高嶺の花の落とし方、またの名をーー。
こちらの話はひろたひかる様主催「くるシチュ企画」参加作品です。
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篠宮葵は男の理想の権化のような女だ。
背はちっこくて、ちょこんとした外見。足首は細く、俺の手のひらで軽く掴めそうなほど。細い足首の上には適度に肉がついた華奢な足と、小振りな尻が乗っていて、全体的にこじんまりとした庇護欲をくすぐる体つきだ。
だが、キュッとしまったウエストのすぐ上は、線の細さに反するような豊かな二つの膨らみに覆われていて、そのギャップの激しさにますます男は惹かれてしまう。
顔はまるで綿菓子のようにふんわりした甘いベビーフェイスで、誰に対してもいつもニコニコと柔らかい笑顔で話す。
薄ピンクの艶々とした唇から、ちょっと舌足らずな声で「おはようございます」とか恥じらうように話しかけられたら、俺でなくても誰でも彼女に参ってしまうだろう。
「おはようございます、片桐さん」
「は、はよ……」
今日も俺は彼女を前にして赤面するばかりで、アホ面晒してまともに返事も出来なかった。
篠宮葵はそんな俺をクスッとはにかむような笑顔で見上げ、足早に更衣室の方へと去って行く。
途中で先に出勤していた同僚達に捕まり、その度ごとに彼女は、弾けるような笑顔で挨拶を交わしていた。
そう、篠宮葵が魅力的な笑顔で話しかけるのは、なにも俺に限ったことじゃなかった。彼女は社の奴ら全員に、公平に、天使のごとき笑みで接するんだ。
男は誰もが彼女の虜になってしまい、姿が消えたあとも鼻の下を伸ばして、名残惜しげにいつまでも見送ってしまう。まさに今、彼女の後ろ姿をぼーっと見つめている、俺の目の前にいるあいつのようにね。
いや、男だけじゃないか。
篠宮葵は、女同士のドロドロとした人間関係さえ無縁の人気者だ。彼女の魅力は男女どちらも惹きつけてしまう、不思議なものだったのである。
「幸平くん、ちょっと来てくれる?」
始業ベルが鳴ってしばらくすると、俺は二年先輩の坂下留美に呼ばれた。
彼女は俺が新人だった頃に教育係だった人で、正直今でも頭が上がらない。
「は、はい。何ですか?」
仕事に手を着けてすぐだったが、俺は声のした方を向いた。
坂下留美はフロアの隅にあるコピー機のところから、小さく手を振って俺を呼んでいる。
「ど、どうしたんですか……?」
渋々近づいて行くと、彼女は天井の隅を指差して、「あれあれ、あれをやっつけてよ」と強引に腕を引っ張ってきた。
見ると天井の隅には、そこそこ年期のいった蜘蛛の巣と、その巣の主らしい一センチ少々ほどの蜘蛛がちょこんといるのが見えた。
「あの蜘蛛が怖いの。気になってコピーが取れないのよ」
坂下留美はわざとらしい程に身をよじって、俺の背中から蜘蛛を睨みつけている。
あ、あんなちっこいのを怖がるタマか?
ーーそう思ったが顔には出さない。
「幸平くん、背が高いでしょ? 私さあ、蜘蛛って苦手なのよね」
坂下留美は準備がいいことに、用具入れから出してきたらしい箒を俺に渡し、ホレホレと壁にグイグイ押しやってくる。
ちっこい蜘蛛相手に何を必死になってんだか……。そう思わなくもないが俺は箒で蜘蛛と巣を落とし、彼女が用意したティッシュに繰るんで窓の外に中身を逃がしてやった。
「頼りになるわ〜、幸平くん」
ご満悦の彼女には、やれゴキブリが出たとか、ナメクジが出たとか、毎度毎度いいように使われていて、こっちも慣れきっている。
悲しいことに俺の利用価値なんて、この少しばかり高い身長にしかないからだ。あとは気が弱くて優柔不断なために、嫌なこともはっきりとは断れないしょうもない性格と、いまいちパッとしない顔、つまりは女にまるで縁がない。
だから、たとえ顎で使われるだけだとしても、女の子から声をかけられたら頑張るしかないでしょう。いや、坂下留美が女の子かどうかは別として……。
「片桐さん、ありがとうございます」
その時、俺に天使が微笑みかけてきた。
篠宮葵は柔らかそうなほっぺを丸めて、恥ずかしそうに俯きながら、淹れ立てのお茶を持って立っていた。
「あの蜘蛛には皆が困ってたんです。たまにコピー機の近くまで降りてきて、私達その度にビクビクしちゃって」
同じようなこと言ってるのに、篠宮葵と坂下留美ではどうしてこんなに違って聞こえるんだ?
