大魔王様が現代日本に転生しました
諸君。
まずは最初に言っておこう。
この俺、加藤信輔(中学2年生の14歳)は、大魔王である。
今、俺たちが暮らす日本が存在する世界。この世界とは別に存在する異世界がある。
信じられないかもしれないが、本当に異世界は存在するんだから仕方がない。
証拠?
そんなものは俺そのものが証拠だ。
その世界の名前はモーセリア。かつて、そのモーセリアを滅亡の縁にまで追い込んだ恐怖の権化。
世界を震撼させ、モーセリアに住む人間どもの心に死と滅びを刻み込んだ魔族の王。大魔王リストファルケーンこそが俺の前世だ。
そう。前世。
俺こと大魔王リストファルケーンはモーセリアを救うという使命を帯びた人間の勇者と戦い、激闘の末に勇者に破れて命を失った。そして、今俺がいるこの世界に転生したというわけだ。
もちろん、俺とて生まれた時から前世の記憶があったわけじゃない。
だがある日、突然思い至ったのだ。俺の前世が大魔王リストファルケーンだと。
俺が大魔王の生まれ変わりだと悟ったのはもう随分と前だ。年齢で言えば、幼稚園に入園した直後ぐらい。その時、俺は両親や友達に、自分の前世が大魔王だということを打ち明けた。
しかし。
「ああ、そう。あんたも、そういうことを言うような年頃になったのね」
「まあ、誰でも一度は通る道だからなぁ」
両親はまるで本気にしなかった。おそらく、テレビのヒーローものにでも憧れているのだと思ったのだろう。
俺の話を本気にしないどころか、微笑ましい目で俺を見る始末だ。
おのれ! いくらこの世界の俺の両親とはいえ、大魔王であるこの俺の話を全く信用しないとは!
これが前世ならば、眼光一つで石に変えてやったものを!
まあ、痩せても枯れても俺の両親だからな。実の両親にそんな酷いことはしなかったけどな。
また、当時の俺の友達も同じような反応だった。
「ぼく、まおうってよくしらないけど、それよりひーろーのほうがいい」
「うん。ぼくもかめん○いだーのほうがいいなー」
「あたし、ぷりきゅ○がいい!」
と、今考えれば年相応の反応ばかりだった。だが、当時はとても悔しかったことを覚えている。
くそぅ、俺の言うことを信じないおまえらなんか、そのうち奴隷としてこき使ってやる!
まあ、俺は大魔王とはいえ慈悲深いからな。仲のいい友達にそんな酷いことはしなかったけどな。
魔王様。
それが俺が中学に入ってからのあだ名だ。
もちろん、普段から自分が大魔王の生まれ変わりだと言い張っているのが理由である。
「おーい、魔王様ー。次、移動教室だから、そろそろ行かないと間に合わないぞー?」
「おーう。すぐに準備するから待っていてくれ」
俺は机の中から次の授業に必要な教科書やノート、筆記具を取り出す。
こう見えても俺は、学校の成績は常に上位に入っている。なんせ俺は大魔王だからな。常に頭脳明晰であることを下々の者たちに示さねばならん。
だから毎日予習復習は欠かさないし、宿題だってしっかりとやる。当然、校則だってきっちりと守る。
そのせいだろうか。学校側にも俺は受けが良く、最近では担任から次期の生徒会の役員に立候補してくれないかという打診が来ている。
今も移動教室の途中で担任とすれ違い、生徒会への立候補について聞かれた。
「なあ、加藤。今度の生徒会の件、考えてくれたか?」
「その件ですが……俺、やってみようと思います」
「おお、そうか。おまえが生徒会に立候補してくれるのなら、学校側としても安心だ」
破顔する担任の顔を見ながら、俺は心の中で黒い笑みを浮かべる。
俺は大魔王だ。その俺が生徒会役員──もちろん生徒会長に立候補するつもりだ──になれば、実質的にこの学校は俺の支配下に置かれることになるのだ。
しかも俺の他に有力な候補者はいないようで、このままならばすんなりと俺は生徒会長になれるだろう。
つまり、俺がこの学校の生徒の最高権力者というわけだ。くくく、大魔王たるこの俺になんと相応しい地位だろうか。
無論、生徒会長となった暁には、全校生徒のために尽力するとも。人々の上に立つ以上、下々の者たちの面倒を見るのは義務だからな。
