第九十話 秩序は、牙を剥く
静かすぎる朝ほど、信用ならないものはない。
鳥の声は遠く、風も弱い。
街道に立つ悠一は、無意識に指先を擦った。
糸は出ていない。
張りもない。
それでも、空気が重い。
「……止まってるな」
ミロが呟く。
街道の先。
昨日まで確かに開いていた道が、完全に塞がれている。
木柵。
見張り台。
簡易の詰所。
即席ではあるが、明らかに「常設を前提」に作られている。
「一晩で、ここまでやるかよ」
ガルが歯を鳴らす。
「もう“対処”じゃねぇ」
ニィが静かに言った。
「管理だ」
エルドが、淡々と補足する。
「物流を止め、道を押さえ、人を分ける」
「秩序が“流通”になった」
悠一は、ゆっくりと前に進んだ。
柵の前で、男が手を上げる。
「止まれ」
声は低く、感情がない。
「ここから先は、通行制限区域だ」
「理由を」
悠一が聞く。
男は、紙を一枚差し出した。
通達文。
昨日までのものに、さらに追記がある。
――糸の使い手は、
――判断を誘導し、
――秩序形成を阻害する恐れがある。
――よって、当面の移動を制限する。
「……制限、ね」
ミロが吐き捨てる。
「要するに、囲い込みだ」
男は否定しない。
「危険因子は、管理されるべきだ」
悠一は、静かに言った。
「俺は、誰も縛っていない」
「誰も傷つけていない」
男は、目を逸らさず答える。
「それが問題だ」
「……何?」
「あなたは、“判断を残す”」
「判断は、混乱を生む」
「混乱は、弱者を殺す」
ガルが前に出る。
「だったら、全部決めてやれよ!」
男は頷いた。
「その通りだ」
「だから、我々が決める」
空気が、はっきりと敵対に変わった。
(……来たな)
これは説得ではない。
宣告だ。
悠一は、糸を出した。
無色。
太さは縄。
だが、張らない。
ただ、そこにあることを示す。
「通る」
男は、静かに手を振った。
合図。
周囲の気配が、一斉に動く。
林の中。
見張り台の上。
柵の裏。
「包囲だ!」
ミロが叫ぶ。
「数、二十以上!」
ニィが即座に判断する。
「殴れば、即“危険人物”認定」
「縛れば、正当化される」
「……詰んでねぇか?」
ガルが唸る。
悠一は、一歩前に出た。
「聞け」
「俺は、選択を奪わない」
「奪わないからこそ、危険だと?」
男は、即答する。
「そうだ」
「人は、選択を与えられると責任を恐れる」
「恐れた者は、暴走する」
「だから」
「選択肢は、減らす」
「それが、秩序だ」
その言葉に、周囲の兵が頷く。
(……完全に“正しい”)
ラグスは、前に出てこない。
だが、思想はここまで浸透している。
悠一は、糸を綱に変えた。
無色のまま。
周囲が、ざわめく。
「……見ろ」
「やっぱり危険だ」
「力を誇示してる」
悠一は、歯を食いしばった。
(見せるだけで、罪になる)
(これが……管理)
ツムギが、締まらない。
(……まだ、俺だ)
悠一は、糸を地面に落とした。
「俺は、ここで戦わない」
「だが」
「退かない」
男が、眉をひそめる。
「それは、抵抗だ」
「違う」
悠一は言った。
「これは、問いだ」
「俺を、どうする」
沈黙。
その時だった。
人垣の後ろから、声が上がる。
「……待ってくれ!」
若い男が、一人、前に出てきた。
「この人は……!」
男が叫ぶ。
「戻れ!」
青年は、震えながら言った。
「俺の村を通った!」
「何も奪わなかった!」
「選ばせた!」
「それだけだ!」
周囲がざわつく。
別の声が続く。
「……うちもだ」
「怖かったけど」
「縛られなかった」
「だから……」
秩序の列に、亀裂が入る。
男が怒鳴る。
「惑わされるな!」
「それが、混乱だ!」
ツムギが、きゅっと締まった。
(……判断、遅れたな)
悠一は、糸を引いた。
青。
引き寄せ。
青年と男の距離を、半歩だけ縮める。
「話せ」
悠一は言った。
「殴らなくていい」
「縛らなくていい」
「今ここで、決めろ」
男の顔が、歪む。
周囲の視線が、彼に集中する。
(……秩序が、個人を晒されている)
角笛の音が鳴り響いた。
低く、重い音。
ニィが言う。
「……増援」
ミロが歯を食いしばる。
「次は、もっと硬いぞ」
エルドが、淡々と結論を出す。
「秩序が、牙を剥いた」
悠一は、糸を解いた。
無色。
太さは、縄。
「……今日は、ここまでだ」
男は、何も言えなかった。
包囲は解かれない。
だが、動けない。
悠一は、背を向けた。
不屈三牙が、続く。
ツムギは、もう緩んでいる。
助けなかった。
だが、噛み殺されなかった。
秩序は牙を剥いた。
だが、噛み切れなかった。
「……次は」
悠一は、空を見上げた。
「もっと深く来るな」
糸を、指に巻く。
無色。
だが、確実に――重い。