篠宮葵が小さな蜘蛛に怯える図は、何の苦労をしなくてもいとも簡単に想像がつく。
「片桐さんは私達女子の大きな味方です。いつもいつも、本当にありがとうございます。あの……良かったらお茶をどうぞ」
天使が差し出してきた、まるで褒美のようなお茶を、俺は上擦った声で受け取ろうとした。
「あ、ありがーー」
「サンキュー。これ、葵ちゃんが淹れてくれたお茶?」
く、くそう。俺と天使が会話をする貴重な時間を、坂下留美は遠慮もなく奪っていきやがる。
「は、はい。坂下さんのもありますよ。これをどうぞ」
篠宮葵は図々しい坂下留美にも、にこやかにお茶を渡していた。マジで天使。
「んっ、美味しい。さっすが葵ちゃん。私の好みをよく分かってる〜。もー、お嫁さんにしたいくらいっ!!」
「任せてください。うちのフロアの皆さんの好みは、バッチリ把握しています!」
坂下留美の馬鹿らしい戯れ言にも、天使は健気に受け答えをする。
だが、俺だって鬼じゃない。坂下留美が思わず馬鹿を言いたくなる気持ちも分かるんだ。篠宮葵の淹れるお茶はマジで美味しい。これ、本当にスーパーのお茶か? って聞きたくなるほどだ。
そんな篠宮葵に、男を顎で使う女傑ーー坂下留美もメロメロって訳だ。
篠宮葵、恐ろしい女だぜ。
俺はズズッと熱い茶を啜っていて頬に当たる視線を感じた。ふと目を向けると篠宮葵と目が合い、彼女はニコッと笑いかけてきた。
くっそう〜、何だよ、そのとろけそうな笑顔。
どうして、この笑顔はみんなの物なんだ、どうして!?
「そうだ、葵ちゃん、幸平に頼んだらどう?」
おいおい、坂下さんよ。遂に俺は呼び捨てか?
「え? でも、今、片桐さんは忙しいですよね?」
何だ、何だ?
天使が怖ず怖ずと俺を上目遣いで見上げてくる。
「ねえ、幸平くん。ちょっと頼まれてくれない? 葵ちゃんが資料の片付けを頼まれたんだけど、彼女この通り背が低いでしょ。高いところが届かないのよ」
篠宮葵が申し訳なさそうに首を縮めた。
「届きそうなところは自分でしますから、無理なとこだけお願いします!」
え、何? て、ことは一緒に書庫に行けんの? 二人っきりで?
マジかぁー?
「い、いい……で、っすよ」
俺は一も二もなく即答した。少々どもり気味だったのはご愛嬌ってことで。
***
「すみません、片桐さん。お仕事を邪魔して、こんなことを手伝わせて……」
「い、いや、いいよ……、でも本当に大丈夫? 俺、代わろうか?」
「平気です。この高さなら私だって」
「そ、そうか……」
頑なな篠宮葵の態度に、なけなしの勇気を俺はすごすごと引っ込めるしかなかった。
あー、ここで、現在の状況を話そうと思う。
天使とめでたく二人っきりで書庫へと行けることになった俺は、彼女の前でカッコいい姿を見せるべく張り切ってついてきた。
こう、室内に入ったらバシッと上着を脱いでさ、シャツの袖口を素早く腕まくりしてさ、「篠宮さん、どこから片付けようか」なんてどもりもせず出来る男をアピールしてさ。
……が、現実はこうだ。
彼女は俺に一切のアピールを許さず、さっさと脚立を持ってきて手近な棚の前に立てかけ、勇ましく登り出した。
そして、呆気に取られ呆然と立ち尽くすしかない俺に、振り向いて指示を出してくる。
「片桐さん、すみませんが、コレ支えていてくれませんか?」
「あ……、ああ」
慌てて近寄った俺を見ると、彼女は安心したようにまた登り始めた。
言っとくけど俺の方が先輩だよ。まあ、別にいいけどさ。
それから、目的地に辿り着いたのか、棚の上を彼女はゴソゴソと片付け出した。
狭い脚立の上での作業だから、時々ぐらつく。その足場をきっちりと確保するのが俺の役目だ。
なあ、これって……。
俺の存在、いると思うか?