俺は大魔王なのだ。俺に従う者たちの面倒はきっちりと見ようではないか。
「あ、魔王様。悪いけど、ゴミ箱の中味、焼却炉まで運んでくれる?」
その日、授業後の掃除当番だった俺は、同じ掃除当番のクラスの女子から頼まれた。
「おう、任せろ。大魔王たるもの、どんなことでも率先してやらないとな。そういう態度を見せるからこそ、手下たちは大魔王である俺についてくるのだ」
「うん、手下とか大魔王とかはともかく、ありがとうね」
「いやー、加藤って普段の言動はアレだけど、それ以外は頼りになる奴だよなー」
「加藤くんって背も高いし、見た目もそんなに悪くないしねー。すぐに大魔王、大魔王って言うのはアレだけど」
と、このようにクラスの女子からもなかなかの人気だ。
やはり大魔王たるもの、か弱い者には優しくしなければならない。もちろん、刃向かう者には容赦しないけどな。
だから俺は、大魔王の名にかけて女性には優しくするように日頃から心掛けている。
俺はゴミ箱を運んで校舎裏へを目指す。各教室から出るゴミを燃やすための焼却炉があるのだ。
今日日の私立の中学ともなれば、業者がゴミを回収に来るのかもしれないが、俺が通っている中学はこの地域で最も歴史のある古い市立の中学である。
今でもこうやって教室から出た可燃ゴミは、敷地内の焼却炉で燃やしている。
さすがに最近はゴミの分別にうるさいので、普段からゴミの分別には俺も熱心にクラスで呼びかけている。
大魔王たるもの、ゴミの分別という最低限のマナーぐらいは守らないとな。ちなみに、ここに運んで来る前に一度ゴミ箱の中を点検し、入っていた不燃ゴミや空き缶、ペットボトルの類はそれぞれの回収場所へと捨ててきた。
そうして俺が校舎裏へ行くと、そこには数人の生徒がいた。どうやら先客らしい。
だが、近づいてみると単にゴミを捨てに来たのではないと分かった。
そこにいたのは、髪を金色に染めて耳にいつくもピアスを装着した、見るから不良といった男子生徒が三人。それから、気の弱そうな一見して「いじめられっ子」だと分かる、小柄な男子生徒が一人。
だらしなく着崩した学生服の襟元のバッジで、不良は3年生だと分かった。一方のいじめられっ子の方は、同じ理由で1年生と判明した。
カツアゲか、それともパシリか。具体的なことは分からないが、今時こんな分かりやすい連中がまだいたとは。俺は逆に感心してしまった。
俺はそんな連中に構うことなく焼却炉へと近づく。大魔王たるこの俺が、不良生徒なんぞにビビるわけがないじゃないか。
そして、不良三人の内の一人が、無造作に近づいていく俺に気づいた。
「今、取り込み中だ。怪我したくなかったら消えろ。もちろん、教師どもには言うんじゃねえぞ?」
不良は精一杯凄んでくるが、大魔王であるこの俺にはまるで通じない。
俺は不良を無視して焼却炉へと近づくと、そのままゴミ箱の中味を焼却炉へと放り込む。
「おい、無視すんなよ! 一体何様のつもりだ? ああ?」
「決まっているだろう。俺は大魔王様だ」
俺がそう宣言すると、不良たちどころかいじめられっ子までぽかんとした表情になった。
うむ、どうやら俺が大魔王だと知り、畏怖の念を抱いたようだ。
「あぁ、大魔王だぁ? こいつ、アタマおかしいんじゃね?」
「そういや、2年に自分のことを大魔王だって言っているイカレた奴がいるって聞いたけど……」
「こいつのことか?」
不良たちはぼそぼそと相談した後、にやにやとした嫌らしい笑いを浮かべて俺を取り囲んだ。
「よう、大魔王様。大魔王っていうぐらいなんだから、何か魔法を使って見せろよ?」
「そうだな、大魔王様の偉大なお力を見せてくださいや」
相変わらずにやにやと笑う不良たちに、俺はきっぱりと言ってやる。
「魔法か? 魔法は今は無理だな」
「はぁ? 今は無理だとぅ?」
「じゃあ、いつなら使えるんだ?」
「この人間の身体は魔力がほとんどない。そして魔族の力の源は闇。その闇の力が激減する昼間は魔法は使えないのだ。夜ならばある程度は使えるのだが……しかし、人間の身体は脆弱すぎて、大きな魔法を使おうとすれば反動で身体がどうなるか……俺にも分からん」
