第九十三話 綱が唸る、街道が裂ける
朝靄が残る谷道は、音が遅れて届く。
自分の足音ですら、一拍遅れて岩に返される。
その遅れが、嫌な予感を増幅させた。
悠一は、指先に糸を巻きながら歩いていた。
無色。
細い糸のまま。
だが、皮膚の上で滑る感触は妙に重い。
昨夜から、胸の内に沈む塊がある。
“噂”が形を得て、世界を歪ませ始めた。
――関わると面倒。
――判断が狂う。
――近づくな。
それは剣よりも厄介だった。
斬れば終わる相手ではない。
だからこそ、次の一手は読めていた。
(……来るなら、暴力で来る)
噂が広がった次に起きるのは、必ずこれだ。
正しさが曖昧になった時、人は“確かなもの”に縋る。
確かなもの――槍と盾、そして命令。
「止まれ!」
谷の入口で、声が弾けた。
岩壁の上。
左右。
前方の折れ。
一斉に人影が現れる。
盾持ちが前に出て、槍が隙間から覗く。
後列に弓。
さらにその後ろに、杖を持つ者が二名。
ミロが舌打ちする。
「……最悪の陣形だな」
ガルが拳を鳴らす。
「やっと派手に来たか」
ニィが即座に数える。
「三十六。上に八。魔術師二。指揮官一」
エルドが淡々と呟く。
「高くついたな」
悠一は、深く息を吸った。
(……選ばせる余地は)
指揮官が一歩前に出る。
昨日の隊ではない。
顔が違う。
目が違う。
迷いがない。
「対象、糸の使い手」
「秩序攪乱の恐れあり」
「拘束ではなく――排除許可」
言葉が、谷に落ちた瞬間。
悠一の中で何かが“切り替わった”。
(排除……?)
ミロが怒鳴る。
「冗談だろ!」
「昨日まで拘束だって言ってた!」
指揮官は冷たい。
「判断が変わった」
「接触者に混乱が拡散した」
「よって危険度上昇」
ガルが前に出ようとした瞬間、悠一が手で止めた。
「……俺がやる」
「派手に、な」
ガルが笑ったが、その目は真剣だった。
悠一は、糸を落とす。
無色。
太さを変える。
糸 → 縄 → 綱。
綱が地面を這い、谷の幅いっぱいに線を引く。
線はただの線ではない。
悠一の意志が、張力として立ち上がる。
「通す気はない」
悠一の声が低く響いた。
「通る気もない」
「ここで終わらせる」
指揮官が腕を上げる。
「弓――放て!」
矢が一斉に放たれる。
悠一は、綱を跳ね上げた。
綱が空を切り、矢を叩き落とす。
一本、二本ではない。
雨のような矢を、綱が“面”で受ける。
「……っ!」
綱が唸る。
張力が腕に食い込み、骨がきしむ。
(重い……!)
だが、止める。
矢が尽きる前に、悠一は青を走らせた。
青――引き寄せ。
狙いは矢ではない。
弓兵の“肘”。
肘の位置が半拍ずれる。
次の矢の放ちが乱れ、互いの矢が交差し始める。
「何だ!?」
「弓が……!」
混乱が起きた。
その瞬間、ガルが突っ込む。
「今だ!」
拳を振らない。
盾の縁へ肩をぶつけ、隊列を崩す。
ミロがすかさず足を払う。
ニィは槍の軌道を読み、わずかな隙間を通して肘を叩き落とす。
三人は三人で、一体のまま動く。
散らない。
離れない。
悠一は、その背中を守るように綱を張り直す。
綱が地面から立ち上がり、盾列の前に“壁”を作る。
盾がぶつかり、綱がしなる。
しかし切れない。
「押せ!」
指揮官の声。
前列が押す。
数が圧になる。
悠一は歯を食いしばり、綱を二重にした。
一本目は地面。
二本目は腰の高さ。
上と下、二枚の壁。
盾列が挟まれて止まる。
「魔術師!」
指揮官が叫ぶ。
杖が振られ、地面に淡い光の輪が広がる。
「拘束陣!」
光が悠一の足元へ這う。
(……来た)
悠一は青を走らせる――が、遅い。
ツムギが、きゅっと締まった。
(判断が遅れた)
ミサンガがほどけ、一本の糸となって悠一の足首へ絡む。
その瞬間、光の輪が“滑る”ように逸れた。
拘束陣が、悠一の足元を外し、綱の壁へ吸われる。
「!? 術式がずれた!」
魔術師が叫ぶ。
(ツムギ……!)
