第九十五話 紡いだ糸は、火を呼ぶ
盆地に残った静けさは、耳鳴りのようだった。
武器を落とした兵たちは、その場に座り込み、互いの顔を見ている。
誰も叫ばず、誰も泣かない。
戦えないと理解した人間の沈黙は、
恐怖よりも重い。
悠一は、糸をゆっくり巻き取っていた。
無色。
細さは糸へ。
縄へ。
綱へ。
使った分だけ、戻していく。
(……重い)
腕がではない。
胸の奥が。
自分が“戦場そのもの”を支配した事実が、
遅れて効いてくる。
「……お前、やりすぎだぞ」
ミロが冗談めかして言ったが、笑えていない。
「派手すぎる」
ガルも頷く。
「俺ら、ほとんど殴ってねぇ」
ニィは、倒れた兵と民兵を一通り確認し、淡々と告げる。
「死者なし」
「だが」
「精神的な影響は大きい」
エルドが、珍しくすぐに口を挟まなかった。
ただ、盆地全体を見渡している。
ラグスの姿は、もうない。
(……逃げた)
いや、違う。
退いた。
彼女は、必要以上に賭けない。
悠一は、息を吐いた。
「……追わない」
「正解だ」
エルドが言った。
「今追えば、“化け物”になる」
悠一は、手首を見る。
ツムギは、静かにミサンガの形を保っている。
助けたのは、一度。
判断が遅れた、あの一瞬だけ。
(……それでいい)
助けすぎれば、依存になる。
助けなければ、死ぬ。
その境界線を、ツムギは守っている。
⸻
■噂は、火になる
問題は、そこからだった。
盆地を離れ、半日も進まないうちに――
異変は起きた。
遠くの空に、煙。
黒く、太い。
「……燃えてるな」
ガルが言う。
ニィが目を細める。
「町の方向」
「規模が大きい」
悠一は、嫌な予感を抱えたまま走った。
丘を越え、視界が開けた瞬間――
それは、確信に変わった。
町が、燃えていた。
家屋の一部。
倉庫。
市場の外れ。
完全な焼失ではない。
だが、選んで燃やされている。
「……何だよ、これ」
ミロが呟く。
人々が右往左往している。
水を運ぶ者。
叫ぶ者。
泣く子ども。
悠一は、走りながら糸を出した。
無色。
縄。
倒れかけた梁を支え、
崩れそうな壁を縫い留める。
「火は……?」
「鎮火してる!」
「誰だ、手伝ってるのは!」
声が上がる。
だが――
次に向けられた視線は、感謝ではなかった。
「……あの糸だ」
「噂の……」
「関わると……」
ざわめき。
恐怖と期待が、同時に向けられる。
悠一の胸が、きしんだ。
(……もう、始まってる)
エルドが低く言う。
「火事は、偶然じゃない」
ニィが即座に判断する。
「見せしめ」
「“糸の使い手に関わると、こうなる”」
ガルが歯を食いしばる。
「……クソが」
ミロが、拳を握る。
「ラグス……」
悠一は、燃え残った家の前で立ち尽くした。
(……俺のせいだ)
直接、火をつけたわけじゃない。
だが、因果はつながっている。
選ばせた。
守った。
戦わせなかった。
だから、別の場所で“選ばされた”。
「……悠一」
ミロが声をかける。
悠一は、首を振った。
「……まだだ」
「俺が背負う」
⸻
■ラグスの“正義”
同じ頃。
別の場所。
ラグスは、燃えた町の様子を遠目に見ていた。
「やりすぎでは?」
部下が言う。
ラグスは、首を振る。
「違う」
「彼が“守れる範囲”を、超えさせただけ」
「正義は、常に取捨選択を迫る」
部下が、眉をひそめる。
「……子どももいました」
ラグスの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
だが、すぐに戻る。
「だからこそよ」
「彼は、選ばなければならなくなる」
「全てを守るか」
「誰かを切るか」
「それが、力を持つ者の責任」
彼女は、静かに続けた。
「私は、彼に“神”になってほしいわけじゃない」
「“人間”であってほしいの」
ラグスは、踵を返す。
「……壊れるか」
「縫い直すか」
「見届けるだけ」
⸻
■炎の中で
悠一は、火の後始末を手伝い続けた。
糸で支え、
糸で運び、
糸で補強する。
だが、限界はある。
全ては、救えない。
一人の老人が、悠一に近づいた。
「……あんたが、糸の人か」
悠一は、頷いた。
「……助けてくれた」
「でも」
老人は、視線を落とす。
「息子の家は、燃えた」
「……あんたのせいだとは、言わない」
「だが」
言葉が、続かない。
悠一は、深く頭を下げた。
「……すみません」
それしか、言えなかった。
ミロが歯を食いしばる。
「謝るなよ……!」
ガルが、肩を震わせる。
「クソ……!」
ニィは、拳を握ったまま黙っている。
エルドが、悠一の横に立った。
「これが、力の値段だ」
「お前は、もう“通りすがり”じゃない」
悠一は、ミサンガを握った。
ツムギは、何も言わない。
だが、確かにそこにいる。
(……一緒に紡ぐ)
(なら、逃げない)
悠一は、顔を上げた。
「……行こう」
「次は」
「選ばせない」
ミロが、息を吐いた。
「無茶言うな」
ガルが、苦く笑う。
「でも、やるんだろ?」
ニィが頷く。
「避けられない」
エルドが、淡々と締めた。
「商売は、さらに悪くなる」
悠一は、少しだけ笑った。
「……覚悟は、できてる」
燃え残った町の上に、夕日が落ちる。
炎は消えた。
だが、火種は残った。
噂は、もう止まらない。
正義は、さらに形を変える。
そして――
悠一は、初めてはっきり理解した。
糸は、守る道具では終わらない。
世界を変える道具だ。
それを使う限り、
炎も、責任も、背負うことになる。




