第六十二話 ほどけない結び目は、誰かを縛る
森は、昼でも息苦しい。
枝葉が幾重にも重なり、光は細く裂けるように落ちてくる。
足元は落ち葉に覆われ、踏みしめるたびに乾いた音が鳴る。
――音が出る。
――視界が悪い。
――逃げ道が多い。
戦う場所として、最悪だ。
悠一は森の縁を歩きながら、無意識に呼吸を整えていた。
深く、静かに。
音を殺すように。
(……来る)
理由はない。
だが確信があった。
昨日、撤収と言った盗賊。
逃げた一人。
撤収は「終わり」じゃない。
準備が整っていない時の、保留だ。
ツムギは肩口で静かだ。
警告はない。
だが、それが逆に不安を煽る。
(……絡ませる)
ラグスの言葉が、胸の奥で響く。
縁を絡ませる。
人と人、選択と選択を絡ませ、
正解を一つにできなくする。
切れば楽だ。
だが切れば、誰かが必ず傷つく。
悠一は糸を指に掛けたまま、さらに森へ踏み込んだ。
⸻
「……ちょっと待て」
聞き覚えのある声が、前方から聞こえた。
「ここ、昨日の森だろ」
「戻ってきたのか? 俺たち」
少し間の抜けた、それでいて必死な声音。
悠一は足を止め、視線を走らせる。
(……不屈三牙)
枝葉の隙間から覗くと、三人の姿があった。
先頭を歩くのはミロ。
その半歩後ろにガル。
少し距離を取って、周囲を観察するニィ。
彼らは昨日とは違う。
足運びが慎重で、
視線は一点に集中せず、
会話は短い。
(……成長してる)
それは確かだ。
だが――
森はそれを上回る。
「……こっちだ」
ニィが低く言い、地面を指す。
「足跡が新しい」
「昨日逃げたやつのだな」
ガルが唸る。
「……追うのはいいが、森で戦うのは嫌だぞ」
「嫌でもやる」
ミロは即答した。
「昨日の撤収は、次があるって意味だ」
(……追ってきたのか)
悠一は小さく息を吐いた。
正しい判断だ。
だが、正しい判断が生存に直結するとは限らない。
――その時。
「助けて!」
女の悲鳴が、森に響いた。
若い声。
距離は近い。
不屈三牙が、同時に反応した。
「行くぞ!」
ミロが駆け出す。
ガルが続く。
ニィは一瞬だけ耳を澄ませ、それから追った。
(……罠だ)
悠一は即座に判断した。
声が近すぎる。
森の奥にしては、方向がはっきりしすぎている。
だが――
人は止まれない。
悠一も走った。
⸻
開けた小さな空間。
そこに、女が一人、木に縛られていた。
口は塞がれていない。
涙を流し、必死にこちらを見る。
そして――
その背後、木陰から現れる男。
昨日逃げた盗賊だ。
目に焦りはない。
代わりに、妙な高揚がある。
左右の木陰から、さらに二人。
(……三人)
数の問題ではない。
盗賊たちの足元。
低い位置に、何本もの縄。
木と木を繋ぐように張られた、見えにくい罠。
(……転ばせる)
ガルが一歩踏み出し、足を取られた。
「ぐっ!」
転ばない。
だが、体勢が崩れる。
その瞬間、盗賊の一人が飛び出す。
狙いはガルではない。
――人質。
刃が、女の喉元へ。
(……またか)
胸が冷える。
ここで、赤を使えば――
相手の未来を変えられる。
青を使えば――
距離を一気に詰められる。
どちらも使える。
真化は、もう受けている。
だが。
(……森だ)
(……罠だ)
(……人質が近すぎる)
赤を使えば、
誰の未来を変えるのかが曖昧になる。
盗賊か。
人質か。
不屈三牙か。
一つの赤が、
別の誰かの「次の一手」を歪める。
青を使えば、
引き寄せた結果、刃の軌道が最悪に寄る可能性がある。
(……使える)
(……だが、使う場所じゃない)
悠一は、無色の糸を出した。
太さを変える。
糸 → 縄。
罠の縄を切るのは簡単だ。
だが切れば、他の縄が崩れ、人質に当たる。
(……ほどく)
悠一は糸を滑らせ、罠の結び目へ。
締める方向ではない。
緩める方向へ引く。
一つ、ほどける。
罠の縄が垂れ、
ガルの足が自由になる。
「ガル、右だ!」
ミロが叫ぶ。
ガルが踏みとどまる。
ニィが低く言った。