男としてかなり、情けない扱い受けてないか?
いや、彼女は天使だ!
誰に対しても分け隔てなく接する、天使の中の天使だ!
そんな彼女が、たとえ気のない男相手だとしても、自分から頼んでおいて無碍にするとか有り得ない。そうだろ?
「きゃ、きゃあっ」
彼女が悲鳴を上げてぐらりと体が揺れた。
「だ、大丈夫?」
上を向いた俺の目に眩しいふとも……、ええい、自粛だ。見るんじゃない。
「大丈夫です。すみません、バランス崩しちゃって……」
「いや……」
いやとは言ったが、こいつはかなりの目の毒だろ。大丈夫とか言いながらも彼女は以降もグラグラと揺れて、その度に俺は目のやり場に困る。
……これはもしかして、モテない男に対する神の施しか何かか?
だったらありがとう神様。どうか彼女に俺のスケベ心が見つかりませんようにと、祈るしかない。
「きゃ、きゃああ、蜘蛛〜、蜘蛛〜!!」
そうこうする内に彼女は天敵を見つけたらしく、甲高い叫び声を上げて、とうとう脚立から足を踏み外してしまった。
「危ない!」
俺は慌ててそれを受けとめようとして、みっともないことに支えきれなかった。
彼女の体と一緒になって、すぐ後ろの棚に背中をしたたかに打ちつける。それだけじゃ飽きたらず、反動でそのまま床へと二人して倒れ込んでしまった。
「……つ、いたたた……」
目を開けるとすぐ側に、篠宮葵のくるくるとしたつぶらな瞳が見えた。大きく見開いた黒い瞳と、まともに見つめ合ってしまい、俺はすこぶる慌ててしまった。
「ご、ごめん!」
俺は急いで彼女の上から体を起こそうとした。
だって、そうだろ?
この状態は間違いなく、俺が彼女を床に押し倒してる図だ。不慮の事故とは言え、いたいけな天使を壁ドンならぬ床ドンしている図に違いなかった。
こうなったら、彼女の眼差しに嫌悪の色が表れる前に、一刻も早く退かなければならない。
分かるか? 俺は篠宮葵に嫌われたくはないんだよ!!
「ーー片桐さんて、本当に鈍いんですね」
「え、な、何?」
妙に肝の据わった声がしたあと、俺の体は瞬く間に反転していた。
気がつけば床を背にして上向きで寝転がっている。視界に入るのは薄暗い書庫の小汚い天井だけ。
いや、違うか。
紅潮した頬に、悪戯っぽく瞳を煌めかせる篠宮葵の、やけに大人っぽい妖艶な顔もあった。
俺は意味が分からなくて混乱した。篠宮葵は薄く色づく赤い頬を隠しもしないで、上から俺を見下ろしている。
そうさ、いつの間にか俺と彼女は、立場が逆転していたんだ。
「私が何故いつもこんなブリブリした子供っぽい服を着ているか、分かりませんか?」
篠宮葵は、色気すら感じさせる滑らかな声で囁く。その声は、決していつもの舌足らずな言い回しなんかじゃない。
「な、何故って……、君は可愛い服が好きなんだ……ろう?」
俺はつっかえつっかえ答えた。彼女が何をしたいのかまるで分からない。
篠宮葵はため息をついて言い切った。
「ーー違います」
「違……う? ど、どうし……て」
天使はその問いに答えないで、次の質問をぶつけてきた。
「私がどうして、課のみんなのお茶の好みを把握しているか、分かりますか?」
「そ、そんなの……、き、君は、優しくて……、よく気がつくから」
彼女は不満げに眉を寄せた。
「私がどうして、誰にでも愛想良く振る舞って、先輩女子社員とも仲良く上手に付き合っているかは?」
「え? き、君は……、そういう人だからだろ?」
彼女はブンブンと大げさに首を横に振ると、身を屈めて俺へと顔を近づけてくる。
ち、近い。近いんだけど、いいのか……?