悠一は一瞬だけツムギを見る。
だが、礼を言う暇はない。
次は、殺しに来る。
指揮官が、手を横に振った。
「上!」
岩壁の上から、槍兵が飛び降りてくる。
落下の勢いを利用した突き。
(不屈三牙が狙われる!)
悠一は決めた。
赤は、これ以上使いたくなかった。
だが、ここで使わなければ、誰かが死ぬ。
赤――縁を結ぶ。
槍兵の“突き”と、岩壁の縁を結ぶ。
未来の動作が重くなる。
突きが半拍遅れる。
ガルが叫び、盾代わりに腕を上げる。
槍の穂先が腕をかすめ、血が出る。
「ガル!」
ミロが叫ぶ。
「平気だ!」
ガルが歯を食いしばる。
だが、血が出た。
それが、戦闘の段階を変えた。
悠一の中で、糸が“太く”なる感覚が走る。
(縁が……増えた)
関わった。
守った。
傷つけられた。
そのすべてが糸の強度として積み上がる。
悠一は綱を走らせ、槍兵の足元を絡め取る。
縛らない。
だが、転ばせる。
転んだ槍兵の前に、綱の端が伸びる。
まるで蛇のように。
「ひっ……!」
槍兵が後退する。
恐怖が伝染する。
「……化け物だ!」
誰かが叫ぶ。
指揮官が怒鳴る。
「怯むな! 排除だ!」
その瞬間――谷の奥から、別の音。
馬蹄。
硬い。
「止まれ!」
別の声。
隊列の後ろから、別隊が現れた。
同じ秩序側だが、装備が違う。
紋章が違う。
(……内部で割れてる?)
ニィが即座に判断する。
「違う勢力」
「国の観測者か、別の町連合」
ミロが息を呑む。
「今ここで、正義の押し合いが始まるぞ」
指揮官が振り返り、怒鳴る。
「邪魔するな!」
新しい隊の指揮官が冷たく言う。
「排除命令は行き過ぎだ」
「拘束に戻せ」
秩序が、割れた。
その一瞬の隙。
悠一は、青を最大限に使った。
青――引き寄せ。
狙いは、自分ではない。
谷の出口。
「道を、引き寄せる」
馬鹿げているようで、悠一の糸ならできる。
空間そのものではない。
**自分の“間合い”**を動かす。
綱が地面を這い、谷の出口側の石を引く。
足場が崩れ、隊列の前列がよろめく。
その瞬間、不屈三牙が一体のまま突っ切った。
「抜ける!」
ミロが叫ぶ。
ガルが痛む腕を押さえつつ前へ。
ニィが背後を見て、矢を避けるタイミングを指示する。
悠一は最後尾。
綱を張り、追撃を遮断する。
盾が綱にぶつかり、綱が唸る。
だが、切れない。
(……耐える)
(俺の糸は、弱くない)
悠一は最後に、赤を解いた。
縁を結んだままでは、重すぎる。
余韻が残る。
ツムギがミサンガへ戻り、手首に巻き直される。
谷を抜けた瞬間、背後で怒号が重なった。
秩序同士が噛み合い始めた音。
正義が正義を殴る音。
悠一は振り返らない。
振り返れば、戦いを“選ぶ”ことになるからだ。
ただ走る。
糸を巻く。
呼吸を整える。
ガルが息を吐きながら言った。
「……派手だったな」
ミロが笑う。
「お前が言うな」
ニィが淡々と確認する。
「追撃、来ない」
「内部で揉めてる」
エルドが、いつもの冷静さで言った。
「高く売れたな」
「……何が」
悠一が尋ねると、エルドは短く言った。
「噂」
悠一は手首のミサンガを見た。
ツムギは静かだ。
助けたのは一瞬。
判断が遅れた瞬間だけ。
(……これでいい)
派手な戦闘は、確かに起きた。
血も出た。
赤も使った。
だが――
問題は、ここからだ。
派手に戦えば戦うほど、噂は強くなる。
噂が強くなれば、秩序はもっと牙を剥く。
悠一は糸を指に巻き、無色のまま握った。
(……ほどく)
(派手に、ほどく)
そう決めた瞬間、遠くの空に黒い影が走った。
鳥ではない。
もっと大きく、もっと不吉な影。
ニィが目を細めた。
「……あれは」
エルドが、いつもの調子で言った。
「次の“舞台”が来たな」
悠一は、空を見上げた。
派手な戦闘は始まりにすぎない。
本当の戦いは――
噂の先にある“正しさ”そのものだ。




