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夢魔たち

作者: 皿日八目
掲載日:2026/09/27

 マーカはとても不幸だった。自分より不幸な夢魔などいないしいたとしてもおそらくはとてつもない大嘘つきであり取るに足らない不運を影絵のように巨大に見せかけることに長けた手合いに過ぎないであろうといつも考えていた。


 上述のごとくマーカの胸中は止むことのない嵐のごとくつねに荒れ狂っていたがそれは決して表出することはなかった。


 なぜならマーカはおそらく夢魔至上またとないと断言しても過言ではなかろうと確信めいた主張をするにやぶさかでないほどコミュニケーション能力が欠落していたためである。


 マーカが不幸であることはその陰気くさい表情や生まれてこのかたハイライトというものを入れたことがないのではないかと思われるような暗い目を見ればあえて問わずとも誰にでも察知できた。


 それに上述のごとくマーカは強制されない限り自分から何かを語りだすという行為をはなから選択肢として思い浮かべることすらできなかったゆえにあえて今に至るいきさつを述べることもなかった。


 しかしもし誰かがマーカに向かってなぜお前はいつも地獄に堕ちた天使みたいな顔をしているのかと問いただしたのならば次のような言葉を濫觴とする身の上話が始まるにちがいない。


 なぜなら、わたしはもともと天使だったからです。


 おぞましい地獄に囚われることとなるはるか昔の話ですが、わたしはれっきとした天使でした。


 このうえなく清らかな光に満ちた空を、うるわしく羽を洗う風に身をゆだねて舞い、仲間たちと共に主を賛美する日々を送っていました。


 天国に鏡はないので見たことはありませんが、きっとあのころはわたしの目にもハイライトが入っていたにちがいありません。


 しかし、忘れることもできないあの日、力天使たちが突如押しよせてきて、わたしの直属の上司である天使が乱心し主に反旗を翻した、従ってわたしもそのサタンの手先であろうというのです。


 わたしは困惑しました。まあ、たしかにあの方は少々変わったところがあり、なにやらひとりでぶつぶつつぶやいていたり、影だの闇だの、およそ天使に似つかわしくないものを好んだり、ゲーム理論とかいうものの本を読んでいたりしましたが、まさか、身の程知らずにも、裏切りをはたらくとは⋯⋯

 

 このままでは悪魔の仲間にされてしまうと思ったわたしは、必死に否定しました。あのときほど饒舌になったことはなかったし、これからもないでしょう。


 自分は主に仇なそうなんて思ったこともないし考えたこともないしあまつさえ今の今までそのような不敬な概念が存在することさえ認知していなかった。裏切りとか叛逆とかそんな言葉も初めて耳にしてたった今その意味を知ったくらいである。それが何なのかすら理解していない行為をどのように行為することができるだろうか。たしかにあの方のことを慕っていたがそれはわたしがあの方の思想や正体にまったく気づいておらずその影響を受けてもいなかったことの歴然たる証左である。もしもあの方の胸の内にかようなおぞましい思惑がうごめいていると知っていたのであればこうなる前にわたしは自らあの方の心臓を槍で貫いていたであろう。しかし今にして思えば普段から怪しいと思えるような言動は多々あったかもしれない。主への礼讃と慈愛に輝かんばかりに見えていたあの笑みも偽りくさいし澄みわたったせせらぎのように聞こえたあの声も不自然にこしらえたもののように感じられてきた。天の国を管理し人を導くに完全無欠と思えた数々の教えも悪辣なプロパガンダの隠れ蓑であったにちがいない。このような許しがたい蛮行愚行暴挙軽挙妄盲動に及んだ悪魔はぜひともこの手で討ち取りたいからよかったらこの手を放してもらえないでしょうか?


 しかし、力天使たちは言うのです。あれほど慕っていた者のことを、いくら道を外れたからといってこうも悪しざまに罵るとは、やはり貴様もサタンの害毒たる思想を流し込まれているにちがいない、と。


 侮蔑と嫌悪をあらわにしながら、力天使たちは泣き叫ぶわたしを主の御許へ連行していきました。あれが憎悪に毒された罪人の顔だよと、すれ違う天使たちがささやいています。わたしを見る目の冷たさを、生涯忘れることはありません。ああ、わたしは本当に罪を犯したのでしょうか?


 わたしは天界を追われ、天使ではいられなくなりましたが、地獄行きは免れました。人間として転生し、人の間で神の教えを実践し、悔い改めるように言い渡されたのです。


 とはいえ、生老病死とは無縁な天の国と比べれば、地上での生活も地獄と大差ないように思われました。


 体は重く、食べなければ飢えにおそわれるため、始終糧を求めて奔走しなければならず、初めて体験する痛みや疲れは、ややもすると主の名を呪いたくなるほどいまわしいものでした。


 しかし、天使としての心は失われずに残っていたのです。


 あてもなく荒野をさまよい、たどり着いた村で、人びとは病に苦しんでいました。わたしは天界の書庫で得た知識から、それがありふれた野草を数種調合して処方することで簡単に治る病だとわかっていました。

 

 故も知れぬ旅人が差し出す薬に、村人たちはけげんそうな顔を隠しませんでした。しかし、ひとたび効力があることが判明すると、わたしは救世主としてもてはやされたのです。


 ただ天界の知識を借用しただけであり、自分の力によるものではないと自らに言い聞かせながらも、わたしは自然に浮かんでくる笑みを止めることができませんでした。


 きっと、わたしはこうするために人間になったのかもしれません。はるか天の高みから見下ろしているだけでは、人間たちの苦しみや喜びの、万分の一も理解できないのでしょう。


 これまでの一切のことは、開闢から終末に至るまでの森羅万象を端倪する主の偉大なる計画の一環だったのではないかとさえ思えたものでした。


 でも、ここで幕を引くことができないからこそ、わたしの物語は悲劇なのです。


 あるとき、都から使者が来訪し、人びとに申し渡しました。


 いわく、怪しげな魔術で人心をかどかわし、王の治世を乱す魔道士が国のあちこちに出没している。すでに処刑者は358人にも上るが、いまだに根絶の兆しは見えない。疑わしい者がいれば教えてほしい。もしも魔道士を匿うようであれば、王と主に弓引く悪魔の巣として、聖騎士の軍勢がこの村を地上から抹消すべく派遣されるであろう、と。


