No.0 ことのはじまり
世界中で空が鉛色の雲に覆われた日、とある生気の薄れた寂しい街は、にわかに慌ただしさを増していた。
そんな街の、だれも居ない狭い路地を駆ける人陰があった。現在この荒廃しきった街に住む唯一の人間でもある彼は、なぜか追われることになってしまったらしい。その後からは二人、ひどく息を切らしながらも懸命に彼を捕らえようと走っている。彼らの視界には、もう軽く腕を伸ばせば届いてしまうかもしれないところまで接近した、どう考えても子供にしか見えない“ターゲット”が映っていた。
何故か追われている俺。
数日前に出された避難勧告の後、俺自身もここ捨てて逃げるはずだった。まあ、聞いた話だと、何処もかしこも酷い有り様らしいが。とにかく、あの“雲”から遠ざからなければならなかった訳なのだが、どうも“あの餓鬼”が謀ったせいで、『お子様チケット』を失ってしまった。『お子様チケット』とはその名の通り、集団避難時に必要な、子供専用の整理券兼身分証明書なのだが、あいつはそれを無くしたらしく、近所に住んでいた幼なじみの俺にこう言ってきた。「俺のこれ、多分宝石だと思うんだけど……これとチケット、交換しない? 中の情報は自分で書き換えるから。これ、売れば結構高いはずだし……」
もちろん初めは断った。しかし、その後も小一時間うるさく言われ続けた結果がこれだ。どう考えても、こんな石が高く売れるとは思えない。あの時承諾してしまった俺が馬鹿だったか。
それにしても、なぜ俺は追われているのか。さっきまでは、あのチケットが原因――俺のものだとバレたのではないかと思っていたが、まさかその程度の事でわざわざ俺を捕まえに来たわけがない。それに奴等は、「その珠をわたせ―」とか何とか怒鳴り散らしているから、目的はこの石なのだろう。俺の中で、高く売れそうもないこの石は一連の流れから、完全に考えを変え、同時に、追っ手への興味を増幅させる結果となった。
追っ手の一人が人間離れした跳躍で俺に掛ってきた。これはかわす事ができず、そのまま顔を地面へと打ちつけた。完全に追っ手から覆い被さられ、抵抗しようにも四肢の動きを封じられて見動きが取れない。絶体絶命。もう一人は俺の腕を背中に回し、手錠を掛ける。もちろん子供サイズのものだ。首に何か鋭い痛みを感じた。次に心臓が脈打つ頃には意識が朦朧とし始め、数秒後には完全に意識が飛んでしまった。
「これで良し、か?」一人が呟く。
「あぁ。」もう一人がそれに答えた。そして、子供を持ち上げ肩で担ごうとする、はずだった。その動作は直前で中断され、何かの気配を感じた様子で元々来た方向を見やった。
「やれやれ、気づかれたか……で、その子と…それに、その珠は俺の持ち物なんだ。返して貰おうか」
「な…!お前はッ…! あぁ……なんでお前がこんな所にいるんだよぉ!」目の前に現れた人物に対しての畏怖が感じられ、半ば諦観も含まれる。もう一人はというと、どうやら逃げたようだ。何とも正しい判断ではあるが、仲間を捨てて逃げるはどうかと思うな。
この男、危険につき…そんな感じの言葉が彼の存在を表現するのに相応しい。
「お前は逃げないのか?大分呼吸が乱れてきたようだが……そうしてもらった方が楽なんだ。逃げるなら早くしてくれよ、俺は面倒が嫌いなんだ」苛立った様子で、相手を見ず、暗い空に向かって言った。
「お、俺だってなぁ…逃げれるもんなら逃げたいんだよ! お前を相手にしてたら、命が幾ら有ってもたりからなぁ!」そう叫んだようだが、男はまだ空を見ていた。
「じゃあな、消えてくれ」
「は?…」
炎が見えた。彼はそう感じていた。割合そうなのだが、自らの身体の異変に気付く余地も無しに、地面に伏した。
「まぁ、殺しちゃいないけどな…」
そう言い残すと、男は珠と子供と共にこの場を去った。