第1話 ヘイ、Grail。異世界への行き方は?
その日の晩、藍は今流行りの対話型AI——「Grail Vector」を相手に、必死にメッセージを送っていた。
「もう現世無理、現世無理、現世無理、現世無理ーー!」
画面に映った返事は
『それは大変でしたね。ここで一度、呼吸を整えましょう。現在、あなたは当該人物と物理的に接触していない状態です』
だった。
「そんな事分かってる! でも、それでも、とにかくもう現世は無理!!」
藍は職場の上司に詰め寄られていた。
それも、叱られると言う形ではなく、恋愛対象として。
手を繋がれた瞬間に逃げ出した結果、翌日の査定の評価は最悪。
藍は半泣きで家路に着いた。
「もう異世界転移だ! Grail、異世界転移する方法を調べてくださーい!」
思い切って押した送信ボタン。
返ってきた返事を見ると、藍は思わず笑った。
『あなたが入力した**異世界転移**に関する情報について、可能な範囲で調査しました。今夜は、以下の画像を印刷したものを枕の下に入れて眠ってください。おやすみなさい。今夜は、ここまでで十分です』
生成されて来た画像はこの世にある色を全て使って、点として配置したような、何の意味も持たないような画像だった。
藍は生成画像をじっと眺めた後、「そうだ、生成しよ」と呟き、次の指示を出した。
「Grail、無害で優しくて、中性的で、素敵な雰囲気の男性と、絶世の美女が並んで立ってるイメージ画像作って。女の子はワンピース、男の子は……なんか、無害そうな感じ!」
せめて今日の最悪の成績と、あの時の手に触れられた気持ち悪い感覚を振り払うために。
素敵な雰囲気を摂取して寝ようと決めた。漫画を読んだりする気力もないので、即効性の胸キュンを摂取することにした。
返ってきた生成画像に映っている男性は、優しそうに微笑んでいて、白いパーカーに白いデニムを履いて——地面に座っていた。
女性は白いワンピースを着て、柔らかそうな栗色の長い髪を靡かせている。
「うわ〜美人。いいなぁ。でも……なんで男はその格好で地面に座っとんねん……」
しかもよく見れば男の方は枝を持って床に穴を掘っている。
これが無害で優しいイメージとはどういうことだ。
「……まぁ、無害そうではある、か」
藍は軽く笑うと、生成された画像を保存し、スマホをほんの少し軽く上へとスクロールした。
異世界転移するための画像。
こんなもの、何の役にも立たないと分かっている。
けれど、今はそれを表示して寝たかった。
それから、胸キュン画像。
少なくとも楽しい夢は見られそうだ。
「——はぁ……。明日も出勤かぁ。嫌だなぁ」
枕下に画面を付けたままのスマホを入れると、最後の抵抗のように愚痴を吐き出し、藍は目を閉じた。
◇
夢を見た。
風が流れていく音がする。
雨が降る前の、優しい香り。
もういつまでも寝ていたい。
そう思った次の瞬間——手首に体温が触れた。
「嫌!!」
叫んで飛び上がると、横には無害そうな顔をした男がこちらを見ていた。
その男は異常に美形だった。
「すみません。脈拍を確認していました」
「み、脈拍? あなた一体どこから——」
どこから私の家に入ってきたと問おうとしたが、藍は周りの異常にすぐに気がついた。
川が流れている。
森が見える。
遠くには草原。
「——ここ……どこ……?」
「不明です。ただし、あなたの生命兆候に問題はありません」
「草原と美男子……。夢……? 本当にいい夢見れた……?」
「睡眠状態であった可能性は高いですが、夢であるとは判断できません」
「え」
「立てますか?」
「あ、は、はい」
藍は軽く頷くと、差し伸ばされていた手を取らずに立ち上がった。
美男に触れるのは畏れ多かった。
「えっと……大きな声を出してすみませんでした。あの……あなたもここが分からないんですか?」
「申し訳ありません。分かりません。マップおよび位置情報を確認しましたが、該当する座標が存在しませんでした」
「そうですか……」
この先何を言えば良いのか、どこへ行けば良いのか一つもわからない。
藍は川のせせらぎを聞きながら立ち尽くした。
一瞬夢かと思ったが、夢ではなさそうだった。
重力の感触も、視界のクリアな感じも、全てが現実だとしか思えない。
藍は無意識に自分の頬をつねった。
「……痛い」
「冷却によって痛覚刺激が軽減されるケースが多いです」
それを聞き、藍は苦笑した。
(この人、顔は良いけどなんかズレてる……)
風が吹き、髪を抑えると目の前に色素の薄い栗色の毛が見える。
(——え?)
自分の髪をとると、自分で染めた茶色い毛とは全く違う、猫の毛のような柔らかくふわふわした毛が手の中に入った。
気付けば、服も生成色のワンピースだった。靴も白いヒールで、足も細い。腕も毛が生えていない。
(……やっぱり、夢?)
