<九>
帰宅した僕を待ち受けていたのは、裏切りだった。その裏切りが僕の名前を知っているかどうかは定かでないが、僕はその裏切りの名前を知っている。
……なんて、まあただ言ってみたかっただけなんだけど。
「お帰り。お主」
城主の帰還を知らせる声に、女はドアから飛び出さんばかりに応えた。どうやら僕の言いつけを守ってくれていたらしく、鍵はしっかりと閉ざされていた。
「……ただいま……ってお前、何故洗濯物を取り込んでいる!?」
女は籠一杯に洗濯物を入れて、どこから引っ張り出してきたのか分からない、と言うか本当に僕の所有物なのかも怪しい白の三角巾を被っている。
「今日は天気が良かったからのう。洗濯物もよく乾いたわい」
いや、そもそも何故洗濯物が干してあったのかを僕は先に聞くべきだった。確かに今日は初夏を思わせる絶好の洗濯日和だったが、寝坊した僕は今朝洗濯物を干すことが出来なかったのである。
その、洗濯機の中で腐敗していくはずだったシャツやら手拭いやら下着やらの洗濯物たちが、見ず知らずとは言い難くなりつつある女によって、カラッカラに干され、取り込まれていた。
「朝会った時慌てていたようじゃったからのう。もしやと思い、覗いてみたのじゃ。……余計なことじゃったかのう?」
叱られるのを恐れる子供みたいに不安そうに、女は尋ねる。
「あー、いや。助かった、正直。有難う」
僕の予想を裏切って、僕の不安を裏切って、女は問題を起こすどころか、問題を片付けてくれていた。
許可されていないものに触るなと命じはしたものの、偽らざる気持ちとしてそこは感謝しなければならない。
「そうか。うむ、ならば良かった」
脱衣所で制服からラフな部屋着に着替え、顔を洗った僕は、先に洗濯物を畳み始めていた女に合流する。
一人暮らしということもあって、尚且つ学校以外ほとんど外出しないということもあって、我が家の洗濯物の量はさして多くはない。この時期ならまだ、夜風呂に入るまでは制服で過ごしてしまうことが多いし、今日のように少々暑い日でも、制服から着替えた部屋着をそのまま寝巻に流用してしまうため洗濯物の発生頻度は高くないのだ。
当然、洗濯機も毎日回すわけではない。二日連続で体操着を使わなければならない時など、どうしてもという場合でなければ、天気と相談してではあるが、洗濯は二日か三日に一度程度である。
「別にこれくらい手伝わなくていいぞ? ていうか、男物の下着なんて触りたくないーとか、お父さんのと一緒に洗濯しないでーとか、そういう全うな女子的感性はないのか? ちみには」
「あると思うてか?」
「……いや全く」
言うまでもなく、洗濯物を干す際彼女は既に僕のパンツに触れている。こうしてカッピカピに乾いてしまっている以上、それは揺るがぬ事実だ。
三角巾なんて被って男の下着を干すような女の姿を世間様が見たらきっと、ああ通い妻か、なと邪推するのだろう。
またその頭に乗っかった三角形が似合っているのが心憎いところなのだ。いまいち、ツッコむにツッコみ辛い。
「お前、何でそんな甲斐甲斐しい感じになってんだよ」
女はさも健気に、僕の横で洗濯物をせっせか畳み続け、これもまた彼女によって気持ちよく乾かされたベッド上のタオルケットの上に山を築いてゆく。ペースこそ劣るが、不器用なりに丁寧な仕事ぶりである。
「じゃって、着る物を貰って、ご飯も御馳走になって、風呂にも入れてくれて、休息も与えてくれたとあっては、それは恩義を返さねばならんじゃろう? それで全て返せるとも思えぬが、洗濯を手伝ったり、部屋を少々綺麗にしたりする程度の事をしてやるのは当然じゃ」
言われてみれば、部屋もいくらか片付けられている。週に一度の掃除まで、この女は肩代わりしてくれたようである。
何と言うことだろう。これで、今週の週末はいよいよすることがなくなった。この女、僕を改造して駄目人間にでもする気なのだろうか。
改造人間駄目人間。語呂は良いが、語呂以外の全てが壊滅的に駄目過ぎる。
「飯は食べたのか?」
「いや、食べとらん」
「何だ。沢庵と梅干だけじゃ不服だとでも言いたいのか? お前それでも日本人かよ。非国民め」