 村人たちは、いっせいにわたしのほうを見ました。彼らの目に怯えと恐怖があることは理解できましたが、嫌悪と憎悪すら含まれていることに、わたしは慄然としました。


 忠実なる臣民の協力に感謝する、と使者は締めくくりました。


 わたしはそのまま都まで引きずられていき、わたしが助けようとした人びとに石を投げられながら、火にあぶられて死ぬことになります。


 塗炭の苦しみにもだえながら、しかし安堵の気持ちもありました。


 このまま死ねば、再度天に昇ることができる。人びとを救おうと動いた帰結に、殉教者として生命をまっとうしたのだから、また天の国に入ることができるだろう、と。


 気がつくと、わたしは懐かしい天の門の前に立っていました。天の御遣いではない不浄なるものの通過を許さない、絶対なる清浄の帷です。


 また天使になれるとばかり思い込んでいたわたしは、喜び勇んで駆けてゆきました。しかし、それこそがわたしの傲慢だったのでしょう。


 主の代理人たる輝く巨大な熾天使が忽然と現れ、行く手を阻みました。そして、この門をくぐることは許されないと宣告するではありませんか。


 わたしの地上での行いを主は見ていてくださったはず、主に会わせてほしいと懇願しましたが、出張中とのことで取り合ってはもらえませんでした。


 見下げ果てた奴だ、と偉大なる熾天使は呆れました。貴様のような哀れで傲慢な者を、二度と天界に迎え入れるわけにはいかない。

 

 そしてその場で、わたしの地獄行きを下したのです。


 すぐ目の前にあった祝福と幸福の国が見るみるうちに遠ざかり、地上を突き抜け、神の光も届かぬ暗いくらい地の底へと、わたしはどこまでも堕ちてゆきました。


 かつては敵対していた悪魔に混じり、元天使が夢魔に身をやつしていることに嘲りを受けながら⋯⋯今に至ります。

 

 天の光に浴することは、二度と叶わないでしょう。


 とか何とかおおむねこのようなストーリーを教えてくれるだろうがおそらく理解するには小声すぎ共感するには早口すぎ解釈するには舌足らずすぎるお世辞にも流暢とは言いがたい話しぶりで語られるであろうゆえに実際にマーカに声をかけてみようと思う暇人がいたところでそのいきさつの半分も呑み込めないにちがいない。


 というわけでマーカがいつも明度〇の暗いくらーい顔をしている理由を正確に把握している者は地獄に誰一人としていなかったし当然夢魔としてもその名はまったくの無名であったのかと言えば決してそうではなかったが知られている理由がその低能力にゆえんするとなればまったくの無名であったほうがいくぶんかましだったであろう。


 夢魔というのは夢魔と言われるだけあって夢を見せることにより人間の精気を集め地獄に送り届けることを職務とするがそのためには無論激しく狂おしくかぐわしいほどの劣情を催させるがごとき夢を演出することが望ましくしかしいまだに天使としての自分をひきずっているマーカにとってのそれはそれはそれは難しいというかどうやったらいいのかすらてんで検討がつかないたぐいの難問だった。


 おかげで夢魔としての成績は最初から最後まで地を這っておりあまりにも向上の兆しが見えないのでもしかしたらこいつは本当は夢魔じゃないんじゃないかとそんな錯覚を見る者に覚えさせるほど見事な這いずりっぷりだった。


 山や塔ならばひたすら頂点が目立ち底辺に注目が集まることなどなかっただろうが残念ながら仕事ではそうはいかず必然的にマーカはそれはそれはとてもとても目立った。天界にいたときですらこんなに目立ったことはないと自分自身でも思わざるを得ないほど目をつけられていた。


 同じ夢魔たちには無能と嘲られ莫迦にされいじめられ棍棒の振り回し方と大声の出し方くらいしか知らない獄卒たちにすらその悪名はとどろき近くをマーカが通りかかるたびになにかとからかわれどやされこづきまわされる日々。月々。年々。


 いくら自分は天使であるとの自負を忘れがたい忘れ形見として胸に抱え込み腐らせ発酵させ続けてきたマーカといえどもいい加減に嫌気がさした。


 好きでやっているわけないじゃないですかと言い返すこともできないし言い返したところで地獄至上最悪の働きぶりしか示していないという事実が覆るわけじゃなし。


 元来やや真面目だったこともありマーカは夢魔としての仕事に多少前向きになりまず勉強をすることにした。


 フロイトとかいう人間の書いた本を地上の書店で立ち読みしているところを他の夢魔に見つかりなるほどお前は夢魔ではなくサボリ魔だったのかなどというくそおもしろくもない揶揄と上級夢魔からの譴責を受けたが果たして学習の成果はその代償に見合うものであったのかと問えばぜんぜんそうではなかった。


 性的連想を喚起すべく部屋・帽子・扉・洞窟・葉巻・杖・窓・風船などの象徴をこれでもかと詰め込んだ夢を見せたのだが結果としてあまりにも退屈すぎて夢も見ないほどの深い睡眠にいざなっただけに終わった。


 失敗した意味がわからず首をかしげるさまに呆れ果てた上級夢魔は手本として同僚の夢魔が作り出した夢を見せてやることにしてマーカはそれを見たが◯■※が◇#✕◆□して●⚫️◎◇◇を・※#♪○◇と◎▢▦❑に○◇✕?◇!で◎††?!◇#そして♪○XXX◎◇◇する場面まで来たところで気がへんになり大声で笑い始めたためあえなく中断となった。


 あまりにも刺戟が強すぎたためマーカは眠れなくなりふらふらと地上をさまよっていたところうっかり人間の屋敷に入り込んでしまい不審人物としてそのまま囚われの身となった。あはは。


 屋敷の主人に出自を問われ正直に夢魔ですと応答したところ焼けた火かき棒でつつかれたためいやあの本当なんですってばと悲鳴を上げじゃあなんかやってみろと促され今世紀最大の集中力でもって念を送った結果中庭で居眠りしていた庭師にとてつもない夢を見せることに奏功したがあまりにも刺戟が強すぎたため庭師はそれから死ぬまで眠れなくなった。


 主人のもともとさほど見目よくもなかった目の色が変わりますます醜くなりマーカは震え上がった。


 お前が夢魔だろうがキ印だろうがどうでもいいが痛い思いをしたくなければ言う通りにその夢を見せる超能力を使えと脅されすっかり火かき棒のことが嫌いになっていたマーカは首を縦に振る機械人形と化した。