本当にこの人間の身体って奴は脆い。生前の魔族としての身体ならば、この学校全体を吹き飛ばすぐらいの魔法は簡単に使えたいうのに。なんせ俺は大魔王だからな。
だが、不良たちは俺の言葉に腹を抱えて笑い出した。
「ははははははは。ほら見ろ。やっぱり魔法なんて使えないんじゃねえか!」
「これってあれだろ? 中二病とかいう奴? 確かにこいつ2年生だけどさぁ。あー、笑えるわー」
「まあ、何だっていいや。この魔王様もボコって俺たちのサイフにしちまおう」
不良たちが凶悪な笑みを浮かべる。それを見て、いじめられっ子ががたがたと震え出し、不良たちと俺を何度も見比べる。
そんないじめられっ子に、俺は不敵な笑みを向けた。
「安心しろ。この程度の連中、魔法を使うまでもない。なんせ俺は大魔王だからな!」
俺はびしっと親指で自分を指し示す。うむ、さすがは大魔王な俺。うん、決まったな!
と、その余韻に浸る間もなく、不良の一人が襲いかかってきた。
拳を振りかぶり、力一杯突き出してくる。
不良たちの身長は、三人とも180センチ弱といったところか。176センチの俺と大差ない。
技術も何もない、ただ力任せの不良の拳が俺の顔面に迫る。
だが、俺は顔色一つ変えることなく、首を往なして拳をやり過ごした。
「な……っ!?」
俺を殴り損なった不良が目を見開く。
当然、不良の身体が一瞬停止する。その隙を見逃すことなく、俺はゴミ箱を放り捨てつつ足払いをかけた。
殴りかかって重心が前へと移動していたその不良は、支えとなる足を払われて無様にすっ転ぶ。
「もっと下半身を鍛えろ。それから、狙っている場所をじっと見つめながら攻撃していては、当たるわけがないだろう?」
今の不良のパンチは、ボクシングでいうテレフォンパンチって奴だ。わざわざ拳を振りかぶって攻撃のタイミングを教え、殴るポイントをしっかりと見据えている。これでは玄人相手には通用しない。
俺は幼い頃に自分が大魔王の生まれ変わりだと悟ってから、各種の格闘技を身に着けた。もちろん、今も道場に通っているし、自主トレも欠かさない。一見すると細身に見られがちな俺だが、実はこれでも全国の男子の憧れの細マッチョなのだ。
やはり大魔王たるもの、何と言っても強くなければな。
そんな俺にとって、腕力だけが取り柄の不良たちの攻撃など児戯に等しい。
殴りかかってくる不良たちを鮮やかに交わし、次々に足払いをかけて転ばせる。
それを何回か繰り返していると、やがて不良たちの闘志が折れた。
連中はお決まりの捨て台詞を残すと、ほうほうの体で校舎裏から逃げ出していく。
「あ、あの……」
背後から声をかけられ、俺は振り向いた。そこには、例のいじめられっ子がいた。なんだ、まだいたのか。
「あ、ありがとうございました。え、えっと、2年の先輩……ですよね? よ、良かったらお名前を教えていただけませんか……?」
「俺は加藤……いや、俺のことは大魔王と呼べ」
「だ、大魔王……? え、えっと……加藤先輩……でいいですか?」
「俺は大魔王だ」
いじめられっ子は目を白黒としている。
「え? え? じゃ、じゃあ……ま、魔王先輩……?」
「……まあ、それでいいだろう。そう呼ぶことを許す」
いじめられっ子は何度も俺に頭を下げると、嬉しそうに去って行った。
どうやら、これであのじめられっ子は俺の信奉者となっただろう。くくく。手下が増えることは、大魔王である俺にとって悪いことではない。
俺は放り出していたゴミ箱を拾い上げると、教室へと戻ることにした。
教室に戻った俺は、何事もなかったかのように掃除の続きをした。
大魔王であるこの俺にとって、先程程度のことは実際に何でもないしな。
掃除をしっかりと終わらせた俺は、そのまま帰宅する。
当然寄り道や買い食いなどしない。
いつ、どこで誰と遭遇するのか分からないじゃないか。もしも顔見知りとばったり出会ったりした時に、何かを食べながら歩いていたら恰好悪いだろう?