「お主が言ったのではないか、人間。お主が、私と食べた方が楽しいと、美味しいと、言ったのではなかったのか? お徳用じゃと」
「や、僕にとってはそうだけど」
などと、簡単に口走ってしまってはいるが、思えば僕は何故そんな小っ恥ずかしいことを言ってしまったのだろうか。いくら急いでいたとはいえ、この変態女相手に、どんな気の迷いがあったというのだろうか。少し時間を掛けて考えれば、あと幾らかはましな方法も思い付いただろうに。もう少しましな説得が、できただろうに。
「……僕にとってはそうだけど、別にお前までそれに付き合わなくても良いだろ」
「何を言っておる。食事というのは、誰にとっても、誰かと一緒に食べた方が美味いに決まっておろう。何もお主だけ特別ということではない。自惚れるでないわい」
別に自惚れていたわけでもなかったのだが、そうか、普通はそういうものか。ご飯は一人で食べるより誰かと一緒に食べた方が美味しいなんて話を聞いたことがあるが、実際に現実としてそう感じる人間もいるのか。
――完全にフィクションだと思ってた。
「じゃあお前は、僕が帰ってくるのを待っていたのか? 腹を空かせて。」
食いしん坊の卑しんぼのくせに。
「うむ」
「うむって。……僕、昼は食べてきたんだけど」
「分かっておる」
「夜までにはまだ時間があるんだけど」
「そんなことは見れば分かる」
腕組みをして不服の意を示す女。
現在時刻は四時過ぎ。いつもなら、アンバランスな二人組が活躍する刑事ドラマの再放送を見ている時間だ。夕食までは、まだ三時間ほどある。
「今日は飯を所望しないのか?」
「侮るなよ、人間。流石に二日続けて人様のボロアパートに上がり込んで食料を寄越せ、などと言えるほど、私ははしたなくないわい」
じゅるじゅるじゅるり
……発言と効果音がいまいち噛み合わない女だった。
あとついでみたいに人の住居を小馬鹿にするな。
「今作ってやるからちょっと待ってろよ」
「良いのかっ! 良いのかっ!」
今まで見てきたどんな人類よりも、もしかしたらどんな哺乳類よりもはしたなかった。今にも飽和しそうなくらい口一杯に唾液を溜め込んで、ゴールデンレトリバーでももう少しは行儀良く待てそうなものである。
「その代わり、飯食ったらちゃんとお前の事話すんだからな? その上で僕の手におえない場合は警察に連れて行く」
「わかっておる。何でもする、何でもするから、早う! 早う頼む、人間。私はもう我慢ならん」
「うわあ、見境ねぇー」
見境もなければ、みっともない。
さっきから何の音かと不思議には思っていたが、グウグウぐるぐるギュルギュル鳴っていたのは女の腹の虫が鳴いている音のようだった。断食している時間を考えれば生理現象としてそれは無理もないことだが、ある程度の年齢に達している女が、お腹を鳴らしまくっているのを見ると、その音を聞いていると、恥ずかしい気持ちにさせられる。何か聞いてはいけないものを聞いてしまったような背徳感というか、気恥ずかしさに見舞われてしまうのである。
「して、人間よ。今日の献立は何なのじゃ?」
そんなことは意にも介していない様子の女は、尚も腹でやかましく鳴きながら狭い厨房へと押し入ってきた。
お腹の鳴る音なんて、精々隣の席くらいの距離にしか届かないものだとばかり思っていたが、女のそれはもう、騒音の域に達している。デシベルで言うと、多分七十デシベルくらいだろう。
条例違反になっていないかが心配だ。
「お前今、口で喋ってるよな? 腹で喋ってないよな?」
「腹で喋るわけなかろう。へそで茶を沸かすというならまだしも」
「いや、そのまだしも、全然意味わかんないから」
「良いからっ、腹だろうとへそだろうと、茶だろうとコーンスープだろうと、そんなことはどうでも良いんじゃ。私は今日の献立を尋ねたはずじゃぞ、人間」
だが、当然のことながら僕は彼女のその質問に答えたくはないのだ。結果的に、僕が彼女の言いなりになったみたいで、僕が彼女のためを思って帰り道の精肉店で買い物をしたみたいで、納得がいかないのである。
