【三題噺】碁石・カピバラ・しなちく
三題噺のショートショートです。
お題は碁石、カピバラ、しなちくです。
「こんばんは、マスター」
「いらっしゃい。いつもので良い?」
「うん」
もう数えきれないくらい繰り返されて来たこのやり取り。私はお決まりの一番奥の席に座り、壁に体をもたせ掛ける。いつも通り、ちょっと早いこの時間帯はまだ他に客はいない。早速酒が出される。わたしは軽く口をつけてから「マスター、一局」と言った。
「はいはい」
と、マスターはいつもの優しい笑顔でカウンターの下から碁盤と碁石を取り出した。開店間際、他の客でいっぱいになるまでの間に一局打つのが私とマスターの日課である。勝敗の詳細は覚えていないが、私がマスターに勝ったことは今まで一度もなかった。
マスターと私は同じ学校で囲碁部に所属しており、彼は私のひとつ先輩だった。強かったのは部内だけではなく、大会でも上位に入ることがしばしばあった。私は一度彼にプロを目指してみてはと勧めたことがあったが、彼はいつもの笑顔で首を左右に振るだけだった。私はそんな彼の偉ぶらないところが大好きだ。
……そしてやはり負けた。二子置いて八目差。くやしい。でも一年前よりは上達しているはず。
「うん、上達してるよ」と、マスターもいつも通りの笑顔でにっこりと言う。
「今日はもう良いや」
私は碁石を片づけながら言う。碁盤の木の手触りと、碁石の冷たい感触が私は好きだ。感触を十分に楽しみ、片付けが終わると私はマスターに何か面白い話をしてと頼んだ。
「キクちゃんこそさ……」と、カウンターの下に碁石と碁盤をしまいながらマスターが言う。マスターは私のことをキクちゃんと呼ぶ。囲碁部の頃からずっとそうだ。
「キクちゃんこそ、今日はどうだったの? デートだったんでしょ」
「うん、水族館に連れて行ってもらった」
「ペンギン見れた? ペンギン好きだもんね」
「すっごい近くで見れた。チョー可愛かった。これ写メ。でもねでもね、もっとびっくりしたことがあってさ」
私はケータイを操作しながら目的の写真を選び、マスターに見せつける。
「これって、カピバラ?」
「そう! カピバラがいたの。カピバラ初めて見た。想像してたのよりでかくてびっくりした。しかも近づいたら急にドドドって動くし。もっとのんびりしてると思ってた。毛もなんか固そうだったし、本物はあんまり可愛くないね。ペンギンの方が可愛い」
「カピバラって水棲動物なんだ?」
「知らない。でも水族館にいるんだからそうなんじゃない? きっと水草なんかをもそもそ食むんだよ」
「魚は獲らないのかな」
「魚を獲れるほど器用には見えなかったしね。草食系だよ彼は」
「そしてキクちゃんの彼氏も草食系」
「そーなのよ。だから一人さみしく今夜も碁を打ちに来てるのさ。ほら見てこれ」
私はケータイを操作して、今度は自分の恋人の写真を選び、マスターに差し出す。
「こてこての草食系って見た目ではないんだね。良い人そうだと思うよ僕は」
「しなちくみたいでしょ」と私は笑って言った。
「そうかな?」
「そーだよ。肌の色とかそっくりでしょ。後なんか萎びてそうなところとか」
「しなちくは別に萎びてる訳じゃないでしょ。まあ、味があるって意味では似てるかな」
「マスターうまいこと言うね」
「それほどでも」と言うと、マスターはにっこりと笑った。同時にカランとドアが鳴り、新しい客がやって来た。私は勘定を払うと店を後にした。この店を出るころには私の心はいつも暖かだ。
しなちく……。
ふと思いついてケータイを取り出すと、私は恋人の登録名をしなちくに変更した。そしてそのまましなちくに電話を掛けた。数回目のコールで彼が出る。眠たそうな声だ。
「このしなちく野郎!」と、私はひとこと怒鳴って電話を切った。胸が少しすっとした。
さて何か言い返してくる度胸はあるのだろうか。私は少しうきうきしながら帰路についた。
最後まで読んでいただきましてありがとうございます。
恋愛小説のつもりなのですが、ちゃんとそう読めてるでしょうか?
感想をお聞かせいただけると嬉しいです。