第七十五話 噂は夜に歩き出す
夜は、音が少ない。
昼間あれほど騒がしかった町が、嘘のように静まり返っている。
だが静かなのは表通りだけだ。
裏路地、屋根の上、建物と建物の隙間――
そこに、人の気配が溜まっていく。
悠一は宿の二階、窓際に立っていた。
外套を羽織り、糸は出していない。
だが、皮膚の内側がじわじわと熱を持っている。
(……始まったな)
糸が震える。
色は無色。
だが、張りが明確だ。
「数は?」
背後から、ニィの声。
「最低でも七」
「動きは?」
「揃っていない。だが、目的は同じ」
ミロが腕を組む。
「噂が勝手に行動してるな」
ガルが歯を鳴らす。
「殴って止めるか?」
悠一は首を横に振った。
「殴れば、“正しかった”ことになる」
「……厄介だな」
「厄介だ」
だからこそ、ここにいる。
部屋の隅で、エルドが荷を整えていた。
灯りの下、影が濃い。
「夜は売れない」
ぽつりと、そう言った。
「……何が」
「理性だ」
悠一は、短く息を吐いた。
⸻
最初の動きは、速かった。
宿の裏口。
音を殺した足音が、三つ。
不屈三牙が、無言で位置を取る。
三人で一つ。
離れない。
悠一は、扉を開けた。
「何の用だ」
暗がりから、男の声。
「……確認だ」
「何を」
「噂が、本当かどうか」
昼にも聞いた言葉。
だが、夜のそれは違う。
逃げ道を塞いだ確認だ。
「帰れ」
悠一は言った。
男は一歩、踏み出す。
「確かめるまで、帰れない」
その瞬間、糸を縄ほどの太さに変える。
色は無色。
ただ、それだけ。
男は止まった。
「……脅しか」
「事実だ」
悠一の声は低い。
「近づけば、危険だ」
男は舌打ちし、仲間を見る。
「……やっぱり、本物だな」
三人は、ゆっくりと後退した。
逃げたのではない。
判断したのだ。
ミロが小声で言う。
「一つ、止めた」
「一つ、だ」
悠一は答えた。
噂は一人じゃない。
⸻
次は、屋根の上だった。
瓦が、わずかに鳴る。
ガルが顔を歪める。
「上だ」
ニィが即座に言う。
「三人。軽い」
「落とすか?」
「落とせば目立つ」
悠一は、糸を細いまま伸ばした。
青は使わない。
引き寄せない。
ただ、張る。
屋根の端、足場になる場所に糸を渡す。
見えない罠。
次の瞬間、
「っ!」
短い悲鳴。
足を滑らせた男が、屋根に尻餅をついた。
怪我はない。
だが、十分だ。
「……帰れ」
悠一の声が、夜に落ちる。
男たちは、慌てて退いた。
ガルが感心したように言う。
「殴ってねぇのに、勝ったな」
「勝ってない」
悠一は言う。
「追い返しただけだ」
エルドが、静かに付け足す。
「それでいい」
「夜に勝とうとすると、昼を失う」
⸻
だが、夜は終わらない。
今度は、町の中央寄り。
小さな広場。
人影が集まっている。
「……集団か」
ミロが言う。
「これは、噂だな」
ニィが頷く。
「個人じゃない」
悠一は、立ち止まった。
ここで糸を使えば、
ここで“見せて”しまえば、
噂は確信に変わる。
(……使うな)
自分に言い聞かせる。
赤も、青も。
ここでは違う。
悠一は、前に出た。
「夜だ」
静かな声。
「帰れ」
人影がざわつく。
「糸の――」
「見せろ」
「見せてから判断する」
要求が、重なる。
悠一は首を横に振る。
「判断は、もう終わってる」
「ここは、帰る場所だ」
一人が声を荒げる。
「俺たちは、被害を防ぎたいだけだ!」
「噂が広がれば、町が割れる!」
悠一は、ゆっくり答えた。
「噂は、止められない」
「だが、選べる」
「夜に動くか、昼に話すか」
「今夜動けば――」
糸を、足元に落とす。
張らない。
結ばない。
ただ、そこに置く。
「……朝、話す資格を失う」
沈黙。
人影が、揺れる。
エルドが、一歩前に出た。
「忠告だ」
低く、冷たい声。
「夜に出ると、噂は安くなる」
「安い噂は、扱いが雑だ」
「雑に扱われた噂は――」
「人を傷つける」
誰も反論しなかった。
しばらくして、
人影は、少しずつ散っていった。
⸻
夜が、深まる。
動きは、止んだ。
完全ではない。
だが、今夜の波は越えた。
宿へ戻る道すがら、ミロが言った。
「……殴らなかったな」
「殴らずに済んだ」
悠一は答えた。
ガルが肩をすくめる。
「俺はちょっと物足りねぇ」
ニィが冷静に言う。
「殴れば、明日がない」
ガルは黙った。
宿の前で、エルドが足を止める。
「覚えておけ」
「噂が夜に動いた」
「これは、一段階進んだ証拠だ」
「……次は?」
「昼だ」
エルドは言う。
「夜に止められなかった噂は」
「昼に、形になる」
悠一は、空を見上げた。
星が、少しだけ霞んでいる。
(……来るな)
だが、来る。
夜は終わった。
次は――表に出る。
糸は切れていない。
縁も、結ばれていない。
だが、確実に――
町は、選び始めている。




