第六十四話 糸のない場所で、ほどく手は増える
町は小さかった。
だが、空気は重い。
家々の壁は煤け、道は乾いているのに、人の視線だけが湿っている。
口に出さない不満が、路地の角に溜まっているような町だった。
不屈三牙は、その入口で足を止めた。
ミロが先に歩き出し、ガルが半歩遅れて続く。
ニィは、いつも通り少し距離を取って周囲を見ていた。
「……ここ、嫌な匂いがする」
ガルが低く言う。
「盗賊の匂いじゃない」
ミロが答える。
「人の匂いだ」
ニィが、短く補足した。
「余裕がない匂い」
三人は、言葉を少なくして町へ入った。
森と違い、視界は開けている。
罠もない。
逃げ道もある。
それなのに――
逃げられないような息苦しさがあった。
「……水場、あっちだ」
ニィが顎で示す。
町の中心に、井戸が一つ。
その周囲に、桶と人が集まっている。
多い。
そして、声が荒い。
⸻
「だから、順番だって言ってんだろ!」
「こっちは子どもがいるんだ!」
「子どもを盾にするな!」
桶がぶつかり、
水が地面にこぼれる。
それを見た途端、別の男が怒鳴った。
「水を捨てるな!」
「町の水は有限だ!」
誰かが笑った。
乾いた笑いだった。
「有限なのは水だけじゃねぇよ!」
「仕事もだ!」
それが火種になった。
水の話が、仕事の話に繋がる。
仕事の話が、税の話に繋がる。
税の話が、よそ者への怒りに繋がる。
連鎖は速い。
ニィが、息を吐いた。
「……絡まってる」
ミロが頷く。
「ラグスの町と同じだ」
ガルが首を傾げる。
「ラグス? 誰だそれ」
「知らなくていい」
ニィが短く言う。
「でも、これは“仕掛けがなくても起きる”」
ミロが一歩前へ出た。
「止めるか」
ガルが、すぐに問う。
「どうやって」
ミロは答えない。
答えがないからだ。
悠一なら――
糸で場を整える。
声で人を動かす。
最悪の結果だけは出さない。
だが今、悠一はいない。
糸もない。
あるのは、三人の手と声だけだ。
「……やってみる」
ミロは、自分に言い聞かせるように言った。
⸻
ミロが水場へ近づくと、何人かがこちらを睨んだ。
よそ者。
武装。
三人組。
警戒される条件が揃っている。
ミロは両手を上げた。
「待て」
声は張らない。
だが、明確に通る声だった。
「水を奪いに来たわけじゃない」
「奪い合っても、水は増えない」
「……当たり前だ!」
誰かが叫ぶ。
「じゃあ黙ってろ!」
別の誰かが罵る。
ミロは一歩引かずに言った。
「増えないなら、減らすな」
「今、水が地面にこぼれた」
「その水を拾えないのは、お前らだ」
言葉が、刺さる。
だが、刺さり方が悪い。
怒りが増幅する刺さり方。
「偉そうに!」
男が前に出た。
「よそ者が口を出すな!」
ガルが一歩前に出そうとして、ニィに袖を掴まれた。
「出るな」
「殴ったら終わる」
ガルが歯を食いしばる。
「じゃあどうすりゃいい!」
ニィは、視線を水場の外へ投げた。
井戸の横。
木箱。
そこに、町の掲示板のような板がある。
古い字で、何かが書いてある。
ニィは小さく言った。
「……町の規則を探せ」
ミロが反射的に頷いた。
「規則……順番の決め方か」
ミロが掲示板へ向かう。
だが、その瞬間――
水場の中心で、桶が倒れた。
水が大きくこぼれる。
誰かが足を滑らせ、押し合いになり、
拳が飛んだ。
一発。
二発。
それが、合図になる。
殴り合いが始まった。
⸻
「くそっ!」
ガルが動いた。
止めるためにではない。
殴り返すためでもない。
ガルは、殴り合っている二人の間に割って入り、
腕を掴んで引き離した。
「やめろ!」
声が太い。
一瞬、周囲が止まる。
だが、すぐに別の場所で殴り合いが始まる。
(……止まらない)
ガルの顔が歪む。
力で抑えれば抑えるほど、反発が増える。
ニィが低く言った。
「ミロ、規則は?」
ミロが掲示板の前で叫ぶ。
「……古い!」
「順番は“家ごと”に決めろって書いてある」
「でも、今は家の数が増えてる」
「守れない!」
ニィが即座に理解する。
「構造が変わったのに、規則が更新されてない」
「だから、正義がぶつかってる」
ミロが歯を食いしばる。
「じゃあ、どうすれば――」
ニィは、目を細めた。
「更新する」
「今、この場で」
ミロが目を見開く。
「今!?」
ガルが叫ぶ。
「誰が決めるんだ!」
ニィは淡々と言った。
「町が決める」
「そのために、殴り合いを止める」
ガルが唸る。
「結局止めるじゃねぇか!」
「止め方が違う」
ニィの声は低い。
「力じゃなく、理由で止める」
⸻
ニィは水場の中心へ歩き出した。
小柄な体だが、歩き方に迷いがない。
視線が人を刺す。
「聞け」
ニィは言った。
声は大きくない。
だが、不思議と通った。
殴り合いが一瞬だけ、緩む。
「殴っても水は増えない」
「奪っても仕事は増えない」
「順番が壊れているのは、規則が古いからだ」
「規則を更新する」
「更新しないなら、明日も同じだ」
誰かが叫ぶ。
「じゃあ誰が決める!」
ニィは答える。
「全員だ」
その言葉に、嘲笑が混じった。
「全員? 無理だろ!」
ニィは、少しだけ息を吐く。
「無理だ」
「だから、“決め方”を決める」
「……決め方?」
ミロが、すぐに乗った。
「そうだ!」
「まず決め方だ!」
ミロは掲示板を叩く。
「この町は家が増えた!」
「だから家ごとの順番じゃ足りない!」
「なら、家ごとに代表を出せ!」
「代表が順番を組み直せ!」
人々がざわめく。
反発と、納得が混じる。
ガルが拳を握る。
「今のうちだな」
ミロが頷く。
「殴り合いを続けるよりマシだと思わせる」
ニィが短く言う。
「妥協点を置く」
(……置く?)
