第五十六話 橋の上で、選べなくなる
橋は、古かった。
石積みのアーチはところどころ崩れ、欄干には補修の痕が残っている。
だが、この街道を使う者にとっては重要な要衝だった。
川幅は広い。
流れは速い。
落ちれば助からない。
悠一は、橋の手前で足を止めた。
(……ここか)
理由は分からない。
だが、胸の奥がざわついている。
ツムギは、揺れない。
警告ではない。
だが、無関心でもない。
(……選択肢が少ない場所)
橋は一本道。
逃げ場はない。
人も、いる。
荷を運ぶ商人。
徒歩の旅人。
子ども連れの家族。
(……嫌な条件が揃ってる)
悠一は、糸に指を掛けたまま、歩き出した。
⸻
異変は、橋の中央で起きた。
「止まれ!」
怒声。
前方で、男が一人、剣を抜いて立ちはだかっている。
だが、盗賊にしては様子が違う。
震えていない。
焦ってもいない。
――計算している目だ。
(……仕組まれてる)
悠一は即座に理解した。
背後。
振り返るより早く、別の気配。
橋の両端が、塞がれている。
逃げ道は、下しかない。
「落ち着いてください!」
誰かが叫ぶ。
人々が、ざわめく。
恐怖が、連鎖する。
(……人が多すぎる)
(……糸は、張れない)
赤は危険。
青も危険。
縄にすれば、巻き込む。
綱など論外だ。
(……結べない)
判断が、詰まる。
その瞬間――
糸が、見えた。
橋の欄干。
一瞬だけ、
無色の糸が、そこに“置かれている”。
(……ラグス)
確信。
「……目的は何だ」
悠一は、声を張らずに言った。
剣を持つ男は、答えない。
代わりに――
人の流れの中から、彼女が現れた。
外套を羽織り、
静かに歩く。
「……こんにちは」
ラグス。
声は穏やか。
だが、逃げ場はない。
「これは、あんたのやり方じゃない」
悠一は言う。
「縁を置く」
「選ばせる」
「……今回は、違う」
ラグスは、首を傾げた。
「違わないわ」
「選択肢を、削っただけ」
周囲の人々が、息を呑む。
「橋を渡る」
「引き返す」
「落ちる」
「……三択よ」
(……最悪だ)
悠一は、歯を食いしばる。
(……人を、使ってる)
「……それで、何を見たい」
ラグスは、しばらく悠一を見つめた。
そして、静かに言う。
「あなたが、誰を優先するのか」
その瞬間。
前方の男が、剣を振り上げた。
狙いは――
子どもを抱えた母親。
「――っ!」
悠一の判断が、半拍遅れる。
(……来るな)
ツムギが、一度だけ揺れた。
だが、まだ介入しない。
(……俺だ)
悠一は、糸を引いた。
色は変えない。
太さを――
縄にする。
無色の縄が、
剣を持つ男の足元に絡む。
引かない。
倒さない。
踏み込みを奪う。
男の剣が、空を切る。
同時に――
悠一は、声を張った。
「下がれ!」
「橋の中央を空けろ!」
誰の命令でもない。
だが、迷いのない声だった。
人が、動く。
恐怖が、秩序に変わる。
(……間に合った)
その瞬間。
ラグスが、初めて眉をひそめた。
「……速いわね」
「……遅れたら、終わってた」
悠一は、息を切らしながら答える。
「……それが、あなたの答え?」
「誰を優先した?」
悠一は、視線を逸らさない。
「全員だ」
「……欲張り」
「否定はしない」
縄を解く。
男は、拘束される。
橋の上に、静寂が戻る。
⸻
しばらくして。
人々は、ゆっくりと動き出した。
誰も、怪我をしていない。
ラグスは、橋の端に立つ。
「……結ばなかったわね」
「縛らなかった」
「でも――」
「……背負った」
悠一は、静かに言う。
「選んだ結果を」
「全部」
ラグスは、少しだけ目を伏せた。
「……危うい」
「でも」
一拍。
「嫌いじゃない」
次の瞬間、
彼女の姿は、人混みに紛れて消えた。
⸻
橋を渡り終えた後。
悠一は、川を見下ろした。
流れは、速い。
(……落ちてたら、終わりだった)
ツムギが、そっと腕に触れる。
介入ではない。
加護でもない。
(……遅れなかった)
それだけで、十分だった。
悠一は、歩き出す。
だが、胸の奥に残る感覚は消えない。
次は、もっと削られる。
選択肢も、時間も。
ラグスは、もう止まらない。
そして――
自分もまた、
戻れないところまで来ている。