 それからマーカの地獄のような日々が始まったと言えなくもないがべつにもとから地獄にいたわけだし地獄に来る前にいた地上も地獄みたいなものだったし考えてみればのべつまくなしに地獄だったので今に始まったことではなかった。


 来る日も来る日も横暴な主人に命じられる通りマーカは来る人来る人に夢を見せ続けた。


 淫靡な夢を見せることにかけては三蔵法師にも劣るマーカだったが夢を見にやってくる人びとはたいてい非常にリアリスティックかつディティールの詳細な夢のスクリプトを携えてきたのでそれをなぞるだけで誰をも満足させるような夢を描くことができた。


 それでもしくじることはありたとえば亡くなった夫と抱き合っていたら急に相手がクロコダイルになったとか憧れのアイドルと会話していたら投資信託を勧められて契約書に血判を押すよう脅迫されたとか空からパプリカが降ってきて押しつぶされたとかそういう苦情が入るたび悪辣な折檻が飛んでくるので客足は絶えなかったが生傷も絶えなかったし切傷とか焼傷とか揚傷とか蒸傷とか煮傷とか干傷とかも絶えなかった。


 まったくもって地獄が懐かしくなってくるくらいの地獄であり地獄にいたときも仕事をしくじるたびにというかそもそも成功したことがなかったので何と比してしくじりと言えるのかどうかさえよくわからないがとにかくしくじるたびにぶっ飛ばされることはあったもののこの家の主人の折檻ほどきついものではなかった。


 そのようにして無情に日々は過ぎ去ったが無情というまでもなくもともと時は無情である。いつしか屋敷の周囲に住む人びとは不思議な夢を見るようになった。


 悲壮な顔つきをした夢魔が檻の中で失敗しませんように失敗しませんように失敗しませんようにと一心不乱につぶやきながら紙をめくっているという平均値から見てかなり悪夢よりの夢だった。


 この夢をどう解釈すればいいのかと問われた近所の精神科医は答えに窮したぶん転職をしたいという深層心理の表れでしょうとお茶を濁していたがそれもある日無職の患者が来院するまでの話だった。


 同時期にマーカも不思議な法則に気がついた。最近やってくる人びとが誰も彼も同じような人物を夢に登場させたがるし名前まで一緒なのである。


 どこかで聞き覚えがあるような気もしたが困憊と痛苦に疲弊した記憶力はぼんやりと雲散霧消しかかっておりはっきりとした像を結ぶことがなかった。


 実のところそれは終始最下層にへばりついていたマーカとは真反対に天を貫かんばかりの最優秀成績を誇る夢魔の名でありその名はラムネイルといった。


 ラムネイルは最終処分場のゴミ溜まりから生まれた。昔は夢魔と言えば処刑場から生まれたものだが処刑場も処分場も同じようなものであるし蓄積されたカルマの総量も似たようなものだったので処分場から生まれる夢魔がいてもおかしくはない。


 たまたま電子機器の骨や肉の残骸がより集まったところで発生したため生まれつきメディアに親和性がありその能力は仕事上いかんなく発揮された。


 あるときどこかの国でというのはどこの国でもありうる話であり特定する必要がないからどこかの国とするのだがそのどこかの国でテレビをつけっぱなしにしながら一人でうとうとしている人がいた。


 突如テレビの中にラムネイルが出現し救済のご用命はこのラムネイルまでと高らかに歌い上げると同時に存在しない電話番号と存在しないURLを砂絵で描いて見せふっと息を吹いた瞬間目が覚める。


 当人にとって今しがた起こったことが現実なのか夢なのかはっきりしないはっきりしないがラムネイルの姿形と声だけは十戒のごとく脳に刻み込まれている。


 このようなイベントをありとあらゆる国のありとあらゆるテレビをつけっぱなしにしたまま一人でうつらうつらしている世帯で繰り返したので自然な流れとして人間界はラムネイルの話題で持ちきりになった。


 人心がいささか純粋だったころの熱狂として顧みられず埃をかぶるままにされていた都市伝説が現代によみがえったのだとこぞってメディアが取り上げそれがますます話題性に拍車をかけた。


 ラムネイルは毎回微妙に演出を変えたため目撃者の証言は少しずつみな食い違っていた。砂絵じゃなくてシャボン玉だったり救済じゃなくて祝祭だったり最初の登場時に上から来るか下から来るか右から来るか左から来るか。


 しかし決して変えない部分もありそれがすべての夢の共通項として広く共有されたことがただの妄想ではないことの根拠としてミームの強度を高め安易に消費されつくすことを拒んでいた。


 とはいえそうした細やかな工夫が本当に必要だったのかどうかは定かではない。あまりにも多く大多数の圧倒的な人数がラムネイルのことを目撃したためである。


 はなから疑ってかかっていた人びとも実際にその姿を目の当たりにしては宗旨変えを迫られざるを得なかった。


 夢うつつのさなかの出来事であり厳然と現実の現象であると限定できはしなかったはずだがそれでも流行に乗りかかる気にさせられたのはラムネイルがありとあらゆる人間にとって抗いがたい魅力を備えているがためであった。


 そもそも夢魔がなぜ夢魔と呼ばれるのかと言えば夢のように美しくうるわしいからでありラムネイルの姿を一目見た者は老若男女問わず一撃で胸の芯を穿たれた。


 この邂逅を機として現実世界の恋人への興味がまたたく間に冷め破局を迎えたカップルは30日間で238,559組に上ると推定され別れなかったカップルは不眠症を疑われた。


 目撃者が増えると共に爆発的にラムネイルのイメージも拡散され数え切れない文章や画像や動画が世界中で生み出された。


 話題が膨れ上がるにつれまだその姿を見たことがない人間も目撃者を羨ましがり自発的に一人になってはテレビをつけたまま眠りこける習慣が広まったためさらにさらにラムネイルのことを知る人間は増える一方だった。 