やはり大魔王たる者、パブリックイメージを大切にしないとな。
家に帰り着いた俺は、まずは手洗いとうがいを済ませる。
手洗いとうがいをしっかりしないと、風邪を引いてしまう。風邪を引いた大魔王など、そんなみっともない姿は絶対に晒せない。
そしてリビングのテレビで夕方のニュースと明日の天気予報をチェック。今日は道場などが休みの日のため、家でのんびりとできる。おっと、自主トレはいつも早朝に行っているからな。当然、明日の朝も午前6時に起きてランニングといつものトレーニングメニューを消化する予定だ。
その後は父親が帰宅するのを待って、バラエティ番組を眺めながら家族揃って夕食。
家族と楽しい時間を過ごした俺は、風呂に入ってから自室に引き上げる。
これから今日の授業の復習と、明日の授業の予習と宿題をするのだ。
教科書とノートを広げ、勉強に集中する。しばらくそうして勉強に集中していた俺は、休憩しようと机の上にシャーペンを置いた。
椅子に座ったまま身体を伸ばしつつ、横目でちらっと時間を確認する。
壁にかかった時計は午後11時50分を過ぎていた。もうすぐ日付も変わるが、もう一頑張りしようか。
そう思って改めてシャーペンを握った時。
俺の身体の中を何かが駆け抜けた。
その感覚に眉を顰めた俺は、そのまま窓から飛び出した。
今日は新月。
星が瞬く夜空の一点。そこに異様なものが浮かんでいた。
まるで心臓のようにどくりどくりと脈動するそれは、色が黒いため一見しただけでは夜空と区別がつかない。
だが、それは確かにそこに存在した。
一言で言い表すならば、それは夜空に走った罅割れ。その罅割れが、心臓の鼓動のように脈動していた。
そして、その罅割れから赤黒い色をした何かが姿を現す。
「…………腐魔竜か……まさかこんな大物がこちらの世界にやって来るとは……」
俺は首を傾げながら罅割れから現れた腐魔竜を見下ろした。
腐魔竜はいわゆるアンデッド・ドラゴンという奴だ。その全長は余裕で20メートルを超え、生者の命の波動に導かれ、命の波動を喰らうために無差別に生者を襲う。
また、高位のアンデッドということで、腐魔竜には通常の物理攻撃は通用しない。この魔竜に有効なのは、炎か聖の属性を付与した武器での攻撃か、同じく炎、聖の属性魔法だけだ。
この腐魔竜一匹で、実際に小国が一つ滅んだこともある。例えこの場に航空自衛隊の航空機が現れても、腐魔竜に有効な攻撃は与えられないだろう。
機銃類は当然のこと、通常の空対空ミサイルなどでも少々火力が心許ない。
現代の兵器で奴にしっかりと止めを刺すには、それこそ核ミサイルでも撃ち込むしかあるまい。
とはいえ、ここは市街地の上空。そんなところで大量破壊兵器を使用するわけにもいかないだろう。
どうしてこの腐魔竜がこの世界に現れたのか。それは大魔王たるこの俺にも分からない。
次元の裂け目にでも偶然落ちたのか、それとも大魔王たるこの俺が存在することで、世界と世界を隔てる壁が弱くなっているのかもしれない。
「……やはり、大魔王であるこの俺が何とかするしかないな」
俺は誰に聞かせるでもなく呟くと、罅割れから完全に姿を現し、巨大な四枚の翼を広げた腐魔竜へと向かって急降下した。
幸い、今夜は新月だ。
闇を力の源とする俺にとって、その力が最大限に発揮できる。
もっとも、今の俺の力など、生前に比べれば本当に微々たるものでしかないのだが。
俺はパジャマ姿のまま、ぐんぐんと腐魔竜へと近づいていく。慌てて家を飛び出してきたので、パジャマ姿なのを忘れていたのだ。
