第六話 人の世界に、足を踏み入れる
道は、少しずつ整っていった。
踏み跡が重なり、轍がはっきりし、脇に積まれた石が「ここを通れ」と語っている。人が往復し、荷を運び、立ち止まり、また歩き出す。その積み重ねが、線として残った道だった。
悠一は、その線の上を歩く。
糸を指に巻いたまま。
第五話の出来事が、頭の奥に残っている。
勝たなかった。追い払わなかった。逃げた。
それでいい、と自分に言い聞かせた。
だが同時に、同じ手が通じなくなる感触も、はっきりと掴んでいた。
――人は、学ぶ。
盗賊ですらそうだ。なら、町や村にいる人々は、もっと早く気づく。
「見えない糸」という違和感に、慣れてしまう。
「……だから、使いどころは選ばないと」
悠一は独り言のように呟き、道の先を見る。
煙が見えた。
薄く、白い。風に流れながらも、消えずに立ち上っている。
人の営みだ。
⸻
村は、小さかった。
木の柵に囲まれ、粗い板で組まれた家が十数軒。畑は整えられているが、余裕はなさそうだ。家畜の鳴き声と、土を踏む音が混じり合っている。
悠一は、村の手前で立ち止まった。
ここから先は、糸でどうにかなる場所ではない。
人の目。人の判断。人の常識。
異世界の常識は、まだ分からない。
だからこそ、余計なことはしない。
糸を軽く結び、袖の中に収める。
見せる必要はない。
深く息を吸い、吐く。
「……こんにちは」
声は、思ったよりも自然に出た。
畑で作業していた男が、顔を上げる。
警戒の色が一瞬だけ浮かび、すぐに薄れる。
「旅人か?」
「ええ、まあ……通りがかりです」
嘘ではない。
正確でもないが。
男は頷き、周囲に目を向ける。
武器を持っていないこと、装備が簡素なことを、きちんと見ている。
「水と、少し休ませてもらえませんか」
悠一は、条件を絞った。
要求は少なく。代価は、まだ出さない。
男は一瞬考え、肩をすくめた。
「金はあるか?」
「……ありません」
正直に答える。
誤魔化すより、こちらの方が話は早い。
男は溜め息をつき、顎で村の奥を指した。
「井戸は自由に使え。休むなら、日が落ちるまでだ。それ以上は、仕事を手伝え」
「……ありがとうございます」
頭を下げる。
条件付きだが、拒絶ではない。
それだけで、十分だった。
⸻
井戸の水は冷たく、澄んでいた。
喉を潤し、顔を洗う。現世で感じていた疲労はないはずなのに、こうして区切りをつけると、身体が落ち着く。
悠一は、井戸の縁に腰を下ろした。
周囲を見渡す。
村人たちは、それぞれの仕事に戻っている。誰も、こちらをじろじろとは見ない。
――いい距離感だ。
この世界では、旅人は珍しくないのだろう。
だからこそ、深入りもされない。
「……手伝えること、か」
仕事は、ある。
畑、修繕、運搬。
悠一は、近くの倉庫に目を向けた。
扉の蝶番が歪み、木板が浮いている。
「……あれなら」
糸を使えば、仮止めはできる。
だが、ここで能力を見せるべきかどうか。
悠一は、結論を急がなかった。
まずは、普通にやる。
倉庫に近づき、声をかける。
「扉、直します?」
年配の女が振り向いた。
「できるのかい?」
「完全には無理ですけど、しばらく使えるようには」
女は少し考え、頷いた。
「助かるよ」
⸻
木板を持ち上げ、位置を合わせる。
釘はある。
金槌もある。
悠一は、それらを使った。
糸は、まだ使わない。
釘を打ち、板を固定する。
だが、歪みが残る。これでは長くは持たない。
悠一は、そこでようやく糸を取り出した。
見えない位置。
蝶番の内側。
木と木を、軽く結ぶ。
強くは引かない。ただ、支える。
「……これで、負担は分散する」
女は、気づかない。
気づく必要もない。
扉は、きちんと閉まった。
「おお……」
感心の声が上がる。
だが、魔法だとは思われていない。ただの工夫だ。
それでいい。
⸻
夕方、簡素な食事が振る舞われた。
硬いパンと、薄いスープ。
それでも、温かい。
悠一は、無言で食べた。
村人も、無理に話しかけてこない。
日が傾き、空が橙色に染まる。
「……今日は、ここまでだな」
女が言い、うなずく。
「泊まるなら、倉庫だ。藁はある」
「十分です」
贅沢は言えない。
言わない。
⸻
夜。倉庫の隅。
悠一は藁に横になり、天井を見つめた。
糸を指に巻き、ほどけないことを確認する。
今日、糸はほとんど使っていない。
それでも――わずかに、増えている感触があった。
「……結んだ、か」
人と、場所と。
戦わず、助けすぎず、踏み込みすぎず。
この距離感が、糸に応えたのだろうか。
悠一は目を閉じる。
人の世界は、面倒だ。
だが、完全に避けては生きられない。
なら――
結べるところだけ、結ぶ。
糸を切らず、無理をせず。
そうして、今日も一日が終わる。
境界の草原は、もう遠い。
だが、糸はまだ、手の中にあった。
それだけで、眠る理由には十分だった。