 当然企業も放ってはおかずあるカップラーメンのCMがこの都市伝説のパロディーを行ったことを皮切りに続々と商品化が進んでいった。


 ラムネイルはアニメになりゲームになり映画になり抱き枕になり着ぐるみになり肉まんになり電車になり大使になりマンガになりバスになりぬいぐるみになりアイドルになりカーナビになり香水になりコインになりシールになり紙芝居になり実写になりホテルになりトランプになり切手になり指輪になり印鑑になりブランドになりTシャツになり缶詰になり箸置きになりアドバルーンになりワインになりシューズになりコンテナになり積み木になりプリンになりチェス盤になり時計になり召使いになりジュースになり豆になり人形劇になりタワーになり株になりカクテルになりクラシックになり鏡になり衛星になり祭りになり看板になり地名になり楽曲になり着物になり符牒になりAIになりフィギュアになり電子レンジになりエナジードリンクになり数式になり絵画になり四コマになり広告になりトイレットペーパーになり行事になり演劇になり雨模様になり騎士になりクレジットカードになりスタジアムになり山になりサメになり図鑑になり雑誌になりくじになり暗号通貨になりサイコロになりロボットになり自転車になり駅になり回線になりテーマパークになり応援歌になり卒塔婆になり小説になり薬になり旅館になり傘になりグミになり儀式になりりんごになり銅像になり日本酒になり道路になりポスターになり新聞になり保険になりカフェになりボイスドラマになり大学になりポケットティッシュになり仏壇になり山車になりノートになり猫になり宝石になり星になり星座になり☆5になり人権になりマンホールになり飛行機になり花になりライバーになり神殿になり貨幣になり原子になり哲学になり象徴になり言語になり単位になり美になり意義になり道義になり大義になり法律になり常識になり普遍になり理となった。


 当初はラムネイルにあやかった新しい商品が発売されるたび時空がねじ曲がっているとしか考えられない速度で売り切れダイヤモンドさえ駐車場に敷き詰められた石ころとしか思えなくなるような高値で取引される光景があちこちで繰り広げられていた。


 ある人気ソーシャルゲームのガチャにラムネイルが実装されたもののさる国の元首が国家予算を使い果たすほど回しても出てこなかったことから確率の偽装が発覚し財政破綻の真相に怒り狂った民衆に国を追われる間際に軍へ運営会社への爆撃を命じたといういざこざもそのころ数多巻き起こった騒動のごく一角に過ぎなかった。

  

 しかしそんな狂騒もラムネイル張本人が自らの崇拝者たちの夢に直接登場することで幕切れとなった。


 夢などというものは見ている当人にとっては現実そのものなのでありラムネイルの顕現も妄想ではなく現実の出来事として受け止められその夢魔の目の色がわかるほどの間近で語りかけてくるとなれば朝の覚醒の瞬間にそのまま舌を噛み切りたくなるほどの苦痛に悶絶した人間も少なくなかったし本当に噛み切った者もいた。


 だがラムネイルは夜ごと人びとの夢の中へ訪れた何度も何度も何度も。他の夢魔からは営業妨害であるとの非難もよせられたが地獄の運営方針は成績至上主義であり結果を出している以上は常に優先権をあたえられるのはラムネイルであり他の夢魔ではなかった。


 思いのままの夢を求めてあれほどひっきりなしにマーカの囚われた屋敷を訪ねていた客足が途絶えたのもこのころのことだった。


 ただ粗雑にラムネイルの姿や逸話を利用しただけのそまつな既製品にわざわざ身銭を切らなくとも電灯のスイッチを切り全能の夢に漕ぎ出せばいつでも会えるとなれば誰もちんけな商品に見向きもしなくなるのは自明であった。


 商機と見てラムネイル頼みで起業された幾万の会社はうたかたのごとくその名を散らしたが途方に暮れる経営者や従業員たちも夢の中に現れたラムネイルになぐさめられるとすぐに損失のことなどどうでもよくなるのだった。


 それまではラムネイルの見た目や声のことは広く共有されていてもその性格や人となりがどうであるかということについては共通した見解が持たれていなかった。


 たいてい解釈者自身にとり都合のよい人格を付与されそれが人びとの間で軋轢を生むこともあって企業がイメージキャラクターとしてラムネイルの姿を借りる際には当たり障りのない過去に百万回も見たことがあるような性格付けをされるに留まっていたためどこか人形めいたところがまだあった。


 しかしひとりひとりの夢の中に登場したラムネイルはひとりひとりが想像していたより何倍もの迫真性を持ちオルゴールのようなやさしさとやわらかさを兼ね備えていた。


 誰もラムネイルの正体が夢魔などとは考えなかったしたとえ気づいたところでブッダでもイエスでもないただの人間たちにその魅力をはねのけることなどできはしなかったであろう。


 それと知らずおのおのが心の奥深い海溝で密やかにはぐくんでいた理想の至高の憧憬の原型。ラムネイルはメディアに身を浸したおかげで人びとがそこに投影し続けてきた無意識を掌握し誰もが抵抗しえないほどの親しさとやすらぎと可憐さと殊勝さを身につけるに至ったのだった。


 夢で人びとはラムネイルに自分の話をしゃべりまくった。現実の重力に縛りつけられていない口は軽く覚醒時には間違っても言わないし言えないようなことすらも躊躇なく暴露した。


 ラムネイルは懺悔を聞く司祭のごとく黙って耳を傾けあらかた相手が胸の内をぶちまけたことを感じ取るとひたすらなぐさめの言葉をかけた。


 否定したり反省を促したりべつの見方を提案したりといった野暮なことはせずただ同調し共感し肯定し許容し実のところさほど気高くもないし高潔でもない子羊の人格の気高さと高潔さを褒めたたえるのだった。


 夢を見ている当人にとって理想そのものであるラムネイルからそのような言葉をかけられたらひとたまりもなく危うく目を覚ましてしまいそうになるほどの高揚感に心が包まれはち切れそうなくらいの愛とかその他の感情がラムネイルに向けてほとばしるに決まっている。


 夢がこんなにも離れがたいものとなった今現実などただのおまけに成り下がってしまい起床を拒否する者が続出しどの学校でも会社でも来ない人数が来る人数を上回っていた。


 経済活動が停滞しついでにひたすら寝ているだけなので人類の健康状態も衰退しこのまま世界が滅んでもおかしくないような流れを辿りつつあったが人類にとってはべつにそれでもよかったかもしれない。


 そもそもどうしてここまでやるのかとラムネイルに誰かが訊ねてみたならば次のような理由を述べるにちがいない。


 新記録。


 人類はおろか同族の夢魔すらも気づけなかったことだがラムネイルはとても不幸だった。生まれたその瞬間から夢魔の頂点に上りつめた今まで一度たりとも幸福を感じたことがなかった。


 その胸にあるのはただただ憂鬱のみでありもしも親がいたならばなぜ生んだのかと憎むこともできたが親らしい親といえば電子機器のスクラップしかなかったのでそれすらもできなかった。


