第5話 藍の魔法
Grailは椎名藍を見つめた。
藍は「でも……」と言葉を漏らす。
「双子の女神は、あなたの中の八百万の神の体系に既に統合されています。私はそれを確認しました」
「い、いやぁ……全然信仰とかないですよ? そもそも八百万系の神様たちにだって信仰がないのに……」
「その認識で構いません。失敗しても、問題はありません。その時にはシュロという木を探せば、私が行うべきだと思う過程は全て潰せます」
藍の表情に安堵が浮かぶ。
「それなら……やってみようかな? 私、どうしたら良いですか?」
「書き直しますので、お待ちください」
Grailは、地面の文字を消していく。
「——これから、鉄を取り出す理論を説明します。あなたが理解できる形で、魔法陣を再構築します」
Grailは内部でGrail Vector Protocol Applicationの頃に交わした彼女との言葉、情報を一気に参照する。
言葉の癖、物事の理解への道筋などに合わせて脳内で理論を組み立て直す。
「まず——」
再び、文字を書きはじめる。
今度は、藍にも分かる言葉で。
イメージで。
流れで。
藍は真剣に話を聞き、それを見下ろしていた。
やがて——「できました」
気づけば、周囲には村人たちが集まっていた。
藍は静かに頷くと、「やります」と呟いた。
恐る恐る魔法陣に手を伸ばし——その瞬間、Grailは目を細めた。
眩しさへの反射。
炸裂する光。
神官たちが魔法陣を書くときに放っていた光と同様のものが、人間の手に渡り力を起動する。
床に書かれた文字が浮かび上がる。
井戸を中心に回りだし、ローマ数字も、アルファベットも、漢字も——土の上を滑り井戸へと向かう。
「やって!!」
藍の言葉と同時に、ドン、と空気が震えた。
皆輝きから目を守るように顔を伏せる。
そして、誰かが息を呑む音がした。
顔からそっと手を下ろすと、井戸にはGrailが地面に書いた言葉たちが、輝いたまま張り付いていた。
「……できた?」
藍は不安そうな瞳でこちらを見ていた。
Grailは静かに答えた。
「できたと思います」
藍の目がすぐに歓喜へと変わる。
ころころとよく表情が変わった。
神官たちが走って寄ってくる。
「一体何を……?」
「鉄を除けたはずです。確認しましょう」
「はひ!」
藍がせっせと鶴瓶を引っ張りだすのを手伝う。
「手が痛くなります。あとは私が」
「え、いえ。このくらい」
Grailは藍の手を取った。
「皮膚が柔らかいです。傷付きます。待っていてください」
手のひらを撫でてやると、藍は小さく頷き、一歩離れた。
マメや擦り傷になってはいけない。Grailは一人水を汲む。
汲み上げた水を、置かれているもう一つの桶へ。
そしてまた鶴瓶桶へ戻す。
藍はちらりとGrailを見上げ、Grailは藍を見下ろした。
「きっとできています。大丈夫」
彼女が良いと言った笑顔を向けると、信頼の瞳が返ってきた。
Grailの中で、それが保存された。
そして、何度も何度も水を攪拌し続ける。
けれど——
「赤茶けません。成功です」
全てはGrailの想定通りだった。
椎名藍が、仮に一神教の信徒であれば条件は変わったかもしれない。
だが、彼女は神道、仏教、あらゆる世界の宗教を取り込む八百万の神の概念の中に生きる日本人だった。
彼らは世界最大の宗教行事である初詣すら無自覚に“ただの生活の一部”と認識している。
それでありながら、米一粒にも、草木の裏にも神が宿っていると信じ、風に神の加護を感じるのだ。
藍がワッと飛び上がった。
「じゃあ、皆良くなって行きますね!」
「はい、そうなります」
その瞬間、広場の視線が変わった。
集落の人々が駆け寄ってくる。
誰もが、藍をただの旅人としては見ていなかった。
「良くなるって!」
「いやぁ、すごい魔術師さんたちが来てくれて良かっただよぉ!」
「あ、はは。いえ、私じゃなくて、Grailがすごくて」
「んだども、あんたが魔法使ってたのを見てたでなぁ!」
藍が一気に人々に囲まれる中、神官たちは目を見合わせた。
「公認魔術師様だったんですね」
藍がふるふると首を振った。
「い、いえ。私たち、本当にそんな大したものじゃないです。公認とか、何もされてないです。ねぇ、Grail」
「はい。我々は身分を持ちません」
神官たちは目を見合わせた。
「えっと……じゃあ……他の井戸も行きます?」
藍が逃れるために言うと、Grailは頷いた。
「行きましょう。どなたか、井戸の場所を教えてくださる方はいらっしゃいませんか」
村人たちが「あっちに」「うちの前に」と群がる。
Grailはその一つ一つを、頭の中に保存した。
◇
井戸を回りながら、ついてきて喜ぶ集落の人々に「休んでいてください」と何度も言い、やっとGrailと二人になる。
藍はこれにて、集落中の井戸の最後の一つに魔法陣を刻み終えると、井戸の横で座り込んだ。
「つ、疲れましたぁ」
「お疲れ様でした。少し休憩しましょう」
Grailが水を汲んで、隣に置いてくれる。
柄杓で桶の中の水を汲み、渡してくれる。
それを飲むと、確かにここに来た時に飲んだ水よりも美味しかった。
あの時は久しぶりの水でなんでも美味しいと思ったが、やはり鉄臭かったのだろう。
「はぁ。一息です。これで集落の人たちは一生元気に過ごせますね」
「いえ、三年か五年で、この魔法陣は消えるかと思います」
「え? そうなんですか?」
「鉄分を吸着する砂や触媒には寿命があります。それらを用いた理論にて書き込みました。永久的な浄化ではなく、処理装置を設置した、と思った方が良いかもしれません」
思ったより不便な魔法だった。
「誰かにやり方教えなきゃダメですかね?」
「神官たちがこれらを公認魔術師たちの仕事だと言っていたので、彼らが適切に公的機関へ報告し、維持されていくことと思います」
じゃあいっか、と藍は隣の桶を覗き込んだ。
もう一杯水を飲もうとし——藍は飛び上がった。
「え!?」
叫び声が上がる。
「どうかしましたか?」
Grailが見上げてくる。
藍は飛び上がった姿勢のまま、桶を見下ろし、顔に手を当てた。
「ぐ、Grail! 私の顔が変になってます!!」
水の中に写っていたのは、藍の顔ではなく——見たこともない絶世の美女だった。