ガルが一瞬だけ首を傾げた。
それは、どこかで聞いた言い方だった。
⸻
だが、簡単にはいかない。
水場の端で、母親が叫んだ。
「代表を出すって言っても!」
「うちの旦那は仕事でいない!」
「代表になったら、余計に損するじゃない!」
それに別の男が返す。
「じゃあお前が代表になれ!」
「女に決めさせるのか!」
言葉が飛ぶ。
空気が、また荒れる。
ニィが、即座に割り込む。
「代表は男でも女でもいい」
「水を汲むのは誰だ」
「家の事情を知ってるのは誰だ」
黙る者が増える。
だが、反発も残る。
「よそ者が口出すな!」
またその言葉が出た。
ミロの表情が硬くなる。
(……ここだ)
ここで強く言えば、また殴り合いに戻る。
弱く言えば、飲まれる。
悠一なら――
“背負う”と言って前に立つ。
だが、今は悠一がいない。
背負うと言っても信用されない。
(……どうする)
ミロは、喉が乾くのを感じた。
そして、思い出す。
森の中で、悠一が言った言葉。
「今日は死なせない」
それは、全員を救う約束ではない。
だが、最低ラインを示す言葉だった。
ミロは、同じ線を引くことにした。
⸻
ミロは、声を張った。
「よそ者だ!」
「だから、ずっとはいない!」
「だが――」
「今ここで殴り合って死ぬなら、止める!」
「今日、誰も死なせない!」
一瞬、空気が止まる。
誰も死なせない。
その言葉は重い。
そして危険だ。
約束に聞こえる。
だが、ミロは続けた。
「水の順番は、今日ここで決めなくていい!」
「代表を選ぶだけでいい!」
「選び方も完璧じゃなくていい!」
「明日また変えればいい!」
「……変えていいのか?」
誰かが呟いた。
ニィが即座に言う。
「変えていい」
「規則は、人が生きるためにある」
「人が死ぬなら、規則が間違ってる」
ガルが、殴り合いをしていた男の腕を離した。
男は殴らない。
拳を下ろした。
一人。
二人。
三人。
殴り合いが、止まっていく。
完全ではない。
だが、止まり始めた。
⸻
代表を選ぶ。
声が上がる。
反発も出る。
だが、殴り合いには戻らない。
その時――
町の入口の方から、足音。
ゆっくり。
だが、迷いのない足音。
悠一が、現れた。
泥も血もない。
だが、目が疲れている。
三人は、反射で背筋を伸ばした。
ミロが、言葉を探し――
悠一の方が先に言った。
「……やったな」
それだけだった。
褒めでも指導でもない。
評価でもない。
“同じ線に立った”者への一言。
ミロの肩から、力が抜けた。
「……完璧じゃない」
ミロが言う。
「でも、殴り合いは止まった」
悠一は頷く。
「十分だ」
ガルが、笑いそうな顔で言った。
「俺たち、役に立ったか?」
「立った」
悠一は即答する。
ニィが、静かに言った。
「……これが、ほどくってことか」
悠一は少しだけ目を伏せた。
「そうだ」
「糸がなくても」
その言葉が、不屈三牙の胸に落ちる。
彼らは“追う側”だった。
倒すために工夫する側だった。
だが今、初めて――
止めるために工夫した。
それは、旅の中で得た新しい手触りだった。
⸻
夜。
代表が決まる。
明日、順番を組み直す。
問題は解決していない。
仕事も、水も、増えない。
だが、
殴り合いが止まったことだけは事実だった。
悠一は町外れで空を見上げる。
ツムギが肩口で静かに揺れた。
介入ではない。
同意でもない。
ただ――縁が一本、増えた合図のように。
(……ほどく手が増えた)
それは良いことだ。
だが同時に、ラグスの言葉が蘇る。
「もっと絡ませる」
人と人。
正義と正義。
悠一は、町の灯りを見た。
ここには、糸がないのに糸がある。
見えない縁が、絡まっている。
そしてそれをほどける者が増えれば増えるほど、
絡ませる者は、もっと巧妙になる。
悠一は糸を握り直す。
切れば楽だ。
だが切らない。
ほどく。
背負うだけじゃなく、渡す。
そのために、歩く。
町の灯りの向こうに、
次の絡まりが待っているのを感じながら。




