第五十五話 置く者が、歩き出す
夜明け前の空は、まだ色を持たない。
薄灰色の世界で、ラグスは一人、丘の上に立っていた。
足元には街道。
その先には、町。
さらにその先には――彼。
「……使わなかった」
低く、独り言のように呟く。
人質。
混乱。
多数の視線。
力を使えば、終わらせられた。
糸を太くすれば、制圧できた。
それでも――
彼は結ばなかった。
「……選ばせた」
ラグスは、目を細める。
それは、自分のやり方に近い。
だが、決定的に違う。
(私は、置く)
(彼は……背負う)
縁を置き、選択を迫る自分。
縁を結ばずとも、結果を引き受ける彼。
「……厄介ね」
笑みはない。
ただ、
警戒に近い感情が胸に残る。
⸻
ラグスは、歩き出した。
これまでは、距離を保っていた。
見て、測って、待っていた。
だが――
彼は、想定よりも早く“次の段階”に踏み込んだ。
「……これ以上、遠くからでは足りない」
指先で、糸に触れる。
無色。
細い。
自分の糸は、縛らない。
引き寄せない。
ただ、
分岐点を作る。
(彼が、どちらを選ぶのか)
(それを、もっと近くで見る)
⸻
町の外れ。
ラグスは、人の流れに溶け込む。
目立たない。
だが、消えてもいない。
「……噂、聞いた?」
「糸の人の話?」
「使わなかったらしいわね」
「……普通、逆でしょ」
言葉の端々に、評価と困惑が混じる。
(……世界が、彼を測り始めている)
それは、好意ではない。
敵意でもない。
期待だ。
ラグスは、それを危険だと知っている。
期待は、
人を縛る。
「……さて」
彼女は、小さく息を吐く。
「次は、選択肢を一つだけにしてあげる」
それは、悪意ではない。
試練でもない。
確認だ。
⸻
夕暮れ。
街道沿いの古い橋の上で、ラグスは立ち止まった。
ここは、逃げ道が少ない。
人も通る。
事件が起きれば、
彼は必ず来る。
(……来なければ、それまで)
(来たなら――)
ラグスは、糸を一本、橋の欄干に結びつけた。
張らない。
縛らない。
ただ、
目印を置く。
「……選びなさい」
誰に向けた言葉でもない。
だが、
確実に届く場所だった。
⸻
同じ頃。
遠く離れた街道で、
悠一は、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
理由は分からない。
ただ――
進むべき方向が、少しだけ重く感じた。
ツムギは、揺れない。
警告ではない。
介入でもない。
(……来た、か)
悠一は、足を止めずに歩き続ける。
知らないまま。
だが、避けられない。
世界はもう、
彼を“選ばせる段階”を終えた。
次は――
選ばせない。
ラグスは、動き出した。
そして、
物語もまた、
一段、深く踏み込んだ。