何たる失態。うっかりとはいえパジャマ姿で外に出るなんて、大魔王たる俺がすることじゃない。
腐魔竜までもう少しというところで、奴が俺に気づいたらしくその長い首を俺の方へと捩じ曲げた。
だが遅い、俺は魔力を右手に集め、昏い光を宿した拳で巨大な腐魔竜の頭部を殴りつけた。
どぱん、という派手な轟音を響かせながら、腐魔竜の巨大な身体が数メートルほど後退する。
物理攻撃無効なはずの腐魔竜にダメージが入る。弱体化したとはいえ、大魔王たる俺が十分に魔力を注いだ攻撃なのだ。いかな物理攻撃無効の腐魔竜とて無事で済むはずがない。
と同時に、俺はとあることを忘れていたことに思い至った。
いかんいかん。このままここで戦えば、下の市街地に少なくない被害が及ぶ。それにこんな化け物が現れたとなれば、パニックを起こす者も出てくるだろう。
腐魔竜の巨体が空中でバランスを崩している間に、俺は自分の周囲の大体4キロ四方を今いる空間から切り取り、俺が作り出した一時的な疑似空間へと転移させる。
いわゆる、結界という奴だ。
これで心配することはなくなった。後は目の前の腐魔竜を倒すだけだな。
この時になって、ようやく腐魔竜は体勢を整え、どろどろとした不気味な粘液に塗れた牙を剥いた。
「ふむ、威嚇のつもりか? だが、大魔王であるこの俺には無意味だぞ?」
俺は腐魔竜に向けて掌を翳す。その俺の掌の前に十数個の黒い火球が現れる。
ただし、火球といってもそこに熱はない。闇属性の《黒炎》。外見は炎だが、触れたものを凍らせる闇の炎だ。
《黒炎》が一斉に解き放たれ、腐魔竜へと襲いかかる。
先程も言ったが、本来ならば闇属性では腐魔竜にダメージを与えられない。
しかし、この《黒炎》は大魔王たるこの俺が作り出したものだ。そこに宿る圧倒的な魔力は、本来効果のない腐魔竜の身体のあちこちを凍らせていく。
とは言え、やはり今の俺では魔力も相当弱まっている。生前の俺ならば、《黒炎》一つで腐魔竜を一瞬で氷の彫像に変えられたものを。
身体のあちこちを凍らされたせいか、腐魔竜が声にならない咆哮を上げる。
奴の喉はとうに腐り落ちているため、声を出したくても出せないのだ。
その代わり身体の各所の氷を破壊しつつ、奴の体全体からおぞましい瘴気が吹き出す。並の人間ならば瘴気を一呼吸吸い込んだだけで、あっと言う間に全身が腐り落ちるだろう。
その瘴気が腐魔竜の口元に一気に集束する。そして、炎を吐き出すように一気に俺に向けて撃ち放ってきた。
腐魔竜最大の攻撃、瘴気のブレスだ。
かつて俺のいた世界で最も硬度が高いと言われた金剛竜の鱗さえ腐敗させ、大きな街の住人全てを死に至らしめると言われるほど、その攻撃力は凄まじい。
だが。
だが、大魔王であるこの俺には残念ながら通用しない。
俺は右手の人差し指の腹を軽く噛み切ると、溢れ出た血で左の掌に紋章を描く。
そして、その紋章がどくんと力強く脈動すると同時に、俺と瘴気のブレスの間に何かが出現して瘴気のブレスを遮った。
それは巨大な盾だ。
全長約10メートル幅約6メートルの、巨人が扱うような巨大な闇色の盾。その巨大な盾が宙に浮き、瘴気のブレスを遮っている。
この盾こそ大魔王たる俺の霊装の一つ、虚盾「アルギミオン」だ。
アルギミオンの表面には虚無が存在し、この虚無がいかなる攻撃をも──物理的にも魔法的にも──吸収してしまう。
今も、この虚無に瘴気のブレスが吸い込まれては消えていく。