そんなこと、全然ないのに。
「……ステーキ」
全く以って釈然としない。すっきりしない。夕飯の楽しみも半減だ。
だってそれは、今日の献立は図らずも、昨晩彼女が別れ際に、図々しくも要求したメニューなのだから。
「ステーキ! お主、まさか私のために!?」
「断じて違うから目を輝かせるな。あと、ステーキっつっても、豚テキだからな」
言わずもがな、この女のためではない。商店街の精肉店で豚のロース肉を大安売りしていたのが目に入ったので、これは家計を救う絶好の機会だということで、思わず飛びついてしまっただけのことだ。邪推はよして頂きたい。
豚ロースでグラム四十円って、価格破壊かよ! と、気付いた頃には英世さんを生贄に捧げていた。だから、そう言えばあいつがステーキ食べたいとか言ってたなあ、なんて回想シーンは一切発生しなかったのである。
「私に何か手伝えることはあるかのう?」
「え、お前滅茶苦茶不器用じゃん。料理経験とかあるのか?」
「あると思うてか?」
「その返し、何か腹立つから止めろ。そしてないのかよ。だったら大人しくテレビでも見てろよ。大人しく我が家の電気を消費して相棒でも見てろよ」
――僕が見たかったやつ。
「何事も初めは経験じゃ。私にも手伝わせておくれよ、お主」
僕の皮肉なんかまるで無視して、本能に忠実に願望を突き付ける女だった。
「その経験、今じゃなきゃ駄目なのか?よりにもよって、知らない男の家で積むべき経験か?」
「洗濯物だって掃除だって、私にとっては初めてじゃったが、上手く出来たじゃろう? じゃから、料理もきっと上手く出来ると思うんじゃ」
ああ分かった。こいつ会話する気がまるでない。決定事項が先にあって、会話はその決定に進むための通過儀礼でしかないのだ。
ともあれその歳で掃除も洗濯物も初体験とか、お前はどこのお嬢様だ、と言いたいところだが、確かにそして意外なことに、どちらの仕事も上出来だったことは否めない。洗濯物についてはまず何よりも、よく気付いてくれたし、掃除に関して言えば部屋の隅々まで入念に掃除機をかけてくれたようだった。
ゴミ屋敷化防止のため、物量の少ない僕の部屋ではあるが、ベッドやテーブルを移動させて掃除機をかけるのは、彼女の細腕には結構な重労働だったはずである。
まあ、これだけの施しを受けている以上、その程度の労働は当然だろうとも思う。僕だったら、などとたらればの話をしても仕方ないのだろうが、と言うか僕ならそんな施しを受ける状態になど絶対に陥らないのだろうが、それでも敢えて自分が同じ立場だった時のことを考えれば、彼女の振る舞いは頷けなくもない。
――それが異性じゃなかったらだけど。
「分かった。じゃあ、取り敢えず、そこのジャガと人参を洗ってくれよ。人参が先な。野菜スープ作るから。洗剤使って洗うような使い古しのボケはするなよ」
「私を馬鹿にするでない」
別に馬鹿にしてはいない。
――だってお前、もう馬鹿なんだもん。既に馬鹿になっているから、馬鹿にしようがない。悲しいかな、僕はお前を馬鹿にしてやれない。
野菜スープの具は、彼女に任せたジャガイモと人参、昨日残ったキャベツ、同じく玉葱、出汁としてベーコン一かけくらいだろう。野菜が柔らかくなるまで時間が掛かるので、こちらから取り掛からなければならない。
家事然り、料理然り、何事にも手順というのは重要である。
全く主婦というのは偉大な生き物だ。即断即決、当意即妙、臨機応変、瞬時に完璧なタイムテーブルを脳内に構築してしまう。僕のような素人ではまだまだ及びもつかないが、そういった感覚に近いものが、この一年の研修でようやく感じるようになってきた。
女が芋と人参を洗浄している間に、適当な量の水を鍋に張り火にかける。次いで、洗い終わった人参の皮を包丁で剥いていく。
そうして下処理をした人参を小さく短冊切りにして、鍋へと投入。野菜スープなどに入っている野菜はトロトロになるまで柔らかくする派なので、硬い人参は早めに火にかけておかなければならない。