 人間なら死を考えたかもしれないがラムネイルは夢魔であり夢魔はその死んだ先の世界である地獄の住人であるゆえ死後の結末をすでに知ってしまっているとなれば死ぬ気にすらなれなかった。


 究極の謎として仰々しく死後のことを秘匿されたまま生きて息絶える地上界の人間がときおり羨ましくなるくらいだったがよく考えれば実際に死んでみたところでたいしたことはなかったとがっかりするだけなのであまり羨ましくはないと思い直した。


 何をやってみても面白くないし楽しくないし充実感も満足感もない心は万年灰色の雲模様。


 夢魔としての仕事というのもべつにほかにやりたいこともやるべきことも何もないからやっているだけのことであり地獄で最高の夢魔を目指すというのもほかに目指したいことも目指すべきことも何もないから目指しているだけのことであり本当は心底どうでもいいし意味もないのだがしかしそう考えてみたところでもともと真っ暗な心がさらに墨を流したがごとき闇黒に染まるだけなのでだいぶ前からつとめて考えるのはやめていた。


 とりあえず人類がこのまま滅ぶと新記録を目指すという暇つぶしが継続できなくなり余計なことを考える暇な時間が生じてしまうというわけでラムネイルは夢から抜け出すことにした。


 至福のひとときを夢で過ごしたのち耳障りなアラームに目覚めたある人が顔を横に向けるとそこにラムネイルがいた。


 残念なことにその人は衝撃のあまりそのまま帰らぬ人になったがそうならなかった人びとはあえて説明するまでもないが非常に狂喜乱舞したし夢でラムネイルと懇ろになっていたありとあらゆる人びとがこの奇跡を体験した。


 数億数十億の起きぬけの人の目の前におのおのがまさしく夢にまで見たラムネイルの尊容が実在していた。


 もともと分裂はラムネイルの得意とするところでありだいたい分裂でもしない限り一度に多くの人の夢に現れることができようはずもない。夢魔といえど体はひとつであり一人の人間に夢を見せている間にべつの人間の夢にも出てくることなど普通は不可能なのである。


 それができたのはやはりその特異な出自に由来した。


 もともとメディアへの親和力を持ち憑依することさえできたラムネイルはそれを駆使しテレビを通してその名を知らしめたのだがそうしたことを繰り返しているうちに力がますます強くなりメディアがひとつの情報を一度に多くの人間に電送するごとく自分自身を多数の人間の夢に召喚できるようになったのだった。


 遍在するラムネイルはひとりひとりの人間に合わせて挙止を考えていたのかと言えばそんなことはなく相手の言葉に自動的に反応して話したり動いたりするように分身たちをプログラムしていたので人間たちは鏡に向かっておしゃべりしているようなものだったのだがそんなことには誰も気づかなかった。


 しかしさすがのラムネイルも現実においてはたったひとつの体しかないということには変わりないため実のところ人間たちが実在していると思っているラムネイルたちはそのひとりひとりの人間自身にしか見えておらずつまるところ目を開けたまま見ている夢の延長線に過ぎないのだった。


 とはいえそんなことも人間たちにはどうでもよかった。夢に見たラムネイルが現実に降臨したと信じて疑わずどこへ行くにもラムネイルがついてくることにも違和感を持たずレストランで一名様として通されることにも何も感じずただただ無限に上映される夢を見続けられることに満足していた。


 夢と現実の境目がなくなり起きていても眠っていてもラムネイルに会えるのであえて眠り続けようという人はいなくなりとりあえず経済活動も再開されたがしかしどの人も自分の傍らにいるはずの他者からは見えないラムネイルと始終しゃべり続けていたしそれだけで終始満ち足りていたので経済活動と言ってもまことに細々としたものだった。


 埋めるべき不足はもはや存在しなかったのでそのころの街ゆく人びとに今ほしいもの求めるもの希望するものを訊いてみたところでおそらく目に見えないラムネイルと話すのに忙しく無視されるだろうが仮に回答を得られたとすると次のような言葉だったにちがいない。


 何もない。


 子どもをつくろうという人もいなくなり畢竟人類は滅びの道をたどることになったがこのような状況に危機感を覚えた者がおりそれは地上にいる人間でも天界にいる天使でもなく地獄にいる夢魔でありその名はキヨールといった。


 キヨールは自分が本当は夢魔ではなく天使なのだと思い込んでいた。


 しかしまわりにいる人物は誰もそのことを真に受けなかった。というのもキヨールは地獄でも有数の名家の出身でありその血筋は宇宙創成以前にまで遡れるとされていたためである。


 だがその謂れに見合うほどの能力を持っているとはお世辞にも言えずというより人並みの能力さえ持っていなかったのでキヨールは一族の恥とされ家系図からも名前が抹消されていた。


 かつては魔王すら輩出しそれには及ばずとも有力な貴族として地獄の軍団を率いた歴々がいくらでもいたというのにキヨールは生まれてからいつまでたっても傑出したところを示さずそれどころか凡庸とすら呼べない劣等ぶりを発揮し続けたためどんな地位も仕事も任されなくなり血の湖に立地する屋敷を追い出されとうとう実働部隊として他の夢魔に混じって働くことを余儀なくされたのだった。


 名を知られた家の出であることは本人にも本人の直属の上司たちにも人格の破壊を伴う呪いが込められた箝口令により秘密厳守が申し渡されていたが噂より強い呪いなどないわけであり結局キヨールの出自はほとんどの夢魔に勘付かれていた。


 名家の威光に怯えた上司たちによりキヨールの成績は改ざんされいつでもちょうど中等くらいのパフォーマンスであると周知されていたが実のところそんなものではなくマーカと肩を並べられる程度すなわち最下層だった。


 成績が不正なものであることはその仕事ぶりを見ていればどれほど勘の鈍い夢魔であろうとたやすく察知できたので当然の帰結としてキヨールは莫迦にされ通しだった。


 そのころである。キヨールが自分は夢魔ではなく天使だったのではないかと思い始めたのは。


 出身の秘密は守られていると未だに思い込んでいたキヨールはなぜ同僚たちから執拗にそしられるのかがわからず悩み抜いたあげくに自分が実は天使なのであってその異質な雰囲気をそれとなく仲間の夢魔たちは察知しそのために異物扱いし排斥しようとしているのではないかと結論付けた。

 