「……罠は一本じゃない」
「全部を見るな」
「“通れる線”だけ見ろ」
(……いい判断だ)
悠一は糸を走らせた。
罠を全て無効化する時間はない。
なら、道を作る。
ほどいた縄が、盗賊の足元を乱す。
踏み込みが鈍る。
ミロが、その一瞬を逃さない。
「離せ!」
距離を詰める。
だが、盗賊の刃が動く。
(……危ない)
悠一は細い糸を一本。
刃ではない。
手首へ。
縛らない。
締めない。
角度だけを変える。
刃先が、女の喉から逸れる。
「――っ!?」
盗賊が目を見開いた。
その隙に、ガルの体当たり。
盗賊が倒れ、人質から離れる。
ニィが即座に縄を解きに入った。
「動くな」
「動けば、また狙われる」
女は震えながら頷く。
⸻
終わらない。
盗賊の一人が叫んだ。
「おい! やれ!」
木陰から、さらに縄が外れる。
枝に仕込まれた木箱が、揺れる。
(……落とす気だ)
狙いは不屈三牙ではない。
人質の周辺。
混乱を作り、再び選ばせる。
(……絡ませる)
ラグスの手触り。
盗賊だけの発想じゃない。
“置かれている”。
ここで切れば楽だ。
縄を切れば、木箱は落ちない。
だが――
落ちた時、誰がどこにいるか分からない。
(……ほどく)
悠一は糸を太くする。
縄 → 綱。
無色のまま。
太い綱を、落ちる縄に絡める。
引かない。
縛らない。
支える。
落下が止まる。
綱が軋む。
腕が痺れる。
(……重い)
(だが、支えられる)
「……綱か」
ミロが息を呑む。
「見るな!」
悠一は短く言う。
「動け!」
ガルが盗賊へ向かい、
ニィが人質を連れて後退する。
悠一は綱を支えたまま、
もう一本の糸を伸ばす。
無色の細糸。
残る罠へ。
ほどく。
落とす。
通れる線を増やす。
ミロがそれを読み、突っ込む。
ガルが回り込み、逃げ道を塞ぐ。
盗賊は撤収の合図を出そうとするが、
ニィが先に声を出した。
「逃げるな」
短い言葉。
だが、盗賊の足が止まる。
“逃げる”という選択肢が消える。
ガルの拳が鳩尾に入った。
盗賊が崩れる。
残り二人は森の奥へ退こうとする。
「追うな!」
悠一が叫ぶ。
ミロが止まる。
「森で追えば、また選ばされる」
「……くそ」
ミロが歯を食いしばる。
「逃がすのか」
「逃がす」
悠一は言った。
「だが、今日は死なせない」
選んだ。
全員を捕まえる、ではない。
全員を救う、でもない。
致命的な結果を出さない。
⸻
戦いのあと。
女は地面に座り込み、泣いていた。
ニィが外套を掛ける。
ガルは息を整え、
ミロは拳を握り締めたまま震えている。
「……あんた、赤も青も使えただろ」
ミロが言った。
悠一は頷いた。
「使える」
「じゃあ――」
「使わなかった」
悠一は言い切る。
「ここでは、壊れる」
ニィが静かに言った。
「……選択肢が多すぎた」
「だから、切らなかった」
悠一は糸を巻き直す。
綱 → 縄 → 糸。
無色のまま。
腕がまだ震えている。
(……切れば楽だった)
だが切らなかった。
その結果、
人は生きている。
だが、逃げた盗賊は次を用意する。
絡まる縁は、さらに強くなる。
その絡まりは――
不屈三牙にも巻きつく。
ミロが、ぽつりと言った。
「……俺たち、足引っ張ったか」
「いいや」
悠一は即答した。
「俺一人なら、間に合わなかった」
ガルが苦笑する。
「……あんたでも遅れるんだな」
「遅れる」
悠一は認める。
「選択肢が多いと」
ニィが静かに言う。
「なら、俺たちが減らす」
悠一は、小さく息を吐いた。
(……渡せる)
背負うだけじゃない。
渡せる。
森の奥で、枝が揺れた。
盗賊ではない。
もっと静かな――“見ている”気配。
ラグスか。
それとも、さらに奥の影か。
悠一は空を見上げた。
木々の隙間から、細い光。
糸のような光。
「……行くぞ」
悠一は立ち上がる。
不屈三牙も立つ。
人質の女を支え、森を出る。
次は、もっと絡まる。
それでも――
切らない。
切らずに、ほどく。
その覚悟が、
この夜、確かに結ばれた。




