第九話 針は、自分のために使う
道を半日ほど歩いた頃、悠一は足を止めた。
理由は単純だ。
服が、限界だった。
袖の内側が擦り切れ、歩くたびに肌に触れる。背中の縫い目も甘く、少し体を捻ると、嫌な感触が走る。破れてはいないが、「このままでは破れる」と分かる状態だった。
「……早かったな」
苦笑しながら、木陰に腰を下ろす。
旅に出たばかりなのに、もう服の修繕。
だが、考えてみれば当然だった。森を抜け、草を分け、地面に膝をつき、逃げるために走った。現世で着ていた服が、それに耐えられるはずがない。
悠一は、布袋から糸と針を取り出した。
村で受け取った、一本の針。
指で挟むと、相変わらず冷たい。
「……まずは、ここからだな」
自分のために使うのは、初めてだった。
⸻
場所を選ぶ。
風が強くないこと。
地面が安定していること。
背後が見通せること。
悠一は木を背にし、膝の上で服を広げた。
破れかけた縫い目を確認する。
「……これ、縫った人、だいぶ急いでたな」
独り言が漏れる。
縫い目は荒く、間隔も不揃いだ。
量産品なのだろう。手早さ優先。耐久は二の次。
糸を通す。
針の穴は小さい。
だが、指は迷わなかった。
通った瞬間、胸の奥がわずかに落ち着く。
「……やっぱり、これだ」
縫う、という行為。
考えなくていい。手が覚えている。
一針、二針。
布の端を揃え、力を分散させるように。
引きすぎない。
緩めすぎない。
「……よし」
数分後、縫い目は整った。
派手さはないが、これでしばらくは持つ。
悠一は糸を切ろうとして、手を止めた。
――切る必要、あるか?
糸は、貴重だ。
無限ではないが、減らさない工夫はできる。
悠一は糸を切らず、内側に回して結び目を作った。
ほどけにくいが、必要なら解ける位置。
「……節約、節約」
誰に言うでもなく呟く。
⸻
立ち上がり、軽く腕を振る。
違和感はない。
縫い目も引っかからない。
「……完璧、とは言わないけど」
十分だ。
その時だった。
ぴしっ。
嫌な音がした。
「……あ」
振り返ると、今度は反対側の袖が裂けていた。
先ほど気づかなかった、別の弱点。
悠一は一瞬、黙った。
「……うん。分かってた」
ため息をつき、再び腰を下ろす。
「今日は、修繕の日だな」
誰かに見られていたら、少し間抜けな光景だっただろう。
だが、ここには誰もいない。
悠一は針を持ち直し、もう一度糸を通す。
今度は、慎重に。
「……学習は、活かさないと」
一針ごとに、糸の張りを確かめる。
布の状態を見ながら、間隔を調整する。
時間はかかったが、その分、仕上がりは良かった。
「……うん。今度は、ちゃんとした」
満足げに頷く。
⸻
修繕を終え、糸を指に巻き直す。
増えている。
ほんの少しだが、確かに。
「……自分のため、でもいいんだな」
今まで、糸は誰かのため、何かのために使ってきた。
だが、自分の生活を整えることもまた、“結ぶ”ことなのだろう。
悠一は、布袋に針を戻した。
戦うための武器じゃない。
だが、生きるための道具は、確実に増えている。
「……次は、もう少し丈夫な服が欲しいな」
独り言に、ほんの少しだけ笑みが混じった。
⸻
歩き出してしばらくすると、道の先に小さな影が見えた。
人影だ。
荷を背負い、ゆっくり歩いている。
商人か、旅人か。
悠一は、糸を指に巻いたまま、距離を保つ。
近づくか、避けるか。
それを決めるのは、もう少し先でいい。
今はただ、縫い直した服の感触を確かめながら、歩く。
針と糸がある。
それだけで、心持ちは少し軽い。
悠一は、再び道を進む。
次に結ぶ線が、どこにあるのかは分からない。
だが――
自分の身を整えられるようになった今、
その線を選ぶ余裕は、確実に生まれていた。