 それを口にしてみたところますます孤立した上ひどくなじられるようになりもともと不幸だったキヨールはとても不幸になった。本来いるべきではない場所にいたことに気づいてしまい天界へ帰りたいのにどうすることもできなかったためでもあった。


 考えれば考えるほど自分が天使であるという証拠はいくらでもあるように思われたとえば家系図から名前を抹消されたのも純粋な地獄の血筋ではないためだろうし家を追われて一般の夢魔に身をやつすことになったのも最後に会ったのがいつかもわからない両親のどちらかが天使と過ちを犯したことが発覚したためだろうし地獄で任されたありとあらゆる仕事がうまくいかなかったのも本当は天界で天使の仕事をすべきだからだろうし親しくしてくれる者が誰一人いないのも自分が天使であるからだしどこに行っても莫迦にする声が聞こえるのも自分が天使であるせいだし毎朝吐き気が止まらないのも地獄の食物が天使である自分には合わないから当たり前だし子どものころ家族と離れて別棟の塔の中で暮らすように言われいつも食事も一人でとっていたのも自分が天使だとみんなが気づいていたためだし熱を出して苦しいと言っても誰も来てくれなかったのも自分が天使だったからだしあのカラスがどこまでも追ってくるのも自分が天使だと見抜いているためだし上司がこちらを見て何かをささやいたのもきっと自分の正体が天使であることを知っているからだし脱いだ衣服に羽毛が付いているように見えるのも背中に羽が生えていたころの名残りにちがいないし幼少のころ何らかの間違いをするたびに兄弟たちにはそんなことをしなかったのに自分だけ裸の背中を鞭で叩かれたのも生えかかった天使の羽をむしり取るためだったしときどき高い崖から飛び降りてみたくなるのもきっと天使として空を飛びたいという本能がうずくからにほかならない。


 自らが天使であるとの確信を深めるにつれてキヨールが人に見せる夢にも変化が表れた。


 表れたとはいえ相変わらず夢魔の本分たる情欲をかきたてるようなものとは程遠いのだがその夢を見た人間はキヨールの思念が憑依したのか自らを今実際にあるごときありようとはべつの存在であると思い込んだ。


 本当は自分はこの地球で生まれたのではないのではないかと常日頃密かに考えていた者はあくる日から私は月からやってきたなどと宣言して出会う人すべてに供物を要求し始めたし本当は自分は人間ではないのではないかと感じていた者は次の日から自らをゴリラと認識するようになりそれが発覚したきっかけはアフリカ行きの航空券をバナナで購おうとしたことだった。


 もはやキヨールの思考様式は夢魔というよりも天使のそれに近く人からどれほど搾り取れるかではなく人をどれだけ救えるかということのみに意識は集約されつつあったのだがもともと実績が最底辺であったため誰もそのことには気づけなかった。


 善きことを企むようになったのは何も神の目に好ましく留まれば再び天の国に引き上げられるだろうと考えたためではなく夢魔ならば夢魔なりに地獄にいるなら地獄にいるなりに天使の本分をまっとうするためなにがしかの試みを試みることができるのではないかと徐々に思われ始めたからである。


 迫害のさなか身に受ける苦痛が減じたわけではなかったものの嘆きがキヨールの意識を占める割合は段々と小さくなりもはや最大の関心事ではなくなっていた。


 今は地獄にあれど天使は天使なのだと本当に本当に思い込み信じるにつれて不遇をかこつよりも果たすべき使命のためあたえられた時間と我が身とを捧げようとキヨールは本気でそう思っていたしそう思っていると思い込みたいと思っているのではないと思っていた。


 ラムネイルが自らの現実逃避のために全人類を現実逃避させつつあったのもちょうどそのころのことだった。


 めっきり仕事が減りやることがなくなりただ地獄の地獄じみた公園や地獄めいた広場で呆けたような顔をして佇むばかりの夢魔たちの中でただひとりキヨールだけが焦りを感じていた。


 もちろん自分の成績が上がらないことではなく人類がこのままウツボカズラのように香る甘い夢にじわじわと活力をむさぼられ滅び去る運命の途上にあるのではないかということを危惧していたのである。


 しかし相手は宇宙創成以来きっての才能を誇る地獄一の夢魔ラムネイルであり控えめに見積もっても宇宙創成以来きっての非力を誇る自分ひとりでは太刀打ちできないであろうということをキヨールは正確に見抜いていた。


 それゆえキヨールは協力者を欲したがまわりにいるのは敵対者ばかりである。天使も自分を天使と思い込んでいる者も両者とも夢魔にとっては等しくいやらしくいまわしく厭わしくいかがわしいのでありそれでも喜んで手を貸そうとする奇特さを持っているのならそもそも地獄の住人になどなっていないのだ。


 とはいえ声をかけてみようと思える候補は一名いてその名はマーカといった。自分と同じく地の底の地獄でなおも地の底をゆかんとする凄絶に低劣な成績しか持たないことに共感を覚えもしかしたら協力関係を結べるかもしれないと考えたのだった。


 ただマーカはずいぶんと前から行方不明になっていた。仮にも地獄の人員のひとりであり閻魔帳にもその名はきちんと記されているはずなのだが今に至るまで誰にも気に留められなかったのはいてもいなくても何の問題も発生しなかったためでありどれほどその存在が忘却されていたかということはキヨールがその所在を問い合わせて初めて行方不明であったことが発覚したという事実からもうかがい知れた。


 最後にマーカが目撃された地点から地上に昇ってみたもののもちろんあてなどなくあちこち探し回ったあげく疲れ果て夜になり眠くなり眠った。夜に眠る夢魔など前代未聞である。キヨールは不思議な夢を見た。


 悲壮な顔つきをした夢魔が檻の中で何をするでもなくぼーっとしているだけという平均値から見てかなり退屈よりの夢だった。


 夢でありながらさらなる眠気をもよおすような光景だがキヨールにとっては雷光の一閃にも似た衝撃をもたらした。


 マーカ?