今の状況、鼻歌と腹歌で一人コーラスしている、何故かご機嫌そうな彼女の腹の具合を考えれると、そう時間をかけてもいられないので、普段より小さめにカットされた野菜を、次から次に鍋へと放り込む。人参の次はジャガイモ。これも小さめに切って投入。玉葱は千切りにして投入。火の通り易いキャベツはざく切りで投入。ベーコンも適度に細かく刻んで投入。
コンソメスープの素というこれまた便利調味料を溶かして、最後に塩で味を調整する。後は蓋をして他の料理を作っている間に煮込む。これで一品は概ね完成である。
野菜の下処理を分担したためか、ここまではいつもより順調だ。
「さて」
と、いよいよ本日のメインディッシュへと取り掛かろう。まずは下味。
「お主」
「何?」
僕は今忙しいんだが。主にお前のせいで忙しいんだが。多忙も多忙、超多忙。夕方からこんなことをさせられて、本当は相棒、見たかったんだけど、陣川君の回。
「手持ち無沙汰じゃ」
……ふむ。さてどうしたものか。ここでこいつに構ってやる暇は普通ならないんだけど。
――確か冷蔵庫にトマトがあった。豚の付け合わせとしてその他にもう一品あっても良いか。やる気だけは無駄にあるみたいだし、僕が豚を調理している間、この女に何か簡単な作業をしてもらうのも悪くはない。野菜を煮込む時間も稼げることだし。
「アスパラのソテー」
冷蔵庫の内容物を思い返した結果、簡単に出来そうなメニューは即座に決まった。僕の修行の成果と言って良いだろう。
「ほう! ソテーとな。何と心地良い響きじゃ」
「よだれ垂らしてないで、野菜室に入ってるから持ってこい」
「……おう、アスパラよ。こやつじゃな」
従順にアスパラの束を取り出す助手君。
「昨日買ったやつだけど、早く食べちゃった方が良いよなあ。冷凍すんのも面倒だし。あっ、豚のたれも作った方が良いか。せっかくだし」
工程変更。
アスパラの味付けはバターと塩で薄めにしといて、そのソースに付けて食べるか。なら先にソースだよな。
「僕はアスパラの下処理するから、お前は野菜スープの鍋を奥のコンロに移してくれ。スイッチはその左側の奴だから」
「相分かった」
一人用の部屋にしては珍しいのかどうなのか、我が家のキッチンには、奥に一つ手前に二つと、五徳が三つ並んでいる。勿論、五徳だけが独立して置いてあるわけではなく、つまり一度に使える火が三つあるのだ。
滅多に使うことのない三つ目の炉も、今日は久々の出番である。
そういえばこのキッチンにはグリルもついてるし、一人用の部屋としては設備が充実しているのかもな。今までそんなこと、気にも留めなかったけど。
「あちち」
女が危なっかしく鍋を移したころにはアスパラの下処理も終了。他の野菜とは違って、こちらは外皮を全て剥ぎ取る必要がないのでまだ簡単だ。
「包丁、使ってみるか? 僕はソース作るから」
「良いのか? 私は包丁など、持ったこともないのじゃぞ?」
「まあ、三つに切るだけだから大丈夫だろ」
本当は怖いけど。不審者に凶器を渡すなんて、本当は超絶怖いけど、なんかこの女なら丸腰でも勝てそうなので、大丈夫。
「そうか。うむ。やってみよう。何事も経験じゃ」
と、女は僕の使っていた包丁を手に取る。
「……おい。何故包丁を逆手に持つ。そうなってくると、恐怖が現実味を帯びてくるぞ」
こいつは僕の作業を見ていなかったのだろうか。と言うか、包丁を持ったことがないのはまだしも、包丁を使って調理しているのを見たことがないなんてことは有り得ないだろう。普通に考えて。
どんな観察眼をしているんだ、この女は。
「違ったかのう」
「違う。それは人の心臓に突き立てる時の持ち方だ」
全くお前は、相棒も見たことがないのか。勉強が足りないな。冷凍イカが凶器になることとか、あれは意外と勉強になるんだぞ。
何の勉強かは分からないけど。
「ほれ、こう持つんだよ」
僕も誰かに教わったわけではないが、常識的に逆手で持たないことくらいは知っている。刃物を逆手で持つのなんて、僕の知る限り人殺しか忍者くらいのものだ。
「もう少し根元を持たないと力が入らないだろ。危ねえよ」
「ふむふむ」
「それでこう」
僕の場合、人差し指を峰の方に当てるようにしている。