当然、俺には何の被害も及んでいない。
最大の切り札が通用しないことを悟ったのか、腐魔竜が苛立たしそうに翼を打ち震わせる。
そして、今度は牙を向いて俺に突っ込んでくる。
さて、そろそろ決着をつけようか。俺だってそれほど暇ではないのだ。なんせ、まだ明日の予習の途中だからな。
突っ込んでくる腐魔竜に不敵な笑みを浮かべつつ、俺は今度は左の人差し指の腹を噛み切り、右の掌に紋章を描く。
先程と同じように脈動する紋章。
そして、今度は何もない空間から巨大な剣が出現した。
全長約15メートル、刃渡り約12メートル。刀身の幅も余裕で5メートルはあるだろう、文字通りの巨剣。
これこそが俺のもう一つの霊装、無剣「バララギオン」。
この巨剣の刀身もまた、アルギミオンと同じく虚無でできている。
この巨剣の刀身に触れたが最後、その物質は虚無の刃で切り裂かれる。虚無を防ぐことなどまず不可能なので、この剣で断てぬものは存在しない。
いや。この剣で断てなかったのが過去に一つだけある。それが、前世の俺を倒した勇者だ。
あの勇者はバララギオンでいくら斬りつけてもノーダメージだった。それどころか、奴の放つ攻撃はあっさりとアルギミオンを貫通してきた。
俺のこの霊装も大概だが、あの勇者は存在そのものが大概だったな。
かつての宿敵に思いをはせている内に、腐魔竜が間近まで迫っていた。
いかんいかん。今は目の前の敵を葬らねば。あ、こいつはアンデッドの一種だから、もう死んでいるんだっけか。
俺は右腕を振り下ろす。
その動きをトレースするかのように、宙に浮いていたバララギオンが閃く。
この二つの巨大な霊装は、俺の右手と左手に同調して動く。もちろん、俺が重量を感じることはなく、巨大な霊装たちは俺の意のままに舞い踊る。
ぶんと唸りを上げて振るわれる巨剣。その闇色の刀身が、腐魔竜の身体を頭の先から尻尾の先まで綺麗に真っ二つに断つ。
いかな腐魔竜とはいえ、虚無の刃を防ぐことはできない。
その後も俺はバララギオンを何度も振るい、腐魔竜の身体をどんどんと細かく断ち切っていく。そしてこま切れになった腐魔竜の身体を、アルギミオンの虚無の中へと吸収させた。
これでいかな腐魔竜と言えども、復活することはないだろう。
俺は結界を解くと、改めて夜空を見上げた。
そこには、相変わらず脈動する罅割れが。
俺はもう一度だけ右手を振る。それに合わせて、バララギオンが罅割れを切り裂いた。
切り裂かれた罅割れは、激しく脈動すると徐々に小さくなっていき、やがて消え去る。足元に広がる街並みは、普段とまるで変わっていない。
「…………ま、こんなものか」
俺は肩を竦めると、そのまま家に帰ることにした。
その途中、身体を引き裂くような激痛が走り、俺は歯を食いしばってそれに耐える。
やはり、人間の身体は脆い。この身体で魔法や霊装を扱うことはかなり厳しい。
とは言え、今の俺では霊装を使わなければ腐魔竜を倒すことはできなかっただろう。
激痛に耐えながら、ゆっくりと家を目指す。
やれやれ。まだ予習が残っているのに。そして、明日の朝もいつもの早朝自主トレだってある。
しばらく自主トレは辛いものになりそうだ。
ちょっぴり暗い未来に溜め息を吐きながら、俺は家路を急いだ。
諸君。はっきりと言おう。
この俺、加藤信輔は大魔王である。
だが、それは前世の話であり、今はごく普通の人間だ。
そして、普通の人間としての今の暮らしを、案外気に入っていたりする。