第八話 残る線と、一本の針
村に三日、滞在した。
長くはない。
だが、短すぎることもなかった。
悠一は、朝になれば起き、仕事を探し、夜になれば倉庫で眠る。その繰り返しを、淡々と続けていた。糸を使うこともあれば、使わないこともある。必要以上に目立たず、だが確実に役に立つ。その距離感が、この村には合っていた。
柵は立ち直り、倉庫の扉は軋まなくなり、畑の支柱も倒れなくなった。
やるべきことは、もうほとんど残っていない。
「……十分、だな」
悠一は、倉庫の柱に手を当てて小さく頷いた。
“必要とされなくなった”のではない。
“ここでやるべきことをやり終えた”と感じた。
だから、出る理由は自然に決まった。
⸻
昼前、村の広場で年配の女に声をかけられた。
「今日で発つのかい?」
「はい。そろそろ」
女は少しだけ目を細め、それ以上は聞かなかった。
「旅人だもんね」
引き止めない。
理由を掘り下げない。
この村は、そういう距離感を大切にしている。
「これ、持ってきな」
差し出された布袋は、小さく、軽い。
中には、硬いパンと干し肉が入っていた。
「代金は……」
「いらないよ。仕事の分だ」
悠一は少し迷ってから、受け取った。
「ありがとうございます」
深くは下げない。
だが、気持ちは込める。
⸻
村を出る前、悠一は井戸のそばに立った。
ここに来た日のことを思い出す。
水を飲み、顔を洗い、人の世界に足を踏み入れた場所。
糸を取り出し、指に巻く。
少しだけ、確かに増えている。
「……結んだ、分か」
理由は、まだはっきりしない。
だが、関わった時間や距離が、糸に残っている気がした。
踵を返そうとした、その時だった。
「ちょっと待ちな」
背後から声がかかる。
振り返ると、年配の女がもう一度こちらへ来ていた。
今度は、別の布袋を持っている。
「忘れ物だよ」
「……え?」
女は首を横に振った。
「違うね。持っていきな」
差し出された布袋を受け取り、中を覗く。
そこにあったのは――一本の針。
細く、真っ直ぐで、手入れの行き届いた金属製の針だった。
飾りはない。だが、長く使われてきた道具だと一目で分かる。
「……針、ですか」
「そうさ」
女は井戸の方をちらりと見て、続けた。
「この村じゃ、縫い物をちゃんとできる人間がもういなくてね。
直すことはできても、ちゃんと縫うってのは、別なんだ」
悠一は、すぐに受け取らなかった。
「……でも、それは大事な道具じゃ」
「いいから」
女は、少しだけ強い口調で遮った。
「道具は、使える人間のところにあった方がいい。
それだけの話だよ」
悠一は、針を見つめた。
糸は、ずっと手の中にあった。
だが、針は違う。
糸を通し、形を作るための――相棒。
「……ありがとうございます」
今度は、はっきりと頭を下げた。
女は満足そうに頷いた。
「服が破れたら使いな。
戦いには使うんじゃないよ」
冗談めかした言葉に、悠一は小さく頷いた。
「はい。大事に使います」
⸻
村を離れてしばらく歩いたところで、悠一は足を止めた。
村はもう見えない。
煙も、音も、風に溶けている。
布袋を開き、針を取り出す。
指で挟むと、冷たい感触が伝わった。
糸を通す。
――通った。
当たり前のことなのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……ようやく、揃ったな」
糸だけでは、結べないものがある。
針だけでも、意味はない。
だが、二つが揃えば、形になる。
悠一は糸と針を布袋に戻し、きつくはない結び目を作った。
まだ、戦う準備ではない。
けれど――
生きる準備は、確実に進んでいる。
悠一は歩き出す。
一本の糸と、一本の針を携えて。
この世界で、
自分なりの生き方を、縫い上げていくために。




