第六十一話 絡まる糸は、切れば楽だ
町を出て半日。
街道は次第に細くなり、森の縁をかすめるように伸びていた。
空は高いのに、風はどこか重い。
鳥の声が途切れがちで、代わりに虫の羽音が耳に残る。
悠一は足を止め、指先で糸を確かめた。
無色。
細い。
そして――ここ数日で一番、糸の感触が“ざらついて”いた。
(……絡む)
ラグスが言った通りだ。
縁を結ぶほど、糸は強くなる。
強くなるほど、絡む。
強い糸は便利だ。
縄にすれば止められる。
綱にすれば支えられる。
だが――絡まった時、強い糸ほど厄介になる。
切れば楽だ。
(……切らない)
第60話の夜、自分で口にした言葉が、まだ口内に残っている。
ツムギは肩口で静かだ。
警告はない。
だが、“いつも通り”ではない。
(……ここからだな)
悠一は歩き出す。
⸻
異変は、森の手前で起きた。
遠くから、車輪の軋む音。
馬のいななき。
人の怒鳴り声。
「止めろ、走るな!」
「荷が崩れる!」
「くそっ、綱が――!」
悠一は駆ける。
森の入口、街道が一段下がる場所で、荷車が斜めに突っ込んでいた。
車輪が片側だけ浮き、荷台が傾いている。
荷は木箱。縄で括られているが、一本が裂けかけていた。
その脇に、見覚えのある外套。
商人――エルド。
彼は荷車の前で腕を組み、騒ぐ男たちをじっと眺めていた。
怒鳴りもせず、慌てもせず。
だが、眼だけが冷えている。
(……また偶然か)
悠一が近づくと、エルドは視線だけを向けた。
「例の旅人」
名は呼ばない。
いつも通りだ。
「……珍しい場所で」
悠一は息を整える。
「珍しいのはこっちだ。道の真ん中で詰まってる」
エルドは顎で荷車を示した。
「見ての通り、綱が裂けた」
「裂けた?」
悠一は荷を括る縄を見た。
確かに一本、繊維が毛羽立っている。
「粗悪品だ」
エルドが淡々と言う。
「……いや」
悠一は、違和感に気づいた。
毛羽立ち方が不自然だ。
擦り切れたというより、“切り始められた”痕。
(……誰かが)
「盗賊か?」
悠一が口にすると、男たちが顔をこわばらせる。
「……森の近くで、最近多い」
「荷を狙って、縄を切る」
「車が傾いたところで奪うんだ」
(……嫌なやり方だ)
悠一は糸に指を掛けた。
縄を補強する。
綱にする。
持ち上げる。
――やれる。
だが。
(……人が多い)
荷車の周囲には十人近くいる。
焦って動けば、荷が崩れ、下敷きになる。
「動くな!」
悠一は声を張った。
男たちが、止まる。
(……今は、声で結ぶ)
糸はまだ出さない。
⸻
その時。
森の奥から、別の声が飛んだ。
「こっちだ!」
「囲め!」
剣の音。
同時に、道の反対側――森ではない方から、子どもの泣き声。
「お母さん!」
「離れないで!」
(……同時に来た)
胸が冷える。
ラグスの仕掛け。
“選択肢を増やす”。
火事でも、盗みでもない。
今度は――縁そのものを絡ませる。
荷車、盗賊、一般人、子ども。
(……俺の縁が、全部ここに集まる)
しかも、エルドまでいる。
ツムギが、わずかに揺れた。
介入ではない。
時間が削られている合図だ。
悠一は深く息を吸い、吐いた。
(切れば楽だ)
例えば――
縄を綱にして一気に固定し、盗賊を縄で縛り、子どもを引き寄せる。
赤で縁を結び、未来を変更してしまえば簡単だ。
だが。
(……切らない)
「エルド」
悠一は、名を呼びそうになって止めた。
相手は名を呼ばない。こちらが呼んでも問題はないが、流れが崩れる。
「……商人」
エルドが眉を僅かに上げる。
「何だ」
「荷車を守る人間を、三人だけ残せ」
「残りは、森の方を見るな。子どもと荷の下敷きを警戒しろ」
エルドは一瞬だけ考え、短く言った。
「聞いたか」
一言で、周囲が動く。
商人の言葉には重みがある。
(……縁がある)
悠一は、思った。
彼らは彼の指示には従わなかったかもしれない。
だが、エルドの一言で動いた。
(……俺が背負うのは、全部じゃない)
(渡せる)
悠一は糸を取り出した。
無色。
細い。
太さを変える。
糸→縄。
無色の縄が、荷車の軸に絡む。
引かない。
締めない。
ただ、荷台の傾きの“逃げ”だけを止める。
「押すな!」
「支えるだけだ!」
縄は支点になる。
荷は崩れない。
(……一つ、ほどいた)
⸻
次。
森の方。
剣の音が近い。
誰かが斬られているわけではない。
だが、追い立てられている。
悠一は視線を走らせる。
森の縁で、男が二人、短剣を持っている。
それを囲むように、荷車の護衛らしき者が三人。
護衛は剣を構えているが、踏み込めない。
相手が森へ逃げれば終わりだ。
(……こいつらは“逃げ”が目的)
(戦う必要はない)
悠一は糸を一本、地面に滑らせる。
無色。
細いまま。
森への入り口――足元の枯れ葉に絡める。
引かない。
縛らない。
踏み込みだけを奪う位置。
盗賊の片方が、一歩下がり――足が取られた。
転ばない。
だが、体勢が崩れる。
「今だ!」
護衛が一気に詰める。
盗賊は森へ逃げられない。
その瞬間、もう片方が叫んだ。
「やめろ! 今日は撤収だ!」
(……撤収)
撤収という言葉に、悠一は違和感を覚える。
(……組織?)