「これで良いか?」
「うん。それで三等分くらい。刃を当てて前に押せば切れるから。力入れ過ぎんなよ。余計危ないからな」
「……ふふっ」
至近距離で僕の方を見つめる、瞳のやたら綺麗な女が、少し驚いたような顔をした後、不意に笑う。
僕は素直に、見てんじゃねえよ、と思った。
「何だよ。僕にはお前に笑われるような筋合いはなかったはずだぞ? 僕がお前を嘲笑う筋合いと権利はあるけど」
「いや、お主は存外心配性じゃなあと、思っての」
尚もニヤニヤを止めない女。
こういう顔をするから、憎めない奴である。いや、もしかしたらそう思わせることがこいつの手口なのかもしれないから、油断は禁物なのだが、どうもこの女、胡散臭さはあっても嘘臭さがない。
自慢するほど人を見る目に自信があるわけではないが、この笑った顔が嘘ではないということは分かる。いや、もしこの笑顔が嘘ならば、こいつはもう僕の手には負えない大物詐欺師だろうから、どちらにせよ考えても意味がない。どっちに転んだところで、だから僕に勝ち目はない。
「当たり前だろ。我が家のキッチンで人体切断事件が発生したらもう住めなくなるからな。割と本気で」
「いやいや、人間よ。お主、今朝もやたらと心配しておったぞ? ちゃんと風呂に入って百まで数えよだとか、きちんと食事を摂れだとか。余程私のことが心配と見える」
「そりゃ心配だろ。お前みたいな奴を僕不在の僕の部屋に招くってんだからな。お前じゃなくて、部屋に、自分自身に害が及ばないかを僕は心配してんだ。自惚れんな」
こいつを心配したことなんて一度だってありはしない。僕はいつだって自分の心配をしている。もし僕が誰かを心配しているように見えたなら、それは間接的に僕自身が不利益を被るのを心配しているのだ。誰かのためだなんて、とんでもない。そんな偽善は、この僕に限っては有り得ない。
「それでも受け手の私が心配されておるように感じたのじゃ。言葉や態度というのは、受け止め方次第じゃ。いくら発信者とて、その領域に踏み込むことは適わぬ。故に、私がお主の心配を嬉しいと感じるのも、また自由なのじゃ」
分からなくもない。と言うより、それは分かる。ある意味では常識だ。
例えば、同じ本を読んだ感想が人によって違うのはそういうことである。読む人によって何を感じるかは異なる。それは創作の一種の本質であり、醍醐味でもある。
だからと言って、勝手過ぎる解釈は困ったものだけど。世の中ではそういう身勝手な解釈のことを、勘違いと言うのだ。
勘違いしないでよねっ! だ。
……あれ? 違った。それでは僕が完全に彼女を心底案じているツンデレになってしまう。ツンデレ(男子高校生)などという需要のない属性にコンバートしてしまうところだった。
――あっぶな! 人生一寸先は闇か。
「何じゃ、お主。まさかその目は、私に今すぐ襲い掛かりたいという目じゃなっ!」
――じゃなじゃない。
「どんな解釈だよ。どんな曲解だよ。いくらなんでも限度があるよ! 今の目は、こいつ今すぐ警察に突き出してえ、の目だよ」
「つまり、することはした後で、そこは潔く神妙にお縄に着くということなのじゃな!?この鬼畜外道めが!」
「お前の自由は自由過ぎる!」
――完全な自由って秩序がないってことだからな? このカオスめ。この混沌の変態娘め。抓み出すぞ。
「良いから、早く切れよそのアスパラ。腹減ってんじゃねえのかよ」
下らない会話をしている間に、ソースは既に完成している。と言っても市販の中濃ソースとウスターソースをベースに、チューブに入っているおろし大蒜、砂糖、トマトケチャップ、オイスターソース、最後に味噌と醤油を少しだけ加えて加熱しただけのものだから、大した手間ではない。
「じゃから、そういう台詞に心憎い気遣いを感じると、言っておるのじゃ。お主今、私の腹の具合を案じるようなことを言ったのじゃぞ? さりげなく。そういう台詞が無意識に出てくる辺り、お主は見込みがあると私は思うのじゃあ」
「お前に見込まれても、僕には何の得もないんだけど。それともお前は、雑誌とかテレビとかのスカウトか何かなのか?」
