第七十一話 糸は、静かに張られていく
朝は、思ったよりも早く来た。
焚き火の灰はまだ温かく、鍋の底には豆の名残がこびりついている。
夜に散々笑ったはずなのに、空気は不思議と静かだった。
悠一は、寝袋から体を起こし、空を見上げた。
雲が低い。
だが、雨の匂いはしない。
(……歩けるな)
判断は、それだけで十分だった。
少し離れた場所で、不屈三牙が起きている。
三人とも、珍しく声を抑えていた。
ミロが地図代わりの木の枝を地面に置き、線を引く。
ガルが腕を組み、ニィが周囲を観察する。
「次は、分かれ道だな」
ミロが言った。
「街道を行けば、人は多い」
「森道を行けば、厄介だ」
ガルが即座に答える。
「厄介な方が強くなれる」
ニィが首を振る。
「強くなる前に、死ぬ可能性が上がる」
ガルが不満そうに唸る。
「じゃあどうする」
ミロはしばらく考え、悠一の方を見た。
「……あんたは、どう行く」
悠一は、即答しなかった。
糸を指に絡め、感触を確かめる。
無色。
太さは細いまま。
(……まだ、張りすぎる段階じゃない)
「街道だ」
悠一は言った。
「人が多い方が、情報が流れる」
「流れた情報は、歪む」
ニィが言う。
「歪みも含めて、見る」
悠一は答えた。
「森は、逃げ道が少ない」
「街道は、多い」
ガルが不満そうに言う。
「逃げる前提か」
悠一は首を横に振った。
「“戻れる”前提だ」
その言葉に、不屈三牙は黙った。
戻れる。
逃げるではない。
引き返せる。
それが、彼らにはまだ少し遠い感覚だった。
少し遅れて、エルドが起きてきた。
荷袋を担ぎ、無言で周囲を見回す。
焚き火の跡、足跡、風向き。
「街道だな」
短く言った。
悠一が一瞬、目を向ける。
「……同じ判断か」
「売れる」
「何が」
「情報が」
それだけで、十分だった。
⸻
歩き始めて、半刻ほど。
街道は思ったよりも賑やかだった。
行商、護衛付きの荷車、旅人。
雑多だが、活きている流れ。
不屈三牙は、自然と悠一の後ろを歩いていた。
守るでも、隠れるでもない距離。
エルドは、少しだけ離れている。
だが、視界から消えない。
その時だった。
悠一の糸が、微かに震えた。
(……青)
引き寄せの色。
使ってはいない。
だが、張られている。
悠一は足を止めない。
視線だけを動かす。
街道の先、荷車の影。
人影が一つ、二つ。
不屈三牙も気づいたらしい。
ミロが、何気ない風を装って言う。
「……視線が多いな」
ガルが拳を鳴らす。
「来るか?」
ニィが即座に言う。
「まだ」
「近づいているが、決めきれていない」
悠一は、糸を太くしない。
細いまま、周囲に広げる。
(……縁を結ぶほどじゃない)
赤を使えば、相手の動きを変えられる。
だが、ここで使う理由はない。
使わずに済むなら、それでいい。
エルドが、歩きながら言った。
「情報狙いだな」
「俺か?」
「お前の糸だ」
悠一は、苦笑した。
「目立つ?」
「目立つ」
「隠した方がいいか」
エルドは首を横に振る。
「今はいい」
「なぜ」
「噂は、餌になる」
「……誰の」
「買う側の」
悠一は納得した。
噂を買う人間は、必ず姿を見せる。
その時、街道脇の茂みが揺れた。
「止まれ」
声は若い。
だが、緊張している。
出てきたのは、三人。
装備は軽い。
盗賊というには、迷いが多い。
不屈三牙が、一歩前に出る。
ミロが言う。
「用件は」
男の一人が、視線を泳がせながら言う。
「……糸の使い手がいると聞いた」
悠一は、黙って前に出た。
糸は出さない。
だが、張っている。
「俺だ」
男たちは、息を呑んだ。
「噂より……普通だな」
悠一は、肩をすくめる。
「噂は、だいたい盛られる」
男は、仲間を見る。
「……俺たちは、確かめたいだけだ」
「何を」
「本物かどうか」
ガルが前に出かけ、ニィが止める。
「……様子見」
悠一は一歩だけ前に出た。
糸を、縄ほどの太さに変える。
色は無色。
ただの強度。
「近づくな」
それだけで、空気が変わる。
男たちは、足を止めた。
赤も青も使っていない。
だが、十分だった。
エルドが淡々と言う。
「確かめた」
「帰れ」
男たちは、互いに顔を見合わせ、やがて後退した。
去り際に、男の一人が言った。
「……噂は、もっと広がる」
悠一は答えない。
広がるなら、広がる。
張った糸は、切れていない。
⸻
再び歩き出す。
不屈三牙が、少しだけ興奮した声で言う。
ミロ「……今の、赤も青も使ってないな」
ガル「なのに、止まった」
ニィ「糸の太さだけで、十分だった」
悠一は頷く。
「張り方次第だ」
「結ぶ必要は、いつもはない」
その言葉を、エルドが受け取る。
「良い判断だ」
短いが、重い。
「使わない選択は、売れる」
「……何に」
「時間に」
悠一は、少しだけ笑った。
街道は続く。
噂は流れ、
視線は増え、
糸は静かに張られていく。
赤は、まだ使わない。
青も、まだ引かない。
だが――
必要な時には、もう迷わない。
その自覚だけが、昨日より確かだった。
歩く背中に、空が広がる。
次の町は、近い。
そしてそこには、
悠一の糸を“見たがる者”が、必ずいる。
糸は切れず、
縁はまだ結ばれない。
だが、確かに――
張られている。