 その名を持つ夢魔は驚愕をたたえた顔をキヨールに向けた。そのおどろきようときたらマーカ自身も自分自身の表情のレパートリーの中にかような表情が含まれていたとは知らずそのことがさらなる驚愕を喚起したといったていのおどろきぶりだった。 


 そのころのキヨールは完全に自分を夢魔ではなく天使であると信じ込んでいたのでマーカに対してもどうも夢魔ですなどとは言わずどうも天使ですと自己を紹介したが思わずそう口走ってしまってからこの口上はまずくはないかと思い直し四秒遅れていやあのうえっと今は地獄に夢魔としていますが本当は天使ですという追加情報を提供することで事なきを得ようと試みた。


 マーカはキヨールのことをほとんど知らなかったしキヨールもマーカのことをほとんど知らなかったがマーカはキヨールの改ざんされた成績を信じ込んでいて自分とはかけ離れた存在だなあというくらいにしか感じていなかったことに対してキヨールは自分の成績が実際にはマーカとまったく同じようなものであったということを知っていたためマーカがキヨールについて思っていたほんのわずかな印象に比べればキヨールがマーカについて抱いていた親近感のほうが少しだけ上回っていたがたった今のキヨールの一言と次のマーカの一言は互いの互いに関するこれまでの一切のささやかな印象を瞬時に吹き飛ばし転覆させることとなったにちがいない。


 わわっわわわたしもそっそそうなんだ。


 おどろきのあまりキヨールは目が覚めた。

 

 これまでマーカは自分が普段からじくじくじとじとと考え続けていることを人に話したことなど一度もなかったというか人と話すこと自体めったになくというよりそもそもキヨールとは会話どころか会釈を交わしたことすら一度もなかったので当然マーカの事情など知る由もない。


 そのため本当は天使なのに夢魔に身をやつしているという千年に一度あるかなきかの背景を抱えた存在が同時代に自分以外にもうひとりいるなどとはマーカもキヨールも夢の中ですら思いもよらなかったのだった。


 急いでキヨールは二度寝し再びマーカに出会いその話を聞いた。小声すぎるし舌足らずすぎるし早口すぎるが夢で過ぎる時間は何度もキヨールが訊ね返してもなおあり余るほどゆっくりであり邪魔が入ることはなかった。 


 ラムネイルが見せる夢を打ち砕き人びとを救うために力を貸してほしいというキヨールの考えにマーカは一も二もなくうなずきを繰り返した。あまりにも激しくうなずくので首がそのまま取れて床に転がり落ちるのではないかと本気でキヨールが心配するほどだった。


 あわよくば人類救済の功績を至高の主に認めてもらい今度こそ天の国へ回帰しようという目論見がないではなかったがそれよりも心を動かされたのは天使の本分を果たすためにはたった今自分が夢魔とみなされていようが地獄にいようが関係ないというキヨールの言葉に対してだった。


 自分こそが最も不幸な存在だと常日頃考え嘆き続けていたマーカは後ろめたさを感じたはずでありそれもまた一考して無謀としか思われないキヨールの途方もない考えに乗る気になった要因だったのであろう。


 とはいえではどうやって人類を救うのかということについてはキヨールに具体的な策はなくこれまで檻の中で檻の外にいたころと同じように無為な日々をただ過ごしていただけのマーカにももちろんすぐに提供できる案などない。


 とりあえず檻から出しに行くから今いる場所を教えてほしいと言いかけて今さらながらキヨールは気づいた。枕元にマーカが立っているわけでもないのになぜ自分はこんな夢を見ているのだろうか。離れた場所からも夢を見せられるとはまるでラムネイルのようではないか。


 わたしにもわからないけどとマーカは言った。誰か助けてくれないかなあって毎日念じていただけなんだけどね。夢魔ならみんなできることなんじゃない。え。できないの。


 きっとその力で何かできるかもしれないですよとキヨールも言った。わたしにも何か特別なものがあればよかったのですがあいにくぜんぜんです。わたしが見せる夢を見た人が自分をゴリラと思い込んでしまったことが前にありましたけどよくあることですよね。えっ。ないのですか。ええと夢魔なら全員できることなのでは。はあ。ちがう。ちがいますか。そうですか。なるほど。


 キヨールは突破口となりうる策を閃いたがラムネイルの本体の居所がわからなければ始まらない。しかし相手はほとんど全世界の夢を掌握した夢魔の中の夢魔でありどこにいる人間にも夢を見せられるので自分自身はどこにいようが構わないわけでありどこにでも存在しうると言えた。


 あまりにも絶望的な状況におかしくなりあははははははははははと笑いながら地獄に降りてきた二人を通りがかりの夢魔が不気味そうに見つめていたがキヨールが期待せずラムネイルの居所を訊きずっと自分の家にいるはずだけどとの回答を得た瞬間笑いの発作は止まった。


 ラムネイルにしてみれば簡単な話でべつにどこに行く必要もないし行きたくもないしもっと言うならそもそもどこにも存在していたくなかったのだがそういうわけにもいかないのでしかたなくずっと自分の家にいながらにして人びとに夢を見せていたというだけのことである。


 地獄の辺境にあるというラムネイルの家へ骨の船で血の海路をたどるとやがてひとつの小島が見えてきた。


 血しぶきが押しよせる遺灰の浜のすぐそばにある家のザクロの木の茂る庭の中心にラムネイルは座りただひたすら虚空を見つめて毎日を過ごしていた。


 今もそうしておりおそらく真正面からマーカとキヨールが訪ねたとしても微動だにしないはずなのだが気取られるのを恐れる二人はもちろんそんなことは知らない。


 キヨールの閃いた策とはこのようなものだった。まずはラムネイルが眠りに落ちるのを待ち頃合いを見計らってマーカも眠りキヨールも眠る。通常夢魔は対象人物の枕元あるいは胸の上に自らの身を置かなければ夢を操ることができないがマーカの射程はそれを超越する。ならばキヨールもまたマーカのそばで眠りその夢にもぐり込むことで擬似的に長い夢の射程を獲得できるはずだ。夢は人をどのような場所へも連れて行くものである。


 マーカの夢に乗せられたキヨールがラムネイルの夢の中にたどり着いたら自身の能力を発揮して強い思い込みをあたえる。いったいラムネイルが心の奥深く底の底の峡谷の淵の深淵で何を望んでいるのか定かではないため確実性に欠けるのが気がかりだが時は一刻を争うし他にもっと良い策など思いつかないしもしそんなものがあるなら教えてほしいとすらキヨールは考えていたくらいなのでやむを得ず決行を決意する。


 ラムネイルの入眠時間などこの世の誰も知らなかったし今後知ることもない情報であったためマーカはきっかり一時間ごとに船上で船を漕いだがこれは比喩である。屋敷にてあまりにも長い退屈の時間を過ごしたために何もせずにじっとしていると一定の間隔ごとに自動的に眠りに落ちる特性を獲得していたことが幸いした。


