もとい、漢字かのう」
「おい待て。お前今どうやって、僕が龍という字を用いたって判読したんだよ」
音声会話なのに。
「何となく、いんとねーしょんで」
「龍も竜も発音は同じだよ!」
まさかこの女、龍と竜とで、初めの『り』の発音で、LとRを使い分けているとでも言うのか? ああ、今のは龍の方の発音ね、とか。……そんな高等技術、義務教育では習ってないぞ。
いやまあ、言うまでもなく日本語は発音に関してそんなに細かく難しく出来ていない。
「それに竜と龍の何が違うんだ? 竜は龍の略字だろ? 確か」
何せ、後生大事に育んできた設定だ。彼女も竜を自称する以上、龍ではなく竜を名乗る以上、表記に細かいケチをつけてくる以上、そこは明確なこだわりがあるのだろう。
「何と言うか、龍じゃと、中国とかアジア系の、あの長細い龍っぽいじゃろう。十二支にも出てくる辰みたいなやつ。ところが竜じゃとどうじゃ。何かたちまち西洋のドラゴン感が出てくるじゃろ。私はああいうタイプの竜なのじゃ。羽生えとるやつ。羽生のやつ」
字面で見る分にはそれ程でもないだろうが、音声だけだと何ともややこしい会話だ。油断するとどちらがどちらだか分からなくなりそうである。
――あと、最後の一言は普通に意味が分からない。
「あっそ。じゃあもう、いっそドラミちゃんとかで良いんじゃないか? ドラゴンなんだろ?要するに」
「こら、要するでない。大事なことじゃ。いっそとか言うな。それと、そのネーミングは却下じゃ。断じて却下じゃ。焼却炉行きじゃ」
「何だよ。何が気に入らないってんだ?由緒ある立派な名前だろ」
「嫌じゃ。そんないかにもフォルムが丸くて黄色そうなネーミングは。絶対活躍しないじゃろ。だってもうドラえもんいるし! 四次元ポケット二つあっても意味ないし!」
「……いやドラえもんも四次元ポケットもこの世界には存在しねえよ?」
自分のことをドラゴンとか言っちゃうくせに、藤子・F・不二雄に通じているなんて、そこは良いのだろうか。超人気タイトルならば許されるのだろうか。
「お前今、全国のドラミちゃんファンを敵に回したからな」
「全国のドラミちゃんファンなど掻き集めたところで大した数いないであろうことが、私がその名を却下する理由じゃ!」
やたらズバズバ言いやがる。ドラミちゃんに何か恨みでもあるのだろうか。
「お主。聞くが、お主よ。お主は、私ドラえもんの中でも特にドラミちゃんのファンなんです、などと言っておる頭のおかしな輩を見たことがあるのか?」
「いや見たことも聞いたこともないけど……」
そもそも誰かとドラえもん談議に花を咲かせたこともない。
だけどお前が、抜きん出て頭のおかしいお前が人様にそんな辛辣なことを言っても良いものなのか?
「そうじゃろう! ドラミちゃんの声を担当している声優でさえも、ドラミちゃんよりドラえもん派じゃろう。そもそもドラミちゃん派などと言う派閥は存在すらしないことじゃろうて」
「いやそれは知らないけど」
――ホントお前、過去にドラミちゃんと何があったんだよ、怖えーよ。熱が。殴り合いの喧嘩とかしてそうな勢いだよ。多分秘密道具でめった打ちにされたとかだな、これは。
――ビッグライトのヘッドとか、結構痛そうだもんな。
「分かった、取り敢えず名前は良いや」
僕の中で勝手にドラミちゃんって呼んでおくから、ドラミちゃん。
「それは後回しにして」
ドラミちゃん
「現住所はどこなんだ? 何も無理矢理、引張ってったりしないから本当のことを教えろよ」
ドラミちゃん。
「話はそこからだぜ」
ドラミちゃん。
「何やらさっきから物凄く不愉快なモノローグを感じるのじゃが」
「モノローグを感じるってどういう意味なんだ!?」
「フォース的な何かしらじゃ」
「お前実はただのジェダイマスターだったんだな!?」
すげえ!
……さておき、事情聴取の手始めに名前と現住所を聞き出しておこうと思ったのだが、そのどちらも彼女には明かす気がないらしい。今後の対応を決めるに当たって、せめて住所くらいは把握しておきたかったのだが、致し方ない。何せ個人情報である。教えたくないものを無理矢理に聞き出すのは彼女を無事に処置する方法として好ましくはないだろう。
今更この女なんぞの個人情報保護を気に掛けてやる必要性も感じなくなってきてはいるものの、そこは良識ある男子高校生として、守るべきだ。特にこういう手合いに関しては、聞いて良い事と悪い事というものがある。
相手は家出少女なのだ。神待ちなのだ。繊細な部分に触れてしまったら、何をされるかわかったものじゃない。
繊細なんて繊細な言葉、こいつには全く似合わないんだけど……。
しかし、家出という一般的な考えからしてみれば、相当な一大決心をしなければ出来ない行動をしてここにこうしている以上、彼女の精神は何らかの圧力を受けているはずなのだ。
でなければ、暗い神社の階段に座って夜を明かすなどという、異常とも言える行動をとるはずがない。少なくとも何の理由もなしに、こんなおかしな振る舞いはしないはずだ。
僕の乏しい想像力では、家庭か或は交友関係に不和が生じて居場所を失ったということくらいしか思いつかないが、何にせよ環境に敏感な思春期の女の子に、ある種常軌を逸した行動をさせてしまうような要因が生じているのは間違いないだろう。
だから僕が聞くべきは、その何かしらの要因、彼女を今の彼女たらしめている問題について、なのだ。
何も聞かずに、彼女と彼女の周辺で起こっている事情について聞かずに、そのまま警察へ連れていくという選択は、彼女を再び、今度は自らの意思で家に招いた時点で、既に排除されている。
今朝僕は、そういう決断をしたのだ。そういう覚悟を決めたのだ。一緒に過ごした時間が楽しかったからという、そんなどうしようもなく些細な理由で。
破ってはならない禁を破って、彼女の色気も何もあったものではない誘惑に、僕はとうとう屈してしまったのだ。
「もう名前も住所も良いから、じゃあ何でお前は家出なんてしてんだ? その理由くらい話してくれよ。じゃなきゃ、わざわざお前を僕の家で待たせた意味がない」
食後の片付けを終えて、もう一度女の正面に腰かける。彼女の事情を聴き出すために、文字通り本腰を入れる。
「話してもお主はどうせ信じぬのじゃろう?」
「それは内容による」
「そうか? では私は話すだけ話して、後の判断はお主に任せるとしよう」
まあ良い。幸いにして今日はまだ時間がある。ゆっくりと時間を掛けて、少しずつ外堀から埋めていけば、いつかは本丸に辿り着くだろう。話している内に見えてくるものもあるかもしれない。
フィクションはいつだって、ノンフィクションに着想を得ているのだから。
仮想は所詮、現実の延長でしかないのだから。
「尤も、余り気乗りする話ではないのじゃがの。聞く方にとってみれば、苦々しい、つまらない話ではあるのじゃろうが、の」
こうして、彼女の根も葉もない、聞くも語るも恥ずかしい、過去語りは語られ始めたのである。