第七話 糸で、生きる術を増やす
朝は、思っていたよりも静かに始まった。
倉庫の隙間から差し込む光が、藁の色を少しだけ明るくする。鳥の声が遠くで鳴き、村の中では、誰かが水桶を置く音がした。生活の音だ。危険の気配は、ない。
悠一はゆっくり起き上がり、身体の具合を確かめた。
痛みはない。違和感もない。新しい体は、相変わらず素直だ。
糸を指に巻く。
ほどけない。増えすぎてもいない。
「……ちょうどいい」
それだけで、今日一日を始める理由になる。
倉庫を出ると、朝の作業が始まっていた。畑に向かう者、家畜に餌をやる者、井戸へ向かう者。誰もが忙しそうだが、慌ただしさはない。
悠一は、まず井戸へ行き、水を汲んだ。顔を洗い、喉を潤す。冷たさが、頭をはっきりさせる。
「おはよう」
昨日、倉庫の扉を直した年配の女が声をかけてきた。
「おはようございます」
挨拶を返す。それ以上の言葉は、必要ない。
「今日は、何か手伝えること、ありますか」
悠一はそう言って、周囲を見渡した。
“仕事を探している”という姿勢を、見せる。
女は少し考え、畑の方を指した。
「柵がな。夜のうちに、獣に押されたらしくてね。応急でもいいから、立て直したい」
「分かりました」
即答する。
修繕は、得意分野だ。
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畑の端にある木柵は、確かに歪んでいた。一本が外れ、全体が不安定になっている。木材は古く、釘も錆びている。
普通に直せば、また壊れる。
悠一は、柵の前でしゃがみ込み、指で木をなぞった。
負荷がかかる場所。力が逃げる方向。
「……支えが、足りない」
新しい木材はない。釘も限りがある。
だが――糸はある。
悠一は、袖の中から糸を引き出した。
周囲に人はいない。見られても構わないが、必要以上に目立つ気はない。
木と木の間に、糸を通す。
結び目は作らない。八の字に回し、摩擦で止める。
引っ張らない。
支えるだけ。
柵は、ぐらつきが減った。
「……これで、しばらくは持つ」
完全な修理ではない。
だが、“今”を越えるには十分だ。
作業を見ていた男が、感心したように頷く。
「器用だな。商人か?」
「いえ……その手の仕事を、少し」
嘘ではない。
正確でもないが。
男はそれ以上踏み込まなかった。
この村では、理由を詮索しすぎないのが礼儀らしい。
⸻
昼前、畑仕事が一段落すると、女が声をかけてきた。
「昼まで少し時間がある。腹は空いてないかい?」
「……少し」
正直に答える。
女は頷き、倉庫の裏へ案内した。
そこには、小さな池があった。澄んだ水が溜まり、影の中で何かが動いている。
「魚だよ。小さいが、食える」
悠一は池を覗き込み、思わず息を呑んだ。
魚がいる。だが、網も竿もない。
「……釣るんですか?」
「網が破れてね。直す時間もない」
女は困ったように肩をすくめた。
悠一は、少し考えた。
糸と、針。
針はない。だが、代わりはある。
地面に落ちていた、細い金属片。古い釘の先だ。
それを拾い、石で軽く叩く。
形は歪だが、先は尖っている。
「……これで」
女は不思議そうに見ていたが、止めなかった。
悠一は糸を結び、即席の釣り糸を作る。
餌は、パンの欠片。
池の縁にしゃがみ、糸を垂らす。
糸は、水の中でも見えにくい。
軽く揺らし、魚の動きを待つ。
「……焦らない」
釣りも、縫い物と同じだ。
待つ時間が、半分以上。
しばらくして、糸がわずかに震えた。
悠一は、強く引かない。
魚が餌を咥え、向きを変えるのを待つ。
そして、そっと――導く。
糸が、水面を切った。
小さな魚が、跳ねる。
「……取れた」
歓声は、上げない。
静かに、水から引き上げる。
女は、目を丸くした。
「そんなやり方が……」
「たまたまです」
そう答えたが、内心では分かっていた。
糸は、戦うためだけのものじゃない。
生きるための、道具だ。
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昼食は、簡素だったが、十分だった。
焼いた魚。
薄いスープ。
昨日より、少しだけ豊かだ。
悠一は黙々と食べた。
糸を使ったことは、誰も口にしない。
それでいい。
食後、村人たちはそれぞれの仕事に戻る。
悠一も、特に用事はなかった。
村の外れに出て、草の上に腰を下ろす。
糸を指に巻き、今日の使い方を思い返す。
支える。
釣る。
結ぶ。
どれも、戦ってはいない。
「……これが、俺のやり方か」
自嘲はない。
誇りもない。
ただ、納得があった。
糸は、また少し増えている。
量ではない。感覚だ。
「関わった分だけ、か」
結論は出さない。
だが、仮説は立てる。
人と、場所と、時間。
無理をせず、切らずに結んだものが、糸を太くしている。
悠一は立ち上がる。
この村に、長く留まるつもりはない。
だが、ここで得た“術”は、確実に増えた。
戦わなくても、生きられる。
糸があれば、工夫できる。
それが分かっただけで、この一日は十分だった。
悠一は糸を指に巻き、村の外れを歩く。
次の場所へ向かう準備を、静かに整えながら。