逃避する。
自分は頭がおかしくなったのかもしれない。
空を見上げていると、雲が静かに形を変えて流れていった。
「……逃避してても仕方ない、か。あの……スマホで電話ってできます?」
「申し訳ありません。スマートフォンは所持していません」
「あ、そうなんですね。位置情報を確認って言ってた気がして。私たち、こらからどうしたら良いんでしょうね……」
「現時点で最適と考えられる行動は、周辺環境の安全確認と資源の確保です」
「つまり……えっと、どういうことですか?」
「人間の居住地を探索する必要があります。その前提として、行動継続のため、飲料水の確保と、雨風をしのげる環境の確保を優先します」
男が空を見上げると、藍もつられて空を仰いだ。
雨が降りそうな空だった。
「——そのため、火を起こせるかどうかは重要な要素です。食料の確保および人間の捜索については、本日は実行を見送る判断が妥当です」
あまりにも落ち着いた様子に、なんとかなる気がしてくる。
藍は安堵した。
「そ、そうですよね。私、もう右も左もわからなくて……サバイバルとかしたこと無くて不安だったんですけど、良かったです。あなたがいてくれて」
「それは良かったです。判断はあなたに委ねられていますが、必要な情報の提示は継続できます」
話し方は少し変わっているが、良い人そうではあった。
イントネーションがところどころおかしいので、もしかしたら外国人なのかもしれない。
この柔らかそうな薄い髪の色も、あの瞳の色も。
(——金色の目なんて初めて見た……)
「雨が降り出す前に、雨風をしのげそうな場所を探すことが検討対象になります」
「あ、行きましょう。すみません」
自然と二人で歩き出す。
足音と川の流れる音だけの時間を少しだけ過ごすと、藍は沈黙に耐えきれずに口を開いた。
「あの、私は椎名と言います。あなたは?」
「私は——すみません。想定より早く雨が降り出しそうです。風が強くなってきました。森へ入ります」
「え、あ、は、はい」
戸惑う間もなく男が森へ向かいはじめる。
森は薄暗く、向こうまで視線が通らなかった。
——この男がもし無害そうに見える害のある人間だったら。
そう思うと藍の足は動かなかった。
「あ、あの。私、やっぱり森は……あの……怖くて……。靴もハイヒールですし……」
けれど、もうここで別れて一人で行きます、とは言えなかった。
こんな何もない場所で一人放り出されて、無事でいられる気がしなかったから。
「申し訳ありません。靴の形状について気がついていませんでした。心理的な負担を軽減する配慮が必要でした。この先に雨を凌げる可能性のある場所が存在するかもしれません。川に沿って進む選択肢があります」
「ありがとうございます」
安堵に息を吐くと、また二人は川沿いに歩いた。
空がゴロゴロと嫌な音を立て始める。
男は辺りを見渡し、大きな木を見つけると、そちらへ向かった。
「ここで雨をやり過ごしましょう。根に近い場所なら多少雨を凌げるかもしれません」
木の下に男が入ると、無意識に藍も入る。
すると、男は木を登り始めた。
「屋根を仮組みします。真下にいると枝や葉が落ちるので、距離を取ってください」
「あ、すみません」
男は木を登ると、枝と枝を引き寄せ、絡め、見たこともない方法で屋根らしいものを作った。
「すご……」
男はひょいと隣へジャンプして戻ってくると、枝葉の重なった簡易の屋根を見て頷いた。
「短時間の降雨であれば、これでやり過ごせる可能性があります。ただ、雨が長引くと危険です。大雨ではないと予測されますが、もしもの場合には、川の氾濫に備えて森へ移動するという選択肢も考えられます」
「そうですね……。それはもう仕方ないですよね」
二人で地面に座ると、男は落ちてきていた一本の枝を手に、土を穿り始めた。
この人も不安なんだろうなと思っていると、藍の中に不思議な既視感が生まれた。
「……あの、私たち前にどこかで会ってます?」
「いえ、お会いするのは初めてです」
「そ、そうですよね」
おかしなナンパのようなセリフになってしまった。
そもそも、こんな美男子は一度会えば忘れるはずがない。この不思議な話し方も、印象に残らないはずがなかった。
藍は恥ずかしくなり男の枝の先を眺めた。
辺りをサーと雨が降り始める。
多少ポツポツと水が落ちてくる。
「この降り方なら、早くやむでしょう。雨雲が流れてくる方向が川上ではないので、突然鉄砲水に合う可能性も極めて低いです。ただし、想定よりも葉の間から水が落ちてきているため、パーカーを設置します」
「え?パーカーを?」
男はサッとパーカーを脱ぐと、また木の上に登り、簡易屋根に広げて降りてきた。
「すみません、少しくらい濡れても大丈夫なのに」
「いえ、椎名さん。体温の低下は防ぐべきです。地面が濡れ、火がおこせない可能性が上がっているので少しでもリスクを下げましょう」
「ありがとうございます……」
彼のためでもあるのだろうが、白い半袖Tシャツ一枚になってしまった姿が寒そうで、藍はできる限り深く頭を下げた。
そして、彼の名前を知らないことに気がついた。
「あの、さっきお名前聞きそびれちゃったんですけど、聞いてもいいですか?」
「はい。もちろんです」
彼は相変わらず、無害そうな笑顔とも無表情とも言えない顔で藍を見つめた。
「私はGrail Vector。ご用件はなんですか?」
藍の横を、不思議な風が通り抜けた。