「そういう輩がお主を訪ねてくる日も案外近いかもしれんのう」
「茶化すな。仮にそんな奴らが来たとしても、僕はお前という失敗の反省を活かして居留守を決め込むね。物音ひとつ立てないね。狸寝入りだね」
まあ来ないけど。だって外出しないから。まずスカウトに出会う機会がない。スカウターに捉えられなければ、戦闘力も測れないのと同じだ。
捉えられたところで、僕など戦闘力五のゴミなんだろうけど。
「ほら、猫の手」
「にゃおん」
……ノーコメントで。ここは断じてノーコメントを貫かせてもらう。
――そしてこっち見んな。上目遣いを止めろ。僕には通じないぞ、そんな丸見えの媚びは。
「どうじゃった?」
「コメントを求めるな」
「可愛かった? 萌えたか?」
「燃えてしまえ。どこかここじゃない場所で」
「つれない人間じゃ」
「お前なんぞにつられてたまるか。そして早く切れ。お前がやらないなら僕がやっちまうぞ」
いい加減、俎板の上で待っているアスパラガスたちも不憫になってきた。やるなら一思いにやってくれという悲鳴が聞こえてきそうだ。
「それはならん。私がやる。お主はそこで心配そうに見ておれ」
正しい、のかは僕も自信がないが、僕と同じ持ち方で、女がアスパラに刃を入れる。覚束ない手つきでゆっくりと、初めの一太刀が四本のアスパラを三分の一の大きさに切断する。
「出来たあ!」
そりゃあ出来るだろう。中学生なんだから!
家で料理をする機会がなくとも調理実習は小学校の家庭科の必修授業だったはずだ。野菜が切れたからといって、そんなに喜ぶようなことじゃない。そんな風に目をキラキラさせるような大したことじゃない。
「はいはい、良く出来ました」
同じように残った長い方を今度は等分にして満足げな顔をする女に、皮肉ったらしい労いの言葉を掛ける。
「うむ! ありがとう、お主!」
――馬鹿にするつもりで言ったんだけど……。
特徴的な八重歯を見せつけて、無垢というより無防備な、とびっきりの笑い顔を作る女。
……そうだった、こいつもう馬鹿なんだった。僕が馬鹿にするまでもなく馬鹿なんだった。短い台詞の中でびっくりマーク、正式名称エクスクラメーションマークを二つも使っちゃうくらいご機嫌な馬鹿なんだった。
……何はともあれ、これでようやく次に進める
熱した小さめのフライパンにバターを入れて溶かす。全体に行き渡ったところで、アスパラガスを焼く。芯まで熱が入るまで、暫し待つ。
「お前、焦げないように見ててくれ」
「任せよ」
付け合わせを助手に任せて、今度は豚に下味をつける。まずは肉に浅く切れ込みを入れておく。ソースが濃いめだから、下味は薄め。塩と胡椒だけを軽く振る。両面に衣となる小麦粉を薄くまぶして準備完了。
「そこの棚に丁度いい皿があると思うから、取ってくれるか。火はもう良いから。丸いやつな」
「うむ。……えーと、これか?」
「そうそれ、置いといて」
焼き目の付いたアスパラをひっくり返す。良い塩梅だ。バターの香りが立ち込めて、これに醤油をかけただけでもかなりいけるだろう。今の時期、アスパラガスは旬だと聞く。付け合わせに甘んじさせておくのは少々勿体ない気もする。
しかしやはり今日の主役は肉。
ソースの入った小鍋を脇にどかして大きめのフライパンを熱する。油を敷いて、ロース肉を二枚、フライパンの上に並べれば、みんな大好き、じゅうじゅうと肉の焼ける音が狭いキッチンにこだまする。
だがまだ油断はできない。奥のコンロで煮込んでいた野菜スープの味見をして、最終調整をしなければならないし、アスパラももうそろそろ良い頃合いだろう。ロースは火を入れ過ぎると硬くなってしまうらしいので、そのタイミングも見逃せない。
「アスパラ、火からあげて皿に盛り付けてくれ」
「アイアイサ―!」
うるさいけど、便利な部下である。
「味見味見」
「あー、お主だけ先にずるい!」
「うるさい。お前が美味い飯を食うためにも必要な工程なんだよ、これはって美味いなあ! これえ! びっくりだよ!」
びっくりしてエクスクラメーションマーク三つ使っちゃったよ!