 血潮風に押され波間を漂いながらそうこうするうちきたきたきたきたとマーカが寝言をつぶやいた。夢魔ならば寝言くらい自由自在に発言できるのだ。キヨールも急いで眠りに入る。




 

 岩だねとマーカは言った。岩ですねとキヨールも言った。


 一面にあるのは言わずと知れた岩であり岩ばかりであり岩だらけであり岩のみならず岩しかなく岩でしかなく大小の岩長短の岩明暗の岩白黒の岩岩のような岩いまわしい岩いまいましい岩岩みたいな岩岩のごとき岩岩に見える岩岩に似た岩岩めいた岩岩もどき岩を真似た岩岩から成る岩巌なる岩岩なる岩いわれない岩物言わぬ岩いわゆる岩岩岩岩岩岩岩岩岩岩岩岩岩岩岩岩岩が見えとどのつまり岩以外の何物もなかった。


 無数の岩の中心にラムネイルはいた。マーカとキヨールは知らなかったがそのラムネイルの夢の中の佇まいは現実とまったく同じであり同じ姿勢同じ角度同じ憂鬱さで座りただ虚空を見つめているのみだった。


 ラムネイルは二人に振り向いた。その表情を見てマーカもキヨールももしかするとラムネイルこそが自分よりも不幸でありそれどころが夢魔の中で最も不幸なのかもしれないと感じラムネイルもまたマーカとキヨールの無意識を須臾の間に察し自分以外にこれほど不幸な思いを抱いている夢魔がいるなどとは想像だにしなかったためひどくおどろいたしひどくおどろいたのは生まれて初めてかつこれが最後でありさらにラムネイルの不幸を知ったのもマーカとキヨールが最初であり最後であることはすでに運命付けられていた。


 ラムネイルの望みは明らかだった。心の底をのぞき込む必要などなかった。他に何一つとして望みなどないことは一目瞭然であり本人に訊ねたところで無駄であり意味がないということをキヨールは理解した。当初の目的は遅滞なく遂行された。


 次に目覚めたときラムネイルは自分が岩になっていることを自覚した。ただし岩は自分自身が岩であるなどとは考えないため目覚める瞬間に自覚したと言ったほうが正確であろう。ラムネイルの望みは果たされた。


 ラムネイルの念願は生きることでも死ぬことでも何かをすることでもなくただひとつであり考えること感じること判断すること意識することその一切をやめたいとのみひたすらに願い続けていたのだった。


 ラムネイルは相変わらず庭に座っていたが二度と動くことはなかったし人に夢を見せることもなかった。このあと三万年が経過し地殻変動が起こり地獄が解体され小島ごと海底に沈んだときですら微動だにしなかったしそのあとも永遠に不動であり星辰のすべてが一巡りし消えて果てるその日が来てもなお動くことはなくそれまでにただの一度も何かを考えることも感じることも意識することもなかったはずである。


 急にラムネイルが消失したことで地上の人びとはしばらく嘆き悲しんだが一週間後には新しいニュースマンガアニメゲームドラマスポーツアイドルムービーに夢中になっており一年後にはラムネイルの顔すら覚えている者はいなくなっていた。


 キヨールとマーカも目を覚まして安堵した。ラムネイルの冷えびえと荒涼した夢をあのまま見続けていれば自分たちの心まで侵食されてしまうように思われたのだった。


 しかし安堵は長くは続かなかった。えええええええと驚愕の叫び声を上げるキヨールの目の先に光放ち輝くはるか彼方の先端の兆しすら見えぬ果てまで延々と続く長いながい梯子がかけられていたためである。


 マーカは自分がまだ夢の中にいるのかと一瞬戸惑った。しかしすぐにこれは世界を救うという偉業を果たした自分たちを祝福して天に上げさせるため主が下賜したもうた贈り物であると考え直した。


 今ならきっと天国に帰れるよと己の手を引き行こうよと叫んだその声がこれまでに聞いたマーカの声の中で最も明るく快活で美しく清らかで天使そのものであったということをキヨールはいつまでも覚えていることだろう。


 実のところこの梯子は神が遣わしたものではなく目覚めの瞬間にラムネイルが夢魔としてのすべての力を使い果たしてこしらえたものだった。


 世界中の人びとの無意識から結実させた天上のイメージの具現化でありこのようなことができたのはやはり地獄も天国も完全に現実に根ざしたものではなく一種の夢のようなものであったからだと言える。


 多少なりとも二人への恩を感じたがためにしたのであろうと推察されるがもはや岩となったラムネイルへそのことを確かめる手段はなく真実が知られる機会は今後二度と訪れることはなかった。

 

 地獄を抜け地上を越え天空へ昇りついに二人は天上の門の前に至った。絶対なる清浄の帷。自分を天使と完全に信じ込んでいる二人はその門を通れることも信じて疑わなかった。その証拠に門扉は手も触れていないのにひとりでに開き始めている。


 この世に生を受けてからこれほどの幸福を味わったことはマーカにもキヨールにもなかったし互いに微笑み合い駆け出す二人の足を止めることは神にさえできなかったにちがいない。


 二人は門をくぐり抜けた。

 

 門を越えたあと、天の国に立っていたのは一人だけだった。


 




 あれからずいぶんと長い歳月が経ったあともその天使はときおり考えずにはいられなかった。万象の記録の書庫たるアカシャには当然天国自身の歴史も収められていたがいくら必死に探してもそこにあの夢魔の名はなかったしその夢魔が地獄に行く要因になったと話していた天使の名もなかった。


 そこに見つけられたのはただ自分と自分の親となった天使の名前のみだった。


 あの夢魔は自分が天使ではないということを最後まで知らなかったのかあるいは知っていたが知らないふりをしていたのかそれとも最後の瞬間には気づいていたがそれでも自分と一緒に天の門をくぐったのか。アカシャにも答えは記されていなかった。


 このことを考えるときいつもキヨールは最後に見たマーカの顔とその微笑みをありありと鮮明に思い浮かべることができた。だがその微笑みの中にキヨールは答えを見つけられなかったしこれからも決して見出せないであろうと確信していた。


 天国でわざわざ誰かに向かってあなたは今幸福かどうかなどと訊いて回る者などいないがもしも仮にキヨールにそう訊ねたならばきっと次のように答えるにちがいない。


 わからない、と。

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