第八十三話 逃げ場のない場所で
谷は、音を飲み込む。
左右を切り立った岩壁に挟まれ、空は細い帯のようにしか見えない。
街道としては古く、今はほとんど使われていない抜け道。
――だからこそ、選ばれた。
悠一は、谷の入り口で足を止めた。
(……ここだ)
糸が、はっきりと張っている。
無色。
だが、一点に集中している張りだ。
不屈三牙も察している。
ミロが、低く言った。
「完全に、誘導されたな」
ガルが周囲を睨む。
「左右、上。全部死角だ」
ニィが、短く結論を出す。
「逃げ道は、後ろだけ」
エルドは、少し遅れて谷に足を踏み入れた。
「ここを通らなければ、戻るしかない」
「……戻れば?」
「同じことが起きる」
悠一は、静かに頷いた。
「つまり」
「ここで会え、ってことだ」
一歩、踏み出す。
谷の奥で、足音が響いた。
乾いた音。
落ち着いている。
焦りがない。
やがて、姿が見えた。
一人。
黒い外套。
軽装だが、無駄がない。
谷の中央で、立ち止まる。
「……来たか」
声は、低く、静か。
不屈三牙が、自然と陣形を組む。
ミロが問いかける。
「お前が、指示を出してた奴か」
女は、ゆっくりと頷いた。
「そうだ」
「名は?」
「ラグス」
その名を聞いた瞬間、
糸が――わずかに震えた。
(……こいつだ)
悠一は、一歩前に出た。
「道を塞いだ理由を聞かせろ」
ラグスは、即答した。
「秩序のためだ」
「またそれか」
ガルが吐き捨てる。
「秩序ってのはな、殴って守るもんじゃねぇ」
ラグスは、ガルを一瞥しただけで視線を戻す。
「殴らずに守れるなら、それが最良だ」
「私は、殴らない」
悠一は眉をひそめる。
「……同じだな」
「違う」
ラグスは、きっぱりと言った。
「私は、決める」
「お前は、決めさせる」
「その差は、致命的だ」
谷の空気が、重くなる。
「決める、とは?」
悠一が問う。
ラグスは、足元の地面を指した。
「ここを通すか、通さないか」
「どの道を生かし、どの道を閉じるか」
「誰を守り、誰を切るか」
「迷いは、秩序を壊す」
悠一は、糸を指に巻いた。
無色。
太さは、まだ糸のまま。
「迷いを消せば、人は考えなくなる」
「考えない者は、操りやすい」
ラグスの目が、細くなる。
「操る?」
「違う」
「救う」
その言葉は、迷いがなかった。
「選択肢が多すぎる世界で、人は壊れる」
「だから私は、正しい未来を選ぶ」
「縫い止める」
その瞬間だった。
ラグスの背後、空気が歪む。
見えない“線”が、谷に走った。
(……来る!)
悠一は、反射的に糸を放つ。
青。
引き寄せ。
だが、狙いはラグスではない。
右の岩壁。
「今だ!」
岩陰から、三つの影が飛び出した。
軽装の戦闘員。
動きは揃っている。
(……前哨部隊)
ガルが前に出ようとするが、悠一が止める。
「動くな!」
糸を、縄ほどの太さに変える。
無色のまま。
一気に張る。
「っ!」
一人が足を取られ、体勢を崩す。
だが、残り二人は止まらない。
「……速い」
ニィが分析する。
「判断が共有されている」
ラグスは、動かない。
戦闘員の動きを、ただ見ている。
(……こいつ)
(戦わせて、結果を見るつもりだ)
悠一は、歯を食いしばる。
「ミロ、左!」
「分かってる!」
不屈三牙が連携する。
だが、相手は練度が高い。
悠一は、再び糸を操る。
青。
引き寄せ。
今度は、敵の一人の踏み込みを、半歩だけ早める。
わずかなズレ。
それで十分だった。
ガルの拳が、相手の腹に入る。
「ぐっ……!」
一人、脱落。
残り二人が、距離を取る。
ラグスが、初めて口を開いた。
「……なるほど」
「引き寄せか」
「縁を、少しだけ動かす」
「面白い」
悠一は、睨み返す。
「観察してる余裕があるな」
「当然だ」
ラグスは答える。
「これは、確認だ」
「お前が、どこまで“決めない”か」
残る二人が、同時に動いた。
悠一は、糸を綱ほどの太さに変えかけて――止めた。
(……まだだ)
代わりに、赤。
一瞬だけ。
敵の足と、地面を結ぶ。
「っ!?」
動きが止まる。
完全ではない。
だが、一瞬の硬直。
その隙を、不屈三牙が逃さない。
二人目、三人目が倒れる。
谷に、静寂が戻った。
ラグスは、ゆっくり拍手した。
「十分だ」
「……何が」
「お前が、危険だということ」
悠一は、息を整えながら言う。
「なら、止めるか?」
ラグスは、首を横に振った。
「今日は、止めない」
「今日は?」
「これは、初接触だ」
ラグスは、背を向ける。
「次は」
「お前が、“決めざるを得ない場所”で会おう」
「その時」
振り返り、言い切った。
「秩序と自由、どちらが人を救うか」
「はっきりさせる」
ラグスは、谷の奥へ消えた。
しばらく、誰も動かなかった。
ミロが、ようやく口を開く。
「……完全に、思想の戦いだな」
ガルが拳を握る。
「強ぇ」
ニィが、静かに言う。
「だが、まだ本気じゃない」
エルドが、悠一を見る。
「引き寄せを使ったな」
「……ああ」
「選択を、動かした」
「少しだけな」
悠一は、糸を見つめる。
赤は、もう消えている。
だが――
一度、結んでしまった。
(……もう戻れない)
逃げ場のない場所で、
悠一はついに、ラグスと交わった。
これは、始まりだ。




