第七十三話 噂は依頼になり、依頼は縛りになる
朝は、音が少なかった。
昨夜の喧騒が嘘のように、町は静まり返っている。
露店の準備をする音も、呼び込みの声も、まだない。
その静けさが、逆に不気味だった。
悠一は宿の階段を降りながら、糸の感触を確かめる。
無色。
細い。
張ってはいるが、絡め取る気配はない。
(……様子見だな)
一階の酒場には、すでに一人客がいた。
旅装の男。
酒ではなく、湯を飲んでいる。
視線が合った瞬間、男は小さく会釈した。
「朝早いな」
「仕事だ」
短い返答。
だが、逃げない。
悠一は、嫌な予感を抱いた。
不屈三牙が、少し遅れて降りてくる。
三人とも、自然と周囲を見ている。
ミロが囁く。
「……空気が変わったな」
ガルが頷く。
「狩る側の目だ」
ニィが補足する。
「獲物を見ている」
エルドは、カウンターで湯を受け取り、銅貨を置いた。
「来る」
「誰が」
「買う側」
その直後だった。
「糸の使い手は、いるか」
声は落ち着いている。
だが、遠慮がない。
振り返ると、五人。
装備は揃っているが、傭兵ほど荒れていない。
役人でもない。
(……仲介だ)
悠一は、椅子に腰を下ろしたまま答えた。
「いる」
男が一歩前に出る。
「話がある」
「ここで?」
「人目はあった方がいい」
正直だ。
だが、それ自体が圧になる。
エルドが、淡々と割り込む。
「要件を言え」
男は一瞬だけ、エルドを見る。
「……あんたは」
「関係者だ」
それだけで通した。
男は視線を戻す。
「依頼だ」
その言葉に、酒場の空気が動いた。
耳が、集まる。
「噂の糸を――」
「使え、という話なら断る」
悠一は即座に言った。
男は、首を振る。
「違う」
「使うな、という依頼だ」
一瞬、静寂。
ミロが思わず聞き返す。
「……使うな?」
「そうだ」
男は淡々と続ける。
「町で糸を使うな」
「使えば、混乱が起きる」
「混乱は、商いの邪魔だ」
エルドが小さく息を吐いた。
「……理解はできる」
悠一は、眉をひそめる。
「それが、依頼?」
「そうだ」
「報酬は?」
男は、布袋を置いた。
音が、重い。
「十分だ」
不屈三牙が、ざわつく。
ガルが低く言う。
「縛りじゃねぇか」
ニィが頷く。
「行動制限」
ミロが、悠一を見る。
「受けるか?」
悠一は、すぐには答えなかった。
糸を使わない。
それは、守るための選択にもなる。
だが――
使うかどうかを他人に決めさせるのは、違う。
「断る」
悠一は言った。
男の表情が、わずかに硬くなる。
「理由は」
「糸は俺の判断で使う」
「混乱を避けたいなら、町の仕組みを整えろ」
「俺を縛るな」
男は、少しだけ考えた後、言った。
「……なら、条件を変える」
「聞くだけは聞く」
「町の外でなら、使っていい」
「町の中では、使うな」
悠一は、エルドを見る。
エルドは首を横に振った。
「条件が増えた」
「売れない」
男が苛立つ。
「では、どうしろと言う」
悠一は、糸を出さずに言った。
「噂を止めろ」
「……簡単に言うな」
「簡単じゃない」
「だから、依頼だ」
悠一は、ゆっくりと立ち上がった。
「噂は、誰かが“買っている”」
「その買い手を止めろ」
「俺じゃない」
男は、黙り込んだ。
図星だ。
「……買い手は、顔を出さない」
「だろうな」
「だから、こちらも困っている」
悠一は、静かに言った。
「困っているのは、俺も同じだ」
「だから」
「俺を縛るな」
不屈三牙が、一歩前に出る。
ミロが言う。
「俺たちは、暴れに来たわけじゃない」
ガルが続ける。
「だが、縛られる気もねぇ」
ニィが締める。
「交渉は、対等であるべきだ」
男は、五人を見回し、深く息を吐いた。
「……分かった」
「この依頼は、取り下げる」
袋を引き寄せる。
「だが、忠告はする」
「噂は、依頼より先に“命令”になる」
「そうなった時」
「断れなくなる」
悠一は、頷いた。
「分かってる」
「だから、先に歩く」
男たちは去っていった。
酒場に、ざわめきが戻る。
エルドが言う。
「一段上がったな」
「何が」
「値段だ」
「……嬉しくない」
「高く売れると、厄介だ」
エルドは淡々と言った。
「次は、表に出る」
「誰が」
「噂を買っている側だ」
悠一は、窓の外を見る。
町は、動き始めている。
噂は、依頼になった。
依頼は、縛りになりかけた。
だが、まだ――
選ぶ余地はある。
赤は使わない。
青も使わない。
それでも、糸は張られている。
そして遠くで、
誰かが、その張りを確かめている。
(……来るな)
そう思った瞬間、
嫌な確信が胸を刺した。
来る。
依頼ではない。
交渉でもない。
次は――
意志だ。