これが、野菜の旨み。ずぶの素人の僕が適当に作ったスープでさえこんなに美味いってことは、一流シェフとかが作ったらどうなるんだ!? おいおい、最悪地球滅ぶだろ! これはあ。
「ずるいっ、ずるいっ! お主っ、お主っ! 私も!」
お前は犬か。
「待て。待てばちゃんと食わせてやるから今は待て。僕だってこの感動を誰かと共有したい気持ちはある。正直。だから安心して待ってろ。丁度、肉をひっくり返す時間だから。お前は出来立てほやほやを食べられるよう、お膳拭いて、箸と茶碗とカップを用意」
「ずるい」
しゅんとなりながらも僕の命令に従って、女は乾燥棚に置きっぱなしだった茶碗二つと箸二膳を取り出す。
その様子を目の端に捉えつつ、火を弱めて豚肉を裏返す。
「よし」
後は待つだけ。
と、一息ついたところで――
「おい。お前も味見してみろよ。僕の好みとお前の好みとじゃ違うかもしれないからな」
味見用の器にスープの上澄みをお玉で少しだけすくって注ぐ。
「良いのか?」
「僕の味見した皿で良いんならな」
「良い! 当然良い!」
――良いのかよ。因みに僕はお前が口を付けた皿は嫌だぞ。
――警戒心がねえなあー。
不審者だからって、何かの被害に遭わないとも限らないというのに、被害者が加害者になることがあるように、加害者が被害者になるということも往々にしてあるというのに。この少女からは、まるでその手の感情が抜け落ちているかのようである。
「美味しい」
静かに女はそう言った。
「温かいのう。のう! お主よ」
「そりゃスープなんだから温かいに決まってんだろ」
冷製スープという概念もあるらしいが、それはまだ僕の腕前で手を出すには些かハードルが高い気がするので、僕にとってのスープは常に温かいもののことを指す。
「そりゃそうじゃが。しかし、いやしかし美味いのぉー」
しみじみと、といった感じだろうか。
女が味見を味わっている隙に、トマトを水ですすいで六等分にする。アスパラの横に盛り付ければ、残すはメインの完成を待つのみだ。
「そろそろ良い感じだな」
実はトンテキというレシピに挑んだのは今回が初なので、正しいトンテキというのがどういうものなのかを僕はよく知らない。ただ単に、豚のステーキだからトンテキだろうと、勝手に思っているだけで、本物のトンテキには何か条件みたいなものがあって、明確な分類があるのかもしれないし、ないのかもしれない。
だから作ったソースは、後からかけるものなのか、それとも肉と一緒にフライパンで熱するものなのか、僕には判断がつかない。今回失敗があったとすれば、そのことについて事前に調査しなかったことだ。
まあ、後悔は先に立たないので、それはそれとして反省材料にして、今回は後者の手法を採用しようと思う。
丁度ソースも出来上がってから時間が経って、冷め始めているので、再加熱の意味も込めて、僕は小さなフライパンから大きなフライパンへとソースを流し込んだ。
肉が焼けるのとはまた違った、心地の良いソースの焦げる音と、匂いが瞬く間に広がる。
「皿とって。一枚ずつで良いからな」
焦げやすい砂糖が含まれるソース。完全に焦げてしまっては台無しなので、軽く火が通ったらすぐに盛り付け。
「よし、完成」
「ごくろうさまじゃ。早く食べよう、お主」
僕がスープをよそい、女はご飯をよそう。最後に湯呑を二つ卓に持って行って、さてそれではいよいよ待ちに待ったディナーの始まりである。
作りながら食欲をそそられ続けた僕も、まだ六時前だというのに腹の虫が騒ぎ始めている。
「お主っ、お主っ」
昨日と同じ、対面、テレビとテーブルの間に落ち着きなく座る女が僕を急かす。
右手の窓から差し込む日没寸前の陽光と、正面に座する女、並べられた料理たち。来る日も来る日も同じような毎日を過ごしてきた僕にとって、それは新鮮な光景だった。
僕にとっての夕食とは、暗くなってから面白くもないテレビ番組を眺めて、一人黙々と食べ進めるもので、感情の起伏が発生する行事ではないのである。強いてあげるなら、食べた後の片付けが面倒だな、と感じるくらいだ。
「ああ。早く食べよう」
「では、手を合わせて。頂きますっ!」
「頂きますっ」
しかし、どうやら今日に限っては、そうでもないらしい。