第五十七話 残ったものの重さ
橋を渡りきったあとも、
町の空気はすぐには戻らなかった。
人々は歩いている。
荷は運ばれ、商いは続く。
だが、声が低い。
視線が多い。
「……あの橋、通るのやめようか」
「いや、もう大丈夫らしい」
「糸の人がいたんだろ?」
名前は、まだない。
だが、存在だけが、先に広がっていた。
悠一は、町外れの宿で水を飲んでいた。
喉は渇いているのに、味が薄い。
(……残ったな)
体ではない。
心でもない。
空気だ。
ツムギは、肩口で静かだ。
揺れもしない。
(……余計なことは、していない)
そう言い聞かせる。
だが、
何も残らないはずがないとも分かっている。
⸻
昼過ぎ。
宿の主人が、声を潜めて話しかけてきた。
「……あんた、橋にいた人だろ」
否定も肯定もしない。
悠一は、黙って頷いた。
「怪我人が出なかったのは、助かった」
「だが……」
主人は、言葉を探す。
「次も、あんたが来るとは限らない」
その通りだった。
「……だから」
「町で、話し合いが始まった」
悠一は、顔を上げる。
「橋の警備をどうするか」
「人が多い時間帯はどうするか」
「……今まで、考えてなかったことだ」
(……考えさせてしまった)
それは、良いことか。
悪いことか。
「……あんたが、正しいとは言わない」
主人は続ける。
「だが、何も起きなかった」
「それは、事実だ」
悠一は、頭を下げた。
それ以上の言葉は、出なかった。
⸻
町を出る前。
橋のたもとで、足を止める。
事件の痕跡は、もうない。
剣の跡も、糸の名残も。
(……消えるのは、早い)
だが、
人の記憶は、そう簡単には消えない。
母親と子どもが、橋を渡ってくる。
子どもは、足取りが遅い。
怖がっている。
母親が、悠一に気づいた。
一瞬、迷い――
そして、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
声は、小さい。
だが、確かだ。
悠一は、何も言えなかった。
返せる言葉が、見つからない。
子どもが、ちらりとこちらを見る。
怯えは、もうない。
(……それで、いい)
それだけを思う。
⸻
町外れ。
街道に出ると、風が変わった。
人の匂いが薄れ、
空が広くなる。
悠一は、歩きながら糸を確かめる。
無色。
細い。
太さも、色も変わらない。
(……強くなった、か?)
答えは、出ない。
だが――
迷い方は、変わった。
ツムギが、ほんのわずかに揺れた。
介入ではない。
同意でもない。
ただ、
記録。
(……これも、縁か)
悠一は、歩く。
町は、少しだけ変わった。
人も、少しだけ考えるようになった。
それが、良いか悪いかは、分からない。
だが――
起きてしまった以上、引き受けるしかない。
遠くで、鐘が鳴る。
日常が、戻っていく音だ。
悠一は、振り返らない。
次に待つのは、
もっと狭い選択肢かもしれない。
それでも――
歩くことだけは、やめなかった。