「じゃあ、私は本当はそれほど背が低くも愛嬌もないけど、無理して小柄で可愛い女をアピールするために、ちょこまかと動いている訳は?」
「ええっ!?」
どういうことだ?
篠宮葵は凄みすら感じさせる笑顔で、ずいっと俺に詰め寄った。
彼女の豊かな二つの胸が、俺の平らな胸元に深々と押し当てられている。俺はパニック寸前で気が気じゃなくなっていた。
「それはね、全部片桐さんを振り向かせるためですよ! 鈍くて朝の挨拶の時にも、何も気づいてくれない人を。お茶もあなた好みの特別ブレンドにしているのに、ズズズっていつもただ飲むだけの人を。いいですか、あの味を見つけるのに私はそりゃあ苦労したんですよ。あなたの好みを掴むのに一月はかかったんです。そろそろ気づいてくれてもいいでしょう、私の努力を。ついでに皆にも作っていたら、他の人の好みも自然と覚えていったのは、誤算だったけどーー」
彼女は一気にまくし立てて、ハアハアと荒い息を吐いていた。
「だ、だいたい、うちの会社はお茶汲みって制度がとっくに廃れているんです。それなのにせっせとそんなことをしている私に、下心がない筈ないでしょう? みんなに同じようにしていたのは、その下心を隠すためですよ。朝の挨拶と同じです」
俺は何も言い返せなかった。ただもう彼女の言うことが信じられなくて、目を白黒させてるだけだった。馬鹿みたいに。
「女子社員といざこざを起こさないのだって、協力をこうためです。今日だってそうですよ。せっかく坂下さんに甘えて、片桐さんの前で私のことを売り込んでもらったのに、全然気づいてくれない。あなたの好みだという可愛い小さな女の子を、精いっぱい真似しているってのに、私をスルーするんですか? ただ小さいだけじゃ意味ないって、書庫に入ってからは色仕掛けにもトライしたのに、手も出してくれない。分かってるんですか、今は私とあなたの二人だけなんですよ?」
もしかして、脚立の上でグラグラしてたのは色仕掛けだったのか? どおりで無駄にスカートの中がチラチラしていたような……。
いや、俺は断じて見ていないぞ。何度も襲ってくる誘惑に、このとおり、見事打ち勝ってやったんだからな。
「ーーし……、のみや……さん」
俺はやっとの思いで声を絞り出した。彼女の迫力に完璧に負けてしまっている。
「何ですか?」
篠宮葵は上から俺を押さえつけて、ギロリと凄んできた。そんな姿も、息が止まりそうなほどに可愛い。
「お、俺のこと……、あの……」
俺の言葉尻を彼女は膨れっ面で奪っていった。
「酷いですよ、先に言うことがあるでしょう、片桐さん! あなたも私のことを好きなんでしょう? そうなんでしょう?」
結局、篠宮葵は最後まで言わせてくれなかった。彼女は真っ赤な顔のまま、その顔を隠すように抱きついてきた。
「もう、いいから私に捕まってください。私も待つのはやめました」
そう言って俺だけの天使は、全体重を俺の胸に預けて、消え入りそうな頼りない声で「大……好き……です」と呟いたのだった。
正式タイトルは「高嶺の花の落とし方、またの名を棚からぼた餅。」でした(汗)!!
シチュエーション考案者:霜月維苑様です。
お題シチュ:『壁ドンなら床ドン、つまり押し倒しちゃう☆が見たいです。』でした(^o^;)
変則的床ドンとなってしまいました……。霜月様、ごめんなさい。
執筆中はとても楽しく書けました。脳内妄想時間から執筆期間中まで、色々と楽しめたお題を本当にありがとうございました。