(いや、組織ほどでもない)
だが、単独の盗賊でもない。
ラグスの仕掛けは、いつも“ちょうど嫌な線”を突いてくる。
(……俺に、考えさせるために)
盗賊が退こうとした、その瞬間。
道の反対側――子どもの泣き声が、さらに近づいた。
「危ない!」
誰かの叫び。
悠一の背筋が凍る。
荷車の周辺。
傾いた荷台の下を、子どもが潜ろうとしている。
(……馬鹿!)
(……違う)
(怖いんだ、だから母親に行きたい)
「止まれ!」
悠一は叫び、走った。
判断が、半拍遅れた。
ツムギが、強く揺れる。
(……まだだ)
(間に合わせる)
悠一は、糸を太くした。
縄。
無色の縄を、荷台の“落ちる側”に瞬間的に張る。
張ると言っても、空中ではない。
荷台と地面の間に、短い縄の壁を作る。
完全に止めるためではない。
落下の速度を殺すため。
子どもが荷台の下へ入る寸前、荷がずれた。
「――っ」
荷台が落ちる。
縄が受け、衝撃が和らぐ。
それでも――危ない。
悠一は、細い糸を一本、子どもの腰に絡めた。
引き寄せない。
青にしない。
ただ、転ぶ方向を変える。
子どもは荷台の下ではなく、横へ倒れた。
悠一が抱きとめる。
間に合った。
息が苦しい。
ツムギが、手首に触れた。
介入ではない。
加護でもない。
――確認のような触れ方。
(……遅れてない)
(……ギリギリだが)
悠一は子どもを抱え、母親へ渡した。
母親は泣きながら何度も頭を下げる。
「……すみません、すみません」
「謝るな」
悠一は短く言った。
「怖かっただけだ」
母親の肩が震える。
(……この町でも)
(人はまた、俺に頭を下げる)
期待が生まれる。
縁が絡む。
(……切れば楽だ)
(俺がここで、いなくなれば)
そんな考えがよぎり、すぐに振り払う。
(逃げない)
(ほどく)
⸻
状況は収束し始めていた。
荷車は安定。
盗賊は一人拘束され、もう一人は森へ逃げた。
怪我人は出ていない。
だが、悠一の胸の奥は冷えたままだ。
(……これは偶然じゃない)
彼の縁が――
不屈三牙、エルド、町の人々。
それらが強くなるほど、“絡ませる”者に利用される。
(……ラグス)
悠一は、森の奥を見た。
誰もいない。
姿は見えない。
だが、糸の感触だけが残る。
“置かれている”。
ラグスはここにいた。
見ていた。
測っていた。
そして、確かめた。
――全員を選べない状況でも、彼は切らずにほどこうとするか。
悠一は、手袋の上から糸を握った。
無色の糸。
細い糸。
「……切らない」
呟く。
言葉にすることで、自分の中の結び目を固定する。
その時、後ろから声がした。
「手際がいい」
エルドだ。
悠一は振り向く。
「……手際が悪い。ギリギリだった」
「ギリギリでも結果が出た」
エルドは淡々と言う。
「商いではそれを腕と呼ぶ」
悠一は苦笑した。
「俺は商人じゃない」
「知っている」
エルドは言う。
「だが、縁を結ぶのは商人の仕事でもある」
「……縁?」
「物と人を繋ぐ」
「信用を繋ぐ」
「次の取引に繋げる」
悠一は、少し黙った。
(……この男も、糸の人間だ)
形は違うが、同じだ。
「――旅人」
エルドが言う。
「この先、森を抜けるなら」
「気をつけろ」
「今日は撤収と言った」
「つまり、次がある」
悠一は頷いた。
「……分かってる」
「それに」
エルドは一拍置いた。
「今日のは盗賊だけじゃない」
悠一は、目を細めた。
「……何が言いたい」
エルドは、悠一の肩口を見た。
ツムギを見たのではない。
その奥――見えない何かを見るように。
「誰かが、あんたの道を選んでいる」
名は呼ばない。
だが、核心を突く。
悠一は、答えない。
答えられない。
(……ラグスだけじゃない)
(黒幕の影も、ある)
だが今は、目の前をほどくしかない。
悠一は荷車に近づき、裂けた縄を見た。
粗悪ではない。
刃が入っている。
「……これ」
「弁償は?」
護衛が慌てて言う。
「いや」
悠一は首を振る。
「修繕できる」
針を出す。
糸を出す。
無色の糸を、縄に縫い込む。
繊維を結び、補強する。
(……これが俺だ)
戦うだけじゃない。
壊れたものを縫い直す。
縁も、同じだ。
絡まっても、切らない。
ほどいて、結び直す。
縫い終わった頃、空が赤く染まっていた。
森の影が長く伸びる。
悠一は立ち上がる。
「……行く」
誰に向けた言葉でもない。
だが、エルドが短く言った。
「またな」
名は呼ばない。
それでも、確かに縁はある。
悠一は歩き出す。
森の入口へ。
ツムギは揺れない。
介入はない。
だが、背中に感じる気配は消えなかった。
見られている。
絡ませる糸が、どこかにある。
そして次は、もっと厄介だ。
“縁”そのものが武器になる。
悠一は糸を握り直す。
切れば楽だ。
だが――
「切らない」
もう一度、心の中で言った。